上から落ちてくるものに、甘い匂いが付いていた。
木曜日の朝、清掃員の菊池は、三階の外廊下を拭きながら顔を上げた。雨は降っていなかった。雨樋の継ぎ目から、薄茶色の液体が一滴ずつ落ちていた。昨日拭いた床に、丸い染みが六つあった。蟻は寄っていなかった。蠅も飛んでいなかった。砂糖をこぼした時とは違った。モップを当てると、蜜のように長く糸を引いた。
菊池は管理会社へ電話した。応急処置だけお願いします、と言われた。建物の担当者は現場を見ていない。写真を送っても、樋の補修は来月になるかもしれないという返事だった。住人が上から飲み物を捨てているのだろう、と菊池は思った。
六階建ての小さなマンションで、最上階までの階段は外廊下の端にあった。菊池はバケツを持ち、上の階を見に行った。四階にも染みがあった。五階は、床一面が薄く濡れていた。六階では、老女が洗面器を置いていた。雨樋の下で、液体を受けていた。
「漏れてるんですか」
菊池が声を掛けると、老女は洗面器を持ち上げた。
「朝だけね」
「触らないほうがいいですよ。何が混ざってるか分からないから」
老女は困ったように笑った。
「捨てないでね」
菊池は返事をする前に、老女の指を見た。
指の節が黄色かった。染まっているのではなく、皮膚の内側に黄色いものが詰まっているように見えた。指を曲げると、節の表面が細かく割れた。菊池は洗面器へ手を出さなかった。老女は自分の部屋へ戻った。ドアが閉まる前に、中の天井が見えた。
人が貼り付いていた。一人ではなかった。薄い服を着た大人が、天井に背中を当て、両手両足を軽く広げていた。顔は下を向いていた。菊池はバケツを落とした。老女が、あら、と言って戻ってきた。ドアの向こうの人たちは、誰も動かなかった。
菊池は、水を零しました、とだけ言った。老女は雑巾を持ってきてくれた。
「ここ、滑るから」
その普通の親切が、菊池を余計に動けなくした。見間違いなら、変なことを言って住人を怒らせるのは困る。この現場を失うと、週の収入がかなり減った。
菊池は床を拭き、階段を下りた。三階へ戻ると、甘い匂いの中に、古い写真のような湿った匂いが混じっていた。外廊下の向こうに、男が立っていた。手すりの外側だった。五階の辺りに顔があり、足は三階の床へ届いていなかった。縦長の身体が、壁に沿って垂れていた。
菊池が見上げると、男の顔がこちらへ向いた。目が多かった。左右の目の下に、もう二つずつ小さな目が並んでいた。どれも閉じずに、菊池を見ていた。菊池は階段を駆け下りた。地面へ出てから見上げると、壁には雨樋しかなかった。白い管が、継ぎ目のところで少し曲がっていた。
菊池は会社へ戻り、主任に話した。主任は黙って聞いた。四十代の女性で、菊池より十年長くこの仕事をしていた。
「一人で見に行かなきゃよかったね」
責める調子ではなかった。
菊池は以前、清掃の途中で見つけた漏水を報告せず、後から叱られたことがあった。誰かが水をこぼしただけだと思って拭いた。その日の夜に下の部屋の天井が濡れ、最初に見たのはあなたでしょう、と言われた。だから今回は、何時に、何階で、どの継ぎ目から落ちたかまで紙に書いた。
人が天井にいた、とは書けなかった。主任はその紙を読み、書かなかったことも聞いてくれた。菊池が指の形を真似ると、手を止めて最後まで見た。
「怖くて引き返したことまで、報告に書かなくていいよ。明日は私も見てから考える」
菊池は、それだけで少し眠れるような気がした。
翌朝、二人で現場へ行った。雨樋の下には、洗面器が三つ並んでいた。階ごとに一つずつ置かれていた。主任は写真を撮り、建物の担当者へその場で電話した。屋上の鍵を借りるまで、一時間掛かった。菊池はその間、外廊下を拭いた。今日は住人がよく出てきた。
昨日までは挨拶を返さなかった若い男が、お疲れさまです、と言った。奥の部屋の女は、冷たいお茶を持ってきた。菊池は礼を言い、飲まなかった。女が顔を曇らせた。
「甘くないですよ」
菊池は、その言葉を聞かなかったふりをした。
主任が戻ってきた。屋上の扉を開けると、熱い空気が出た。曇りの日だった。屋上だけが真夏のようだった。防水の床には白い膜が張り、縁の溝へ向かって細い筋が何本も伸びていた。その筋を、液体が流れていた。甘い匂いはそこから出ていた。
