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お話が済むまで

山崎さんと同じ部屋になった人は、翌朝だいたい機嫌が悪かった。いびきのせいではない。寝るまでが長いのである。布団を敷いてから、昼間の見学先の係員に顔の似た知り合いを思い出し、その人が飼っていた犬の話に移る。誰かが話を切ろうとすると、そういえば犬、とまた別の犬が出てきた。

私たちは、取引先も交えた工場見学の帰りだった。毎年同じ顔触れで集まり、一泊して帰る。会社を辞めても参加する人が何人かいて、山崎さんもその一人だった。私は幹事を手伝う立場だったので、彼と相部屋になった。六人の大部屋だったが、話を聞いているのは途中から私だけになった。ほかの四人は見事に寝たふりをした。

宴会の前にも、変なことはあった。風呂から戻る途中の窓際に、女の人が立っていた。外の庭で小さな催しをしていて、木に巻かれた電球が点いたり消えたりしていた。女性は薄い生成り色の服を着ていた。部屋に用意された浴衣とは違い、襟にも袖にも柄がなかった。庭に背を向け、こちらを向いているのに、目を閉じていた。

女性のそばを通ると、名前を聞かれた。私の名を名乗ると、そうではなくて、と首を振った。どちらのご一行ですか。私は会社の集まりですと答え、宴会場の名前を言った。女性は、あちらですか、と廊下の先を指した。その指が袖から長く出ていた。白い爪の根元が、一本ずつよく見えた。
「あとで伺います」
そう言われた。私は宿の人だと思った。

食事が進んだころ、山崎さんが箸袋で妙な形を作っていた。鳥に見えたので鶴ですかと聞くと、これは足を捻った鶴だと言った。隣の人が笑い、本人も笑った。そんなの折れるんですかと、私も袋を渡した。山崎さんは手を止めて、足を捻ったときの話を始めた。教習所で一本橋から落ちたそうだ。そこで、部屋の入口に女性がいるのが見えた。

襖は少しだけ開いていた。隙間から顔だけが出ていた。女性はまだ目を閉じていたが、こちらを向いて、微笑んでいた。私は追加の飲み物を頼もうと思い、手を上げかけた。すると山崎さんが、人の話を聞いてないな、と私の手を下げさせた。
「一本橋って、あるでしょう」
「はい」
「君は、あるって言うけど、見たことないでしょう」
二輪の免許は持っていたが、黙って頷いた。

襖をもう一度見ると、女性はいなかった。閉める音はしなかったと思う。山崎さんは、橋から落ちてすぐ教官へ文句を言ったが、自分の足が短かっただけだった、と話を結んだ。本人が笑ったので、周りも笑った。私は飲み物を注文する機会を逃したことが気になり、壁の電話で頼んだ。持ってきたのは別の、年配の従業員だった。

部屋へ戻ると、布団が敷いてあった。山崎さんは自分が眠る場所より先にテレビを決めた。競馬の結果を見て、買わないと来るんだ、と一番人気の馬を指した。私が荷物の整理をしている間に、窓際の椅子へ移り、今度はラジオをいじっていた。ほかの人たちが風呂へ出たり飲み直しに行ったりして、しばらく二人になった。

窓の外から、指で軽く叩く音がした。二階だった。庭に張り出した屋根が下にあり、修理の人なら来られるのかもしれないが、もう夜の十一時近かった。山崎さんはラジオから聞こえる声へ、違うだろう、と返事をしていた。窓のカーテンが少し開いて、女性の顔が見えた。顔はガラスのすぐ外にあった。

私は思わず山崎さんの肩を掴んだ。彼はびくっとして、何だよ、と声を上げた。それから私の目線を辿り、カーテンを見た。女性は消えていた。
「窓の外に、人が」
山崎さんは椅子から立ち上がり、カーテンを端まで開けた。ガラスには二人の姿と部屋の灯りしか映っていなかった。
「寝ぼけるには早いな」
彼はそう言って笑い、私の顔を覗いた。

本当に顔色が悪かったのか、山崎さんは少し真面目になった。私は廊下と宴会場でも同じ人を見たと話した。彼は何度も頷き、昔泊まった宿で鼠が出た話を始めた。鼠も窓から来たんですか、と聞くと、いや、どこからだろう、と考え込んだ。私はその脱線に、さっきまでとは違うありがたさを感じていた。

仲間が戻ったので、窓の外の話はやめた。皆すでに酒が回り、冷蔵庫の料金をめぐって揉めたり、誰の歯ブラシか分からなくなったりしていた。山崎さんはさらに元気になった。宴会のときから一滴も飲んでいなかった。家でもこんなに喋るのかと聞かれ、家だと相手がいない、と答えた。奥さんとはずいぶん前に別れていた。

