薬の袋を持った母の手が、玄関で鳴った。小さな鈴の音だった。鍵でも一緒に入れたのかと思ったが、母は、また入ってる、と言った。その言い方で、初めてのことではないと分かった。
母を病院へ送るのは月に一度、私の役目だった。治療の話は母と先生がし、私は会計を待ってから車を出す。帰りにスーパーへ寄る。駐車場が混むので、いつも母を少し急かしていた。
母は薬の入った大きな袋から、処方された小袋を全部出した。底に、銀色の鈴が一つ残った。首から下げる物でもない。紐を通す輪がなく、真ん中に細い割れ目があるだけだった。
薬局で見てもらおうと言うと、母はやめて、と袋の口を閉じた。前にも聞いたが知らないと言われたらしい。自分の物を入れたのではないかと確かめられ、恥ずかしかった、と言った。鈴を持っていた覚えはないそうだった。
母は六十六で、長く家事の手伝いに通う仕事をしていた。今は辞めている。それでも近所の人から頼まれると、台所を片づけたり、買物へ付いていったりした。自分の通院の日にも、他人の用事を一つ増やして帰る。
私にはそれが気に入らなかった。足が痛いと言いながら、人の家の階段を上がる。家にいてくれれば安心なのに、と思っていた。母は、座ってるほうがつらい、と言った。どちらのつらさの話か、私は聞かなかった。
鈴をつまんで出すと、台所の奥で男が咳をした。私は振り返った。父の咳に似ていた。父は離婚して別に暮らしており、ここへ来ることはない。母は驚かず、そっちへ置いて、と新聞紙を指した。
「聞こえた?」
私が聞くと、母は、聞こえるよ、と答えた。鈴が鳴ると、誰かに頼まれたことを思い出すのだという。水を持ってきてとか、蓋を開けてとか、そんな小さなことばかりだった。
母が言い終える前に、私の足元で、水、と声がした。男とも女とも分からない。母は湯呑みを持って立った。私はその手を止めた。
「誰に持っていくの」
母は廊下を見た。どこへ行くか、本人にも分からなかった。
湯呑みを食卓へ戻すと、鈴が一度鳴った。誰も触れていない。母は急いで自分の薬を確認し始めた。さっきまで別にしてあった小袋が、大きな袋の中へ戻っていた。紙が擦れる音に、別の紙を折る音が重なった。
その日は鈴を私が預かった。母が嫌がるので、捨てずに見てもらうだけだと言った。袋へ入れて車に積み、いつも世話になる修理屋へ寄った。金属の物なら、何でできているかぐらい分かるかと思った。
店主は鈴を回し、球がないな、と言った。割れ目から中をのぞき込んだが、暗くて見えない。私は触らないでほしいと頼み、紙に包んで持ち帰った。口に出してから、何を見てもらいに来たのだろうと思った。
家へ帰ると、包みは空だった。紙は折ったままで、鞄の中にも落ちていない。母へ電話すると、薬の袋に戻ってる、と答えた。責めるような声ではなかった。これまでも何度か、そうなったのだという。
母の家へ戻った。鈴は袋の底にあった。私は小袋を全部机へ並べ、その場で写真を撮った。母が間違えたのではないと、自分へ示したかった。撮影中、母が小さく痛いと言い、指を口へ持っていった。
左の人差し指の付け根に、銀色のものが出ていた。点ほどの傷から、丸い金属の面が見えていた。母が手を振ると、そこから鈴が落ちた。さっき袋へあったはずの物だった。袋の底は空になっていた。
私は母の手を洗い、病院へ電話した。鈴が出たとはうまく説明できず、指から金属の異物が出たと言った。診てもらうことになり、その日は二度目の病院へ行った。母は待合で、隣の人の荷物を持とうとした。
止めると、母は困った顔をした。相手の人は母へ何も頼んでいなかった。母が差し出した手を見て、ありがとう、でも大丈夫、と言った。その直後、私の鞄の中で鈴が鳴った。母は肩で息をついた。
傷は小さく、診察のときには血も止まっていた。鈴も見せたが、それが傷から出たことまでは確かめようがなかった。薬の扱いはいつも通りでいいと言われた。私は処方された物と鈴を混ぜないよう、別の容器へ分けた。
夜、母は居間へ布団を三枚出していた。泊まりに来る人は誰もいない。訪ねてきた姉が、どうしたの、と立ったまま聞いた。母は、寒いといけないから、と枕を並べた。誰が寒いのかを聞くと、返事をしなかった。
姉は鈴の話を知っていた。私より先に母から聞いていたのだ。
「薬が余るから、気になってた」
飲み忘れを確かめるつもりで袋を開けたとき、知らない女に叱られたという。まだこっちが済んでない、と。
私たちは母の実際の薬を一緒に確かめた。残り方に変なところはなかった。余っているように見えたのは、袋の中に折った白い紙が増えていたからだった。母はそれを、誰かの分だと言った。開くと一枚にも文字がなかった。