屋上の中央に、古い貯水槽があった。今は使っていないと聞いていた。脚の周りに、脱いだ靴が並んでいた。菊池は数えなかった。主任は扉を開けたまま、管理会社へ電話を掛けた。菊池は貯水槽の下を見た。人の頭があった。逆さだった。
貯水槽の底へ首が繋がり、顔が地面へ向いていた。髪はなく、皮膚が薄く透けていた。口から、白い糸が一本ずつ垂れていた。糸が床に触れると、液体になった。菊池は後退した。主任が腕を掴んだ。電話は繋がっていたが、主任は何も説明できなくなっていた。携帯の向こうで、もしもし、と何度も聞こえた。
屋上の階段で足音がした。六階の老女が来た。洗面器を抱えていた。
「ああ、開けちゃったの」
老女は二人を追い出そうとはしなかった。貯水槽の下へ屈み、洗面器を差し入れた。逆さの顔が、老女を見た。老女は、もう少しだね、と声を掛けた。
菊池の胃が縮んだ。親が子供を励ます声だった。
「誰なんですか」
主任が聞いた。老女は振り返った。
「今は、上の人」
それ以上は言わなかった。貯水槽の側面が、内側から押された。白い樹脂の壁に、掌が浮いた。その隣に、別の掌が出た。小さなものも、大きなものもあった。菊池は天井に貼り付いていた人たちを思い出した。
あの部屋から、ここへ来るのだと思った。自分で上がるのか、吸い上げられるのかは分からなかった。主任が菊池を引き、階段へ向かった。入口に、若い男が立っていた。今朝、挨拶をしてきた住人だった。裸足で、両手を少し広げていた。
「床、拭いたんですね」
菊池は答えなかった。
「何で全部取るんですか」
男の声が震えていた。怒っているのではなかった。泣きそうだった。主任が、仕事ですから、と答えた。男は菊池を見た。
「お腹が減るのに」
床の白い膜が、菊池の靴へ付いた。
底を上げると、糸が伸びた。糸の先が、靴の縫い目から中へ入った。靴下の上を、小さなものが歩いた。菊池は靴を脱いだ。右足を抜く間に、左の靴も床へ貼り付いた。主任が菊池の肩を持ち、身体を支えた。貯水槽の下の顔が笑った。笑った口の中から、たくさんの細い指が出た。
主任が携帯を投げた。人へ向けたのではなかった。屋上の入口の外、階段の下へ落とした。電話はまだ繋がっていた。主任はその携帯へ向かって、助けて、と叫んだ。男がそちらを見た。二人は男の脇を抜け、階段へ出た。菊池は裸足だった。階段のざらつきが、足の裏へ食い込んだ。その痛みで、ここは床なのだと分かった。
背後で老女が、駄目よ、と言った。男は追ってこなかった。主任が屋上の扉を閉めた。鍵を回す直前、扉の内側に手が掛かった。黄色い指だった。主任は手を挟まないよう、一度扉を戻した。その親切を、後で何度も悔やんだという。隙間から、老女の顔が出た。
首の後ろが、屋上へ長く続いていた。
「靴を忘れてる」
老女は菊池の靴を差し出した。片方の中に、菊池の足が入っていた。菊池は自分の足を見た。裸足で、ちゃんと二本あった。靴の中の足も、指を動かしていた。主任は靴を受け取らず、扉を閉めた。今度は指も顔も、紙のように隙間へ折れて入った。
鍵が掛かった。二人は階段を下りた。各階の洗面器で、液体が小さく揺れていた。菊池は足の裏を見ながら歩いた。自分の足が一歩ずつ地面を踏むのを、確かめ続けた。
その日、管理会社の担当者が来た時には、屋上に誰もいなかった。貯水槽は空だった。白い膜も液体も乾いていた。菊池の靴は、扉の外に揃えて置いてあった。菊池は受け取らなかった。主任が靴底を見た。内側に、小さな足跡が二つ付いていた。
子供の足より小さく、指が六本ずつあった。二人はあの建物の仕事を外れた。菊池は会社を辞めずに済んだ。主任が別の現場の時間を譲ってくれたからだった。感謝を伝えると、主任は、自分も行きたくないだけだよ、と笑った。
今は駅の清掃をしている。人の多い場所は汚れる。吐いたものも、こぼしたジュースも、毎日拭かなければならない。菊池は以前より、その仕事が苦にならなくなった。こぼした人が、すみません、と言う。何をこぼしたか、本人が説明できる。
それだけで安心する。ただ、雨上がりの朝に、靴の中が温かくなることがある。足を出して確かめても何もいない。菊池は会社の休憩室で靴下まで脱ぎ、六本目の指がないことを数える。
数え終わると、必ずもう一度数える。
どこかで自分の靴を履いているものが、同じように数えている気がして、一度では立ち上がれない。


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