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片輪の雪道

雪を噛んでいるはずの前輪が、宙に浮いていた。

倉本は作業灯を下げて確かめた。車の左側だけが雪の窪みへ落ちている。前の腹を雪へ乗り上げ、片輪の荷重が抜けたのだろう。初めはそう見えた。だがタイヤと雪の間へ光を通すと、向こうの後輪まで浮いていた。車体の下には、何もなかった。

運転していた女は、少し離れて立っていた。訪問介護の帰りだという。海側の道が通行止めになり、携帯で別の道を選んだら、ここへ入ってしまった。車を動かすと下で何かが泣くので、もう触れないと話した。
「猫みたいな声?」
倉本が聞くと、女は首を振った。
「人です。寒いって」

二月の夕方だった。林道には倉本の車が残した跡しかなかった。女の小型車もここまで走ってきたはずなのに、後ろの雪は平らだった。降り続くほどの雪ではない。倉本はタイヤを見て、最初から深く考えるのをやめた。作業をするたびに知らない道のことまで考えていたら、体が動かなくなる。

女は坂井と名乗った。薄い長靴を履き、何度も足を踏み替えていた。倉本は自分の車で待っていてよいと言った。暖房はつけたままだった。坂井は助手席へ近づいたが、乗る前に振り向いた。
「下を、見てもらえますか」
倉本はドアを開け、灯りを運転台の下へ向けた。坂井は車内を見て首を振った。車体の下だった。

何もいなかった。彼女はやっと乗り、ドアを細く開けたまま座った。倉本は凍った路面を叩き、故障車を引く位置を考えた。道幅が狭かった。右に寄せれば側溝へ落ちるし、左は切り立った法面だった。後ろへまっすぐ出すしかない。

車の後部へ回ったとき、前の方で足音がした。作業灯を向けると、車体の向こうにスリッパが揃っていた。薄い縞のある男物だった。雪の上へ置かれたように乾いていた。坂井の忘れ物かと思ったが、すぐにおかしいと気づいた。つま先に、人の足の指が入っていた。

「誰かいますか」
返事はない。車の屋根の上には、林が続いていた。人の頭が出ているはずの高さに何もなかった。倉本は屈みかけた。前輪の隙間に、スリッパから足首が上へ伸びているのが見えた。車体より下に立っている。地面の中へ体が入っているのではなかった。向こう側の雪だけが、こちらより低いところにあるように見えた。

倉本は立ち上がった。坂井が助手席からこちらを見ていた。
「いますよね」
彼女は言った。
「車の下に、道があるんです」

彼女は最初、自分でタイヤを掘ろうとしたという。積んであった小さなスコップを使い、車の腹の下へ雪を押した。すると向こう側から、雪をかけるな、と言われた。覗いたら人の足があった。車を降りて助けに来てくれたのだと思い、立ち上がって礼を言おうとした。しかし誰もいなかった。

倉本は会社へ状況を連絡した。道を間違えた車が一台、雪で動けない。現場の場所を確かめ、積載車は入れないので牽いて下ろすと告げた。それ以外のことは言わなかった。人がいると言えば、まず安全確認を求められる。倉本にはもう、腹の下を覗く気がなかった。

索を掛ける作業は、車の横に立って済ませた。引き始めると、故障車は動かなかった。代わりに倉本の車が揺れた。少し前へ滑ったのかと思って雪を見ると、タイヤの接地面に影ができていた。倉本はすぐ停止した。車体が落ち、深い振動が長靴へ伝わった。

坂井がドアを押し開けようとしていた。開かない、と口だけで言っていた。倉本は反対側から乗り込み、中央の施錠を確かめた。鍵は開いていた。彼女の手は取っ手を引いているのに、ドアそのものが動かない。
「押してみて」
言った瞬間、倉本の足元で誰かが同じことを言った。

床にはゴムのマットが敷いてある。その端から、灰色の明かりが漏れていた。坂井は両足を座面へ上げ、倉本の袖を掴んだ。彼はエンジンを切りかけ、やめた。暗くなるのが怖かった。自分の側のドアは開く。そこから一緒に出るよう伝えた。

坂井が中央の物入れをまたいだ。片足を運転席へ置き、もう一方を上げたとき、靴の片方が脱げた。倉本は反射的に手を出した。マットの下へ落ちたように見えた。指が何か柔らかいものに触れた。耳だった。冷たく、薄い耳の縁が指に絡んだ。

