旅先の駅で乗り継ぎを間違えた。
それだけのことだった。向かいのホームから出る電車に乗るはずが、同じホームの後から来た電車を待っていた。気づいた時には終電がなくなり、改札の係員に、今日は戻れませんね、と言われた。明日の午前に大事な会議があるわけでもなかった。会社へ連絡し、駅前の宿を取れば済む。なのに私はひどく落ち込んだ。
三十九歳になってから、小さな間違いをするたび、自分が少しずつ駄目になっていく気がした。駅前の宿は満室だった。商店街の先にもう一軒あると教えられ、鞄を提げて歩いた。九月の夜で、閉まった店の庇に小さな虫が集まっていた。一匹だけ、青く光るものがいた。
蛍ではなかった。翅を閉じると白い紙の切れ端に見えた。それが私の前を飛び、明かりの点いた店へ入った。古い寝具店だった。店先に枕が積まれ、奥の机で女が帳面を付けていた。四十代くらいで、髪を一つに結び、眼鏡を鼻の先へ掛けていた。
私は宿の場所を聞いた。女は顔を上げ、商店街を抜ける前に右、と教えてくれた。
「川まで行くと戻れなくなるから」
遠回りになる、という意味だと思った。礼を言って出ようとした時、女が私の鞄を見た。
「帰りたいんですか」
私は笑ってしまった。
「そう見えますか」
「みんな、そういう顔で来るんです」
女は一番小さな枕を指した。
「帰る夢なら、これです」
枕は三千円だった。土産物のような売り文句だと思った。蕎麦殻が入った、白い布の枕。手で押すと、乾いた音がした。私は買った。
必要だったからではない。何もかも間違えた夜に、一つくらい自分で選んで帰りたかった。宿には空きがあった。部屋で枕を包みから出すと、石鹸の匂いがした。自宅の枕とは違う。それでも、枕が変われば眠れるかもしれないと思い、布団へ置いた。
夢は、駅から始まった。私は自宅の最寄り駅で改札を出た。夜ではなく、早朝だった。店は閉まり、新聞配達のバイクが角を曲がった。商店街を抜け、歩道橋を渡る。その途中で、知らない男とすれ違った。男は私の顔を見て、ほっとしたように頷いた。私も知り合いに会ったつもりで頷いた。
家の前へ着いた。鍵を出したところで、目が覚めた。私は宿の廊下にいた。裸足で、部屋の鍵を持っていた。夢遊病だろうか。今までそんなことはなかった。部屋へ戻り、時計を見ると午前三時だった。足の裏に、砂が付いていた。自宅の前は舗装してある。宿の廊下にも砂はなかった。私は濡れたタオルで足を拭き、今度は宿の枕を使った。
眠れなかった。夜明けまで、買った枕の中で何かが擦れる音がした。蕎麦殻が動いているのだと思った。自分が寝返りを打つ時だけではなく、じっとしている時にも鳴った。
朝、あの寝具店へ行った。店は開いていた。女は私を見るなり、何処まで、と聞いた。
「家の前まで」
女は帳面を閉じた。
「玄関は開けなかった?」
私は頷いた。女は小さく息を吐いた。
「それなら、まだ」
私は枕を机へ置いた。夢のことと、足の砂のことを話した。女は相槌も打たずに聞き、最後に枕を裏返した。
白い布に、道が描かれていた。駅から家までの道だった。歩道橋の位置も、曲がる角も合っていた。線の端に、私の名前が書いてあった。私の字だった。仕事で急いで書く時にだけ崩れる、姓の最後の一画まで同じだった。
「私、書いてません」
女は頷いた。
「起きてるほうは」
私は枕から手を離した。
女は机の下から、自分の枕を出した。青い布だった。白い糸で、複雑な道が縫い込まれていた。何度もほどいて縫い直した跡があった。
「私は、ずっと帰れない」
その言葉が、売り手の言い訳とは思えなかった。女は若い頃、同じような店で枕を買ったのだと言った。よく眠れると勧められ、夢の中で実家へ帰った。
帰り道に、知らない人が立っていた。その人は、どうしても家に帰りたいのだと言った。女は、自分の帰るところまでなら一緒に行ける、と答えた。
「玄関を開けたら、こっちにいた」
こっち、というのは、この店だった。店の前は、その頃まだ土の道だった。女の実家は団地だったはずなのに、歩いても駅が見つからなかった。ようやく戻ると、店の外の景色が少し変わっていた。
「道だけじゃなくて、時も違うの」
女は窓を見た。私は外を見た。商店街の向こうに、ひどく高い建物があった。昨日はなかった。灰色の板を何枚も重ねたような塔で、途中を白い箱が上下していた。屋根の上には、見たことのない形の橋が渡っていた。
