兄の靴は、二足とも同じところが破れていた。
親指の先だった。右も左も、内側から押し抜いたように穴が開き、靴下が丸く覗いている。三か月前の法事で買った靴だと知っていたので、玄関に置かれたそれを見て、仕事で何かあったのかと思った。
「きつかった?」
私が聞くと、兄は居間から顔を出した。
「靴のことか。広がれば平気だと思ったんだけどな」
広がる前に穴が開くほど、我慢して履く人だった。母の入院が長引き、実家の片付けをするため、兄と二人で戻っていた。私は車で一時間ほどの市に住んでいる。兄は県外で、顔を合わせるのは正月と法事くらいだった。
古い家だが、売ると決めたわけではない。母が退院した時に転ばずに歩けるよう、まず廊下の荷物を減らす。それだけのつもりだった。兄は駅前で買った弁当を出した。
「お前の、唐揚げでよかったよな」
私は礼を言い、畳に腰を下ろした。
食べながら、兄が時々、座布団の下へ足を引っ込めるのが気になった。爪でも痛いのかと思った。兄は靴下を脱がなかった。
午後、納戸の箱を運んでいる時に、兄が派手に転んだ。段差はなかった。箱を置いた後の、何もない廊下だった。
「痺れた」
そう言って笑ったが、立ち上がる時、柱を両手で掴んだ。私は作業をやめさせて足を見ることにした。兄は最初、嫌がった。
「水虫かもよ」
「じゃあ自分で脱いで」
靴下を脱ぐと、親指の爪がなかった。剝がれた傷もなかった。爪のあるはずの部分が、滑らかな皮膚で埋まっている。左右ともそうだった。
「いつから」
「今週、かな」
曖昧に言った後、兄は足を座布団の下へ隠した。
私は携帯で近くの病院を探した。土曜の午後だった。救急外来へ相談しようとすると、兄が手を出した。
「もう行ったよ。月曜に詳しく調べることになってる」
見せられた予約票には、確かに月曜の日付があった。
その晩、私たちは二階の別々の部屋で寝た。兄の部屋は庭側、私の部屋は道路側だった。
夜中に、足元を誰かが通った。目を開けた時には、障子が少し揺れていた。私は廊下へ出た。階段の下で、兄が立っていると思った。背中の半分しか見えなかった。黒い部屋着が暗闇に溶け、肩の輪郭だけが妙に細く見えた。
「トイレ?」
返事はなかった。
私も喉が渇いて、階段を下りた。下には誰もいなかった。玄関が開いていた。兄の靴が一足、敷石の上に置かれていた。庭の奥で水が跳ねた。井戸がある。使わなくなってずいぶん経つが、蓋が傷むたびに母が直させていた。夜に近づく理由などない場所だった。
私は庭灯を点けた。井戸の蓋の上に、兄が座っていた。膝を抱え、踵を板の縁に引っ掛けている。裸足だった。
「何やってるの」
声を掛けると、兄は顔を上げた。眠っていた人の顔ではなかった。私が起きてきたことを、あからさまに嫌がっていた。
「戻ってろよ」
「寒いでしょう」
兄は首を振った。私が近づくと、肩を縮めた。
「見ないほうがいい」
蓋の隙間から、足の指が出ていた。指一本だけだった。濡れた親指が板の端を探り、爪を引っ掛けて上がろうとしていた。兄の右足には、親指がなかった。
途中から切れたのではない。人差し指が内側へ寄り、そこに初めから四本しかなかったように見えた。私は兄の腕を引いた。指は板を掻いた。井戸の中で、何人もの人が泳ぎ始めたような音がした。兄を家に入れ、玄関を閉めた。鍵を掛けた手が震えていた。兄は土間に座り、足を両手で包んでいた。
「爪がなくなったんじゃないの」
兄が言った。
「先に帰ったんだと思う」
私は聞き返せなかった。兄は最近、夢の中で実家へ帰るのだと言った。夢は駅から始まる。深夜の終電を降り、歩いている。家の手前まで来ると、足が急に楽になる。立ち仕事で痛むところがなくなり、靴も軽い。
下を見ると、足の指が一つ減っている。最初は爪だけだった。爪が、道路を先に走っていった。小さな音を立てて角を曲がり、兄より先に実家へ着いた。
「怖くはなかった。家に帰る夢だからさ」
二度目からは、指が一本ずつ抜けた。夢の中の兄は、それを追いかけなかった。自分も同じところへ行くのだから、急ぐことはないと思っていた。
起きた朝、靴が少し緩かった。
「仕事が忙しくて、痩せたと思った」
兄は笑おうとした。私はタオルを持ってきて足を拭いた。ついさっきなくなっていた親指が、戻っていた。爪だけがなかった。
「今、あるよ」
兄は自分の足を見た。
「まだ全部じゃないから」
何が、と聞いても、兄は答えなかった。
私たちは居間に布団を二組敷いた。兄には横になってもらい、私はテレビを点けて隣に座った。放送が終わった局を避け、明け方まで通販番組を見た。兄が眠ると、私の脇を何かが通った。人ではなかった。足の影だった。畳の上に、足首から先だけの黒い形があった。一本ではない。右足と左足が互い違いに進み、廊下へ出た。