彼は手を引いた。靴は助手席の床にあった。すぐ拾えば取れる場所なのに、遠く見えた。坂井は裸足のまま倉本を乗り越え、外へ出た。倉本が続くと、車の下でドアの閉まる音がした。自分たちはまだドアを開けていた。

坂井の足へ毛布を巻いた。雪に長く立たせられなかった。倉本は会社へもう一度電話し、迎えを頼んだ。相手は故障車だけでなく、お前も動けないのかと聞いた。倉本は、車から離れた方がいい、と答えた。どのくらい離れればよいのか分からなかった。

故障車へ伸びる索は張ったままだった。触らずに二人を林道の下へ移すつもりだったが、坂井が自分の車を見て止まった。助手席の窓に顔があった。白い髪の男が、口を開けてこちらを見ていた。
「佐田さん」
彼女が言った。
倉本は坂井の肩を掴んだ。
「知ってる人?」
「さっき、家で寝てた人」

最後に訪問した家の男だという。寝たきりではないが、足が弱く、一人で外へは出られない。坂井は車へ戻ろうとした。倉本は止めた。顔の位置が低かった。窓の縁の下から、額と目が出ている。車内に座っているのなら、顎も見えるはずだった。

坂井は相手の家へ電話した。何度か鳴ったあと、本人が出たらしい。倉本には坂井の質問しか聞こえなかった。いまどこにいますか、ひとりですか、寒くありませんか。彼女は携帯を耳へ押しつけ、窓の顔を見ていた。
「スリッパ、どこですか」
長い沈黙のあと、坂井は、わかりました、と答えた。
電話を切ると、顔はいなくなっていた。

「玄関にあるって。履いてないから足が冷たいって」
坂井は小型車へ近づかなかった。足元の毛布を巻き直し、歩けます、と言った。倉本は自分の車から予備の靴を取ることを考えた。後部の収納箱まで二歩で届く。彼がそちらへ足を向けると、車体の下で砂利が鳴った。誰かが同じ方へ歩き始めた音だった。

倉本は止まった。下の足音も止まった。右へ一歩動くと、左の下から音がした。坂井が息を呑んだ。車の下に見えるスリッパが、縞の男物ではなく、倉本の長靴になっていた。片方の踵を、いつも自分がするように内側へ傾けている。

「靴は、いいです」
坂井が言った。
倉本は収納箱を開けなかった。二人で道を下った。振り返らないと決めたわけではない。どちらかが見てしまったら、もう一方も見る。そうなることだけは二人とも分かっていた。

十分ほど歩いたところで、向こうから会社の車が来た。倉本の説明を聞いた同僚は、明るくなってから行こう、と言った。坂井は車へ乗る前に下を見た。同僚が気づいて屈もうとしたので、倉本は強く腕を引いた。何だよ、と怒られたが、手を離せなかった。

翌朝、別の者たちが現場へ向かった。倉本の車も小型車も、四輪が雪についていた。索を外すと、小型車は普通に動いた。雪へ乗り上げた形跡もなかった。倉本は写真を見せられ、夕方にはそうではなかった、としか答えられなかった。

坂井は会社へ靴を返しに来た。あの夜、帰りに借りた運動靴だった。男の人は無事かと倉本が聞くと、無事です、と短く答えた。彼女は自分の長靴の片方を引き取らなかった。車内に残っていたので洗っておいた、と言っても、要りませんと繰り返した。

倉本はその車にしばらく乗れなかった。同僚と交替して夜の依頼を受け、車の下を確認する仕事から外してもらった。理由を聞かれても、頭がうまく言葉を選べない。覗くなと言いたいのに、下へ行くなと言いそうになった。

三月になり、倉本は会社の洗車場であの車を洗った。乗れるかどうかは自分で確かめたかった。窓を拭き、運転席を開けると、足元のマットがずれていた。直そうと屈んだ。床は普通の鉄板だった。指をかけて持ち上げたマットから、細かな白い雪がこぼれた。

溶けないうちに、電話が鳴った。知らない番号だった。倉本はマットを持ったまま出た。
「雪をかけないでください」
男の声だった。倉本は床を見た。灰色の明かりはなかった。どこにいますか、と聞こうとして、口を閉じた。

電話の向こうで、男がドアを閉めた。洗車場に置いた車は、運転席が開いたままだった。

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