時計を直せる人が戻ってきたと、商店街の人たちは喜んだ。戸倉は戻ったのではなく、空き店舗の安い家賃に引かれて借りただけだった。祖父の店だったということは、契約してから知った。祖父は彼が生まれる前に店を売っていて、母もこの町では育っていなかった。
店先の丸い時計だけが残っていた。軒から吊り下げる両面の時計で、道のどちらから来ても見える。針は四時十二分を指していた。動かない時計にも役目があるらしく、待ち合わせは時計の下、回覧板も時計屋へ置いていく、と皆が言った。開店前から戸倉のカウンターに町内の書類が積まれた。
修理を頼んだのは、向かいの乾物屋の多佳だった。商店会の会計もしていて、補助金の残りで費用を出せるという。戸倉は見積もりを引き受けた。通電していないことを確かめ、脚立で時計を下ろした。ケースの裏に、外した歯車が一個、紐で結びつけられていた。捨てずに次の修理へ残したようだった。
古い部品を掃除して並べると、不思議なほど減りが少なかった。長く止まっていたせいだろう。戸倉は二日かけて動くところまで整えた。紐で残されていた歯車は、やはりそこへ収まるものだった。欠けた箇所もない。元の位置へ戻すと、針はぎこちなく進み始めた。
その晩、店の奥で寝息がした。まだ引っ越したばかりで、住居には段ボールが並んでいた。戸倉は裏口の鍵を確かめた。誰も入っていない。配管の音かと思い、台所の蛇口を開いて閉じた。音は止まらず、喉の奥で小さく鳴るように続いた。時計を置いた作業台の下からだった。
床へ手をつくと、ぬるかった。暖房は使っていなかった。彼は台の下を照らし、何もないことを確かめた。明かりを消して立ち上がると、音も少し高い位置へ来た。昼間座っていた椅子の背が、わずかに沈んだ。戸倉はその晩、上着を着たまま表のベンチで明け方を待った。
翌日、時計を戻す前に多佳が来た。珍しく欠伸を隠さなかった。「昨日、よく寝られて」。眠れたのに眠そうだと思ったが、戸倉は黙っていた。多佳は店の戸口でつまずき、何もない床へ目を落とした。誰か横になってるかと思った、と笑った。戸倉には笑えなかった。
時計を軒へ戻すと、道を通る人が足を止めた。肉屋の主人は帽子を取って見上げたまま、急に首を落とした。眠ったのだと思い戸倉が駆け寄ると、主人は目を開けた。「ちょうどよかった」。何が、と聞いたが、肉屋は惣菜がもうすぐ揚がるからと言って店へ戻った。
昼前、多佳から店へ来てほしいと呼ばれた。乾物の袋が床に散っていた。客の老婦人が、袋を受け取る途中で寝てしまったらしい。老婦人は椅子に座り、すまなかったと謝っていた。顔色は悪くない。むしろ頬が赤かった。多佳は売場の時計を指した。戸倉の時計とぴたりと合っていた。
道の時計が動き出したから店のも直した、と多佳は言った。五分進める癖をやめ、正確に合わせたのだという。戸倉は老婦人を家まで送ることにした。二軒先の玄関で、若い男が寝ていた。作業着を着て、壁へ背を預けていた。老婦人はその横を通り、うちの人だから、と言った。
戸倉は男へ声をかけなかった。老婦人の夫は亡くなったと、店の契約のとき聞いていた。空き家になった倉庫を使わせてもらう話で、持ち主の名前を確かめたから覚えている。帰りに振り返ると、若い男は玄関から首だけを出し、目を閉じたままこちらを向いていた。
多佳へ話すと、彼女は何も知らないと言った。知っていたとしても答えたくない顔だった。「時計、少し止めておく?」。戸倉が聞くと、多佳はすぐ、止めないで、と返した。彼女はそれから小さな声で、夫の介護をしていたころのことを話した。夜、目を閉じると呼ばれ、呼ばれなくても起きてしまったそうだ。
夫は半年前に施設へ入った。けれど多佳はまだ、夜に台所で椅子へ座ったままだという。「昨日、二時から寝たの。二時に寝たって分かったのは初めて」。時計を動かしたのは午後二時だった。戸倉は作業台に残った部品を思い浮かべた。歯車を元へ戻した時刻と合っていた。
夕方から商店街のあちこちで、人が座りこんだ。皆眠るのではなく、眠る直前のような顔をした。赤ん坊を抱いた若い母親、配送の男、たばこ屋の老人。呼ぶと目を開けるが、すぐに別のほうへ顔を向ける。戸倉は自分の店の時計を外し、作業台へ戻した。
針を止めようとすると、台の下から低い音がした。昨夜の寝息より太く、天井板に響いた。戸倉は手を止めた。時計の裏から外した小さな金具が、自分の指へ跳ねた。熱いところへ触る前に、誰かが手を叩いたようだった。指を引くと、針の軸が一度大きく回り、留め具を飛ばした。
飛んだ留め具は、床に落ちず戸倉の胸ポケットへ入った。彼は動けなかった。助けられた、と思ってしまったからだった。そんな判断をする根拠はない。古い機械が偶然はねただけかもしれない。それでも時計の中へもう一度手を入れるのは、怒っている獣の口へ指を入れるように感じた。