夜中に目が覚めた。廊下から、小さな声がしていた。
「どうぞ、こちらへ」
宿の人が誰かを案内しているのかと思った。私は横になったまま、入口を見た。そこへ、軽いノックが二度あった。
「お話、よろしいでしょうか」
例の女性の声だった。私は布団を顎まで引き上げた。誰も起きなかった。声を潜めて山崎さんを呼んだ。

山崎さんは窓側の布団から顔を上げた。まだ眠っていなかったらしい。眠れないのか、と聞くので、ええ、と答えた。さっきの鼠の話はどうなったんですか、と訊いてみた。彼は少し黙ってから、あれは鼠じゃなくて大きな蛾だったかもしれない、と言った。私は笑った。自分でも無理な笑い方だと分かったが、山崎さんは気にしなかった。

入口の外が静かになった。私はほっとしていた。偶然かもしれない。それでも、山崎さんが話し始めるたび、女性はいなくなる。明るい人にはそういうものが寄れないと、どこかで聞いた気もした。私は彼の寝癖を見ながら、今夜この人と同室でよかったと思った。話を長引かせるため、鼠と蛾を間違えるものですかと、わざと異を唱えた。

そのあと一時間近く、山崎さんは喋った。話に出てくる人を私はほとんど知らなかった。聞き返すと、その人の説明でまた話が伸びた。途中で仲間の一人が目を開け、まだ起きてるのか、と呆れたように言った。山崎さんは、若い人が聞きたいって言うからさ、と私を指した。私は謝った。気がつくと、足の冷たさも治まっていた。

山崎さんが話を止めたのは、喉が渇いたからだった。枕元の湯呑みは空だった。私は自分の水の瓶を渡した。彼は礼を言って飲み、残りを返した。
「もう寝よう。明日、早いんだから」
私は、さっきの続きは、と言った。彼は笑った。
「続きも何も、終わってるよ」
本当に終わっていたらしい。私は何か、別の話を探した。

廊下から、衣服の擦れる音がした。私は瓶の蓋を強く締めた。山崎さんは布団を胸まで掛け、楽な姿勢を探して足を動かしていた。私は手を伸ばし、その肩をもう一度叩いた。
「まだ寝ないでください」
山崎さんは目を開けた。さっきのようにからかわず、少し困った顔をした。
「私は明日、運転するんだよ」
帰りは途中から自分の車だという。私はそのことを知らなかった。

二度、入口を叩く音がした。
「よろしいでしょうか」
女性は急かしていなかった。私は返事をしなかった。山崎さんも、そちらへ目を向けた。
「誰か来てるよ」
「さっきの人です」
「さっき?」
私は窓、と小さく言った。山崎さんは寝返りを打つのをやめた。しばらく入口を見てから、私を見た。
「宿の人だろう。そんなに待たせちゃ悪いよ」

山崎さんは起き上がった。私は腕を掴んだが、彼は困ったように笑い、また始まった、と言った。半分寝ていたほかの人まで顔を上げたので、私は手を離した。山崎さんは布団を踏まないよう、間を縫って入口へ行った。私も後ろへついていった。止める言葉は出ず、背中の浴衣を見ていた。彼が戸の鍵を外した。

開いた隙間から、女性の顔が覗いた。宴会のときと同じ笑顔だった。山崎さんは大きく戸を開け、どうしたんですか、と尋ねた。私は横から廊下を見た。女性の胸元が開いていた。薄い上着を脱ぐところなのかと思った。だが、その下にあるはずの肌の色が違った。濡れた桃を剥いたような、黄ばんだ光沢があった。

女性は片腕を抜いた。袖が長く垂れ、その先で指が五本、ばらばらに揺れた。彼女はそれを丁寧に畳み、もう片方の腕へ掛けた。襟だと思った縁には、短い毛が並んでいた。腕にも胸にも、布はなかった。自分の皮を、肩から静かに脱いでいるのだった。私は後ろへ下がり、寝ている人の足を踏んだ。怒鳴り声がした。

女性は手を止めた。折り畳んだものから、指が一本だけ垂れていた。
「長いお話を、すみません」
女性は山崎さんへそう言った。彼は、いえいえ、こっちこそ、と笑った。待っていたんですか、と聞いた。
「はい。お済みになるまで」
女性は丁寧に頭を下げた。腕に掛けた皮の手が、山崎さんの浴衣へ触れた。山崎さんは気にせず、お待たせしました、と一緒に頭を下げた。

私は布団の間へ戻った。目を覚ました人たちは、どこを踏んだのか、自分の足を確かめていた。山崎さんは入口で私を呼んだ。
「君に話だって」
返事ができなかった。彼は、ほら、起きてるでしょう、と女性へ私を示した。それから大きく欠伸をし、私の横を通って自分の布団へ戻った。入口は開いたままだった。廊下の灯りの中で、閉じた目の女性が、私が出てくるのを待っていた。

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