兄の布団を捲った。足はあった。窓から射す庭灯の光の下で、脚の影は踝のところで切れていた。私は兄を揺すった。目が開いた瞬間、廊下で、ぱた、と音がした。黒い足が戻ってきた。驚いて身を引いた私の膝を踏み、布団の中へ滑り込んだ。
兄は私を見た。
「寝かせてくれないか」
声は荒くなかった。だから、余計に堪えた。
「本当に、眠れてないんだ」
私は隣に座り直した。
「家で寝るのが駄目なんだと思う。朝になったら出よう」
「これから?」
「明るくなったら」
兄は天井を見た。
「母さん、帰ってこられるかな」
私は答えられなかった。母が入院した理由は、風呂場で倒れたことだった。命は助かったが、今まで通り一人で暮らすのは難しいと言われている。兄は担当医の話も、施設の説明も、私に任せきりにしていた。
「俺が戻ればいいんだろうけど」
その言い方に腹が立った。
「今、そういう話じゃない」
兄は謝った。私は謝られると、もっと腹が立った。今まで言えなかったことを、この夜に言ってしまいそうで、水を飲みに立った。
台所の窓から井戸が見えた。蓋の上に、小さな人が立っていた。兄に似ていた。足の爪くらいの白い顔だった。黒い身体の下に、足の指が五本ずつ並んでいる。それが板の上を歩き、こちらを向いた。私は茶碗を取り落とした。居間へ戻ると、兄は眠っていた。両足の親指が、布団からはみ出していた。その先端に、人の顔があった。
同じ兄の顔だった。目を閉じ、口を小さく開けて寝ていた。兄の本当の口も、同じ形に開いていた。私はその肩を叩き続けた。起きた兄に何を説明したか、よく覚えていない。二人で靴下を穿き、上着を着た。車の鍵を取り、朝になる前に出ることにした。
玄関で、兄が立ち止まった。敷石の上に、さっき外へ出ていた靴があった。穴の開いた爪先が、家のほうを向いていた。兄が屈んだ。
「置いていこう」
私が言うと、兄は靴から手を離した。庭灯の下で、兄の影が二つになっていた。一つは足元から私の車へ伸び、もう一つは井戸のほうへ向かっていた。
井戸へ伸びたほうは、頭がなかった。肩から先が細くほどけ、何本もの指になって、地面を掴んでいた。兄は敷石に座り込んだ。
「引っ張られる」
私は両脇に腕を入れた。抱き上げようとしても、兄の腰が上がらなかった。兄の足が、靴を探っていた。
本人は私に掴まっている。足だけが向きを変え、爪先を靴の口へ入れようとしていた。私は靴を蹴った。片方が裏返り、底が見えた。靴底には、小さな足跡がびっしり付いていた。泥の跡ではなかった。靴底のゴムが、指で押したように一つずつ窪んでいた。
兄が叫んだ。井戸の蓋の上で、黒いものが立ち上がった。背は兄と同じくらいになっていた。顔の場所だけが白く、そこに親指の爪が二枚、横に並んでいた。私は兄を支えきれず、一緒に敷石へ倒れた。黒いものが一歩進んだ。兄が、私の肩を押した。
「車、開けて」
私は這って車に近づき、後部座席のドアを開けた。戻ろうとした時、兄が自分で身体を引きずり始めた。両手と膝を使っていた。足先は地面に置いたままだった。靴下が長く伸び、途中で裂けた。兄は歯を食いしばり、後部座席へ頭から入った。
私は兄の腰を押し込み、ドアを閉めた。井戸から来たものは、兄の靴の前で止まった。私はエンジンを掛けた。ミラーには家を映さなかった。助手席へ続く手を伸ばし、兄の手首を掴んだまま車を出した。
病院へ着いた時、兄の両足には指がなかった。出血はしていなかった。医師は何度も足を調べ、昔の手術歴を尋ねた。兄は、そのたびに、昨日まではありました、と答えた。私は携帯に残っている、予約票と一緒に撮った足の写真を見せた。
医師は黙って見比べた。
兄は今、私の家の近くで暮らしている。靴を作り直し、杖を使って通勤している。慣れれば歩ける距離は増えるのだと、理学療法士から聞いた。母の退院先も決まった。実家へは、二人とも戻っていない。片付けは事情を伏せて業者に頼んだ。井戸には近づかず、建物の中だけ、と繰り返した。
先週、兄が昼飯を奢ってくれた。店を出る時、兄は自分の靴を指した。
「広すぎると、今度は歩きにくいんだな」
私は、次はちゃんと測ってもらおう、と言った。
兄が笑ったので、私も笑った。
横断歩道を渡る間だけは、兄の影を見ないようにした。爪先のない身体から伸びる影に、五本ずつの指があるかどうか、まだ確かめることができない。


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