姉が紙を広げるたび、母が何かを約束した。はい、あとで行きます。今夜も見ます。朝までにはします。相手の声は私たちには聞こえない。母の声だけが、仕事中のきちんとした調子になっていた。
私は姉の手を止め、紙を伏せた。母はようやく口を閉じた。唇の内側に、薄い銀色のものが見えた。鈴の縁に似ていた。母は気づかず、お茶を入れようか、と私たちを見た。
母が辞めた仕事で、やり残したことがあるのかと姉が聞いた。母はたくさんある、と答えた。最後まで片づけられなかった家も、次に行く前に相手が亡くなった家もあった。終わる前に辞めたような気がしていた、と言った。
「また来ますって言ったから」
母は私たちを見ずに話した。それなら鈴がなる前から言っていたはずだ。私は最初に何があったのか尋ねた。母は通院の帰りに、空っぽの待合で誰かの杖を拾ったと言った。忘れ物だろうと思い、受付へ渡した。
そのとき、次もここで待っていればいいですよ、と心の中で思った。誰に向けて思ったのかは覚えていない。杖はその後どうなったかも知らない。私は杖を探そうとしたが、母は首を振った。もう杖の人だけではない、という。
居間の布団が動いた。誰も入っていないのに、一枚の端が内側へ折れた。母が立つと、向こうの布団も膨らんだ。姉が母を椅子へ座らせた。私は布団を持ち上げようとして、その下に両足を見た。
足は床から生えていた。どちらも踵だけで、爪先は布団の中へ続いている。人が寝ているなら頭のあるはずの場所で、古い湯呑みが転がった。母がそれを拾おうとするので、姉は腰を抱いて止めた。
私は鈴をプラスチックの容器から出した。振ったわけではなかったが、指で挟むと鳴った。今度は私の耳元で、起こして、と声がした。布団の端が少し持ち上がった。私が手を出すと、母がそれより早く動こうとした。
母は誰かを世話したいだけではなかった。頼みを聞くと、身体が先に立つ。自分でも止められず、泣きそうな顔をしていた。姉が母の両手を握り、私へ、その袋、外へ持っていって、と言った。
私は紙と鈴を袋へ入れ、玄関へ出た。戸の外に、人が何人も立っていた。顔は見えない。足元に大小の荷物が置かれ、誰も家の中をのぞこうとはしていなかった。ただ、私が荷物を持つのを待っていた。
「母は行けません」
私は袋を胸へ抱えた。相手は動かなかった。もう一度言うと、一番手前の人が、自分の膝を押した。膝は反対側へ曲がった。治せるか、と聞かれた気がしたが、声はしなかった。
私は治せないと答えた。母にもできない、と続けた。その人は膝を元へ戻し、荷物を持った。後ろへ下がると、別の人が来た。薬を飲んでいないと分かった。どうして分かるのかは言えない。私の口がひどく苦くなった。
自分の家族へ頼んでください、と言うと、その人は急に顔を上げた。母の顔だった。私は間違えたことを言ったと思った。誰の家族かをこちらが決めれば、また母へ頼みが戻る。私は、自分にも母にも引き受けられません、と言い直した。
一人ずつ断った。何人いたかは覚えていない。黙って消える人も、立ったまま動かない人もいた。姉が玄関の内側で母に話しかけていた。今日は何を食べたか、テレビを見たか。頼みごとにならない話ばかりだった。
最後に、子供の声がした。
「置いていかないで」
私は自分の声だと分かった。父と母が別れたとき、私はどちらへ付いていくか聞かれた。母の上着へ顔を押し付け、そう言った。母は誰に頼まれたことよりも、その言葉を覚えていた。
子供の姿はなかった。袋の底に小さな重さがあり、私の指へしがみついていた。鈴の割れ目に指の皮膚が挟まっている。引くと痛かった。私は、もう大人になった、と言いかけたが、それは子供へ言う言葉ではないと思った。
袋を持ったまま、玄関の外の段へ座った。姉へ母を休ませるよう頼んだ。しばらくすると、姉が戸の中から、寝たよ、と教えてくれた。私にはそれで十分だった。鈴から指は抜けなかったが、袋を膝へ載せれば痛くなかった。
夜明けに手が離れた。割れ目の跡が指へ残り、金属の縁が少し曲がっていた。袋の中の白い紙はなくなっていた。居間へ入ると、母は一枚の布団で眠っていた。余った二枚は、姉が押入れへ戻していた。
母は今も通院している。自分の薬は自分で分け、足の痛い日は買物を断る。私たちが代わりに全部決めると、ちゃんと怒る。鈴の話をすると、まだ持ってるの、と眉を寄せる。それ以上は聞かない。
鈴は私の机にある。中へ柔らかい布を敷いた小箱に入れている。鳴らないように押さえるのではない。底の金属が丸くなくなり、そのまま置くと、誰かが膝を抱えているように、細かく揺れるからだ。


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