私は店を飛び出そうとした。女が止めた。
「今、出ないで」
入口の前を、人が通った。薄い青い服を着ていた。首のあるはずのところが長く、顔が胸の高さへ折り畳まれていた。手に何かを持ち、歩きながらそれを舐めていた。私は机の角に掴まった。
人が通り過ぎると、普通の商店街へ戻った。女は椅子を出した。
「寝て帰るしかないんですか」
私が聞くと、女は分からない、と言った。
「私が知ってる道は、それだけ」
私は枕の自分の名前を見た。夢の中で会った男を思い出した。あの人も、私の帰り道を使いたかったのだろうか。
女は私の話を聞き、帳面を開いた。中には、知らない町の地図がびっしり描いてあった。紙が足りなくなると、余白へ線を繋いでいた。人を帰す商売をしていたのではなかった。帰る道を探していた。私が買った三千円も、ここの金かどうか確かめるために受け取ったのだと言った。引き出しから返してくれた紙幣は、触ると薄く湿っていた。
私は受け取らなかった。
「一緒に帰れないんですか」
女は笑った。
「帰るところが、違うから」
私は机の上で手を組んだ。会議も、会社も、鞄の中の書類も、ひどく遠くなっていた。自宅の流しに置いてきたマグカップが見たかった。洗わずに出たことを、あんなに後悔したのは初めてだった。
女は畳の上へ布団を敷いた。私の枕を置いた。
「玄関まで行ったら、声を掛けて」
「どうやって」
「覚えていれば」
曖昧だった。だがほかに何もなかった。私は横になった。眠る前に、女の名前を聞いた。奈津、と言った。
夢の中でも、私はその名前を覚えていた。駅を出て、歩道橋を渡った。男は同じところにいた。今度は、私の後ろへ付いてきた。歩く音が二つになった。振り向くと、男はすぐに目を逸らした。悪い人には見えなかった。着古した上着の袖を、片方だけ折っていた。
私は立ち止まった。
「どこへ帰るんですか」
男は住所を言った。聞いたことのない町だった。
「ここから近いですか」
男は首を横に振った。泣き始めた。私は手を伸ばしかけた。奈津の青い枕を思い出した。
「一緒には行けません」
男は頷かなかった。
黙って、私の後ろへ付いてきた。私は走った。自宅の前へ着いた。ドアに鍵を差した。内側から、鍵が回った。私は手を引いた。ドアの隙間に、奈津が立っていた。彼女も驚いていた。寝具店で着ていた服のまま、私の部屋の中にいた。後ろの男が、息を呑んだ。
奈津が男を見た。二人は知り合いではなさそうだった。男は、違う、と言った。何度も言った。自分の家へ帰れると思っていたのかもしれなかった。だがそこは私の家で、知らない女が中にいた。奈津は私の手を取った。
「入って」
私は玄関を跨いだ。
背中へ、冷たいものが触れた。男の指ではなかった。道が、私の服を掴んでいた。駅から続いてきた舗装の線が、細くほどけ、上着の裾へ絡んでいた。男の身体にも同じ線が巻き付いていた。彼は道に立っているのではなかった。道から生えていた。
奈津が私の鞄を引いた。私は上着を脱いだ。腕を抜くと、上着は男のほうへ滑った。中に誰もいないのに、私の形のまま立った。奈津がドアを閉めた。
私は自宅の床に座っていた。奈津も隣にいた。二人で、長い間、何も言わなかった。台所の時計が動いていた。流しには、洗わなかったマグカップがあった。奈津はそれを見て、ここはあなたの家なのね、と言った。私は頷いた。彼女の帰るところではなかった。
朝になると、奈津は店を探しに行くと言った。私は止めた。とりあえず食べて、寝て、それから考えようと言った。奈津は、ようやく泣いた。
今、私の部屋には布団が二組ある。会社には休暇を延ばしてもらった。奈津のいた町へ問い合わせることもしたが、寝具店の場所は見つからない。あの駅へ戻る電車はある。ただ、二人ともまだ乗れていない。夜になると、奈津は青い枕へ線を縫う。
私はその横で、自宅の周りの地図を描く。玄関の外で、時々、布の擦れる音がする。覗き穴から見ると、私の上着が立っている。袖の先をドアへ当て、誰かが帰ってくるのを待っている。
奈津には、その姿が別の服に見えるという。
どちらの家でもない場所へ出てしまうよりは、ここにいるほうがいい。そう言い合いながら、私たちは毎晩、玄関の鍵を二人で確かめる。


コメント