店の外で多佳が呼んだ。両手で重そうなものを抱えていたが、何も見えなかった。「重いの」と彼女は言った。戸倉が腕へ手を添えると、暖かい背中のようなものに触れた。小柄な人間が丸くなっている厚みがあった。二人で椅子へ置くと、座面が深く沈んだ。
「誰ですか」
戸倉は聞いた。多佳は分からないと首を振った。店の閉店作業をしていたら、自分の肩へ頭が載ったのだという。重みが増え、抱えなければ立っていられなくなった。「夫じゃないのは、分かる」。彼女は沈んだ椅子の背へ手を置き、そのまま離せずにいた。
夜になると、見えない重さを抱えた人が何人も店へ来た。肉屋の主人は片側へ肩を下げ、老婦人は腰へ手を回していた。皆、自分の家ではもう眠れないと言った。昼は眠れたのに、暗くなると身体を休める場所がなくなったらしい。布団に先に誰かが入っているのだという。
戸倉は時計の針を見た。六時二十分だった。携帯も同じ時刻だった。老婦人の腕時計は六時十七分。多佳は店の時計を合わせたという話をまた始めた。戸倉は聞きながら、修理する前に四時十二分を指していた針を思い出した。なぜその時刻で止めてあったのか。
彼は店の契約書と一緒にもらった古い写真を出した。祖父が店にいたころの写真だった。軒の時計は、左右で違う時刻を指していた。片側は四時十二分、もう片方は八時より少し前。戸倉は外すとき、片側だけを見ていた。作業台で正しく組み直したことで、両面を同じ時刻にしてしまった。
多佳へ写真を見せると、そうだったかも、と言った。肉屋は自分の親が、こっちの時間は見ない、と話していたのを覚えていた。誰も理由を知らない。止まった時計のことを、時間を掛けて気にする人などいなかった。戸倉は片側の針だけを少し動かした。
椅子が鳴った。見えないものの背が起きたらしく、多佳の手が押し上げられた。彼女は息を詰めた。戸倉が針を戻すと、椅子はまた沈んだ。表と裏の時刻の差が、眠る場所をずらしているのかもしれない。そう口にする前に、店の奥で何かが立ち上がった。
戸倉の布団が廊下を出てきた。まだ段ボールの上へ畳んであったものだった。形はそのままで、床の上を低く滑ってきた。中に人を包んでいるような厚みがあった。入口まで来ると布団の端がめくれ、祖父の写真と同じ模様の靴下が見えた。母の話では祖父は裸足で寝る人だった。
戸倉は、祖父だと思って呼びかけることをやめた。中へ詰まっているのは一人ではない。布団の襟元と足元から、違う間隔の寝息が出ていた。ひとつ息が終わる前に、次の息が続く。店の低い音とつながり、壁を押すほど大きくなった。戸倉は耳を押さえず、工具を取り直した。
時計を壊せば、その中にいるものがどこへ行くか分からない。戸倉は表の針を外し、裏の針はそのまま動かした。違う時間を指せるよう、固定していた部品を分けた。手元が震えた。多佳が照明を持ち、肉屋の主人が時計を押さえた。彼の片肩から、見えない重みがゆっくり作業台へ移った。
ねじを緩めたとき、さっきポケットへ入った留め具が指に当たった。戸倉はそれを取り出して使った。元の部品は合わないはずなのに、ちょうどよいところで止まった。時計が、自分の手を待っている気がした。彼は誰にもそう言わず、片側の針を斜め下へ置いた。
何時でもない位置だった。短針と長針が別々の数字の間に立ち、もう片面だけが時を刻んだ。低い音が切れ、店の中に咳が一つ残った。多佳の持つ照明が軽くなった。椅子の窪みが戻り、廊下の布団が床へ平たく広がった。靴下は見えなくなった。
皆を帰したあと、戸倉は時計を軒へ戻さなかった。戸口の内側へ置き、片面だけを道路へ向けた。正しい時刻を告げる時計ではなくなった。見積もりの金額をどうするか聞かれ、直したと言えないので受け取れません、と答えた。多佳は少し考え、部品代だけは払うと押し切った。
その夜、戸倉は自分の布団で初めて眠った。引っ越してからずっと、壊れた時計の音や仕事の残りが気になって眠れずにいた。夜中に一度だけ目が覚めた。店のほうで、眠った人が寝返りを打った。戸倉は照明をつけず、廊下へ声をかけることもしなかった。
商店街の人が一斉に眠りこむことはなくなった。多佳は今も夜眠れない日があるという。そんなときは自分の店の時計を少し進め、茶を飲む。戸倉に直してくれとは頼まない。回覧板を持ってくると、戸口の時計を見ずに、今日は仕事が多いね、と作業台を見る。
戸倉は閉店前に、表と裏を一度ずつ覗く。片側の針は動き、もう片側は相変わらず半端な位置にある。店へ来た子供が、その時計は寝てるの、と聞いたことがある。戸倉は返事をしなかった。動かないほうの文字盤に、指を丸めた手の跡がついていた。眠っている人が、内側から触れたようだった。


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