「そっち、少し上げて」
「上げてる」
「じゃあ、こっちが下がってるのか」
離婚の届を出した翌日、亮介と夏帆は二人で箪笥を運んでいた。引っ越し業者へ頼むほどの荷物は残っていなかった。夏帆の服と本は先に運んであり、今日は細かな私物を車へ積むだけだったはずだ。
箪笥だけが、最後まで決まらなかった。亮介の祖母の持ち物だった。桐の和箪笥で、上の小さな引き出しの裏に、細長い鏡が付いていた。祖母は着物の襟元を確かめるために使っていたらしい。結婚した時、亮介の母が持たせた。夏帆は要らないと言った。亮介は一つくらい置けるだろうと言った。置いてしまえば、夏帆も使った。彼女の冬物は毎年、下の二段へ収まった。
二人で買った冷蔵庫は夏帆が持ち、洗濯機は亮介が残した。代金の差は、最後の家賃から引いた。そこまでは電卓を挟んで、驚くほど簡単に決まった。古い箪笥には値段が付けられなかった。亮介の母へ返そうという案も出たが、実家にはもう置く場所がない。夏帆がそう言ったので、彼女が自分の知らないところで母へ電話していたことを、亮介は初めて知った。
別れることが決まってから、夏帆が持っていけばいいと亮介は言った。夏帆は、自分のものではない、と答えた。結局、亮介が処分することになった。市の回収日は翌朝だった。玄関まで出しておけば、一人でも少しずつ動かせる。そう考え、夏帆に端を持ってもらった。
最初の一歩から、妙に重かった。中身は空だった。引き出しも全て抜いていた。それでも、床から十センチ上げるのがやっとだった。廊下へ出たところで、亮介の指が滑った。夏帆が慌てて支えた。
「置くよ」
二人で床へ下ろした。
下りなかった。箪笥は、十センチほど浮いたままだった。亮介は自分の手を見た。底を支えていた指が、木の中へ少し入っていた。木が柔らかくなったのではなかった。指の先だけ、見えなくなっていた。夏帆も同じだった。
「手、抜けない」
声が低くなった。
亮介は引いた。指の根元が強く痛んだ。爪を木の隙間に挟んだような痛みだった。夏帆がやめてと言った。
「そっちで引くと、こっちも痛い」
二人は箪笥の両側に立ったまま動けなくなった。引き出しを抜いた穴の向こうに、夏帆の顔が見えた。
彼女は目を細め、息を止めていた。困るとすぐに泣く女だと亮介は思っていたが、今は泣いていなかった。
「救急、呼ぼう」
亮介が言った。携帯は居間の卓にあった。夏帆の携帯は鞄の中で、玄関に置いてあった。互いの位置を確認して、二人とも黙った。
廊下は狭かった。箪笥を縦にして運んでいたので、前へ進めば玄関、戻れば居間だった。亮介は玄関側、夏帆は居間側を持っていた。亮介が一歩動くと、箪笥も動いた。夏帆の腕が引かれた。
「ちょっと待って」
「玄関まで行けば、携帯がある」
「一緒に動かして」
亮介は頷いた。
せーの、と声を掛け、二人で一歩進んだ。
廊下が長くなった。玄関の靴が遠ざかった。床板の数が増えたのではない。板一枚一枚の幅が、ゆっくり伸びていた。夏帆が振り返った。居間の窓も遠くなっていた。
「見た?」
亮介は頷いた。声を出すと、何かが決まってしまう気がした。
箪笥の中で、鏡が鳴った。上の小さな引き出しは居間へ置いたはずだった。だが鏡は、箪笥の上から三分の一ほどのところに、立っていた。鏡に、二人が映っていた。亮介も夏帆も笑っていた。手を繋ぎ、廊下の真ん中へ立っていた。箪笥は映っていなかった。
向こうの亮介が、夏帆の肩を抱いた。こちらの夏帆は、その動きを見て顔を背けた。亮介は、そういう顔をするなよ、と言いかけた。口にする前に、向こうの自分が同じことを言った。声は聞こえなかった。唇の動きだけだった。それでも、自分が言おうとした言葉だと分かった。
夏帆は亮介を見た。
「今、言った?」
「言ってない」
「そっちじゃない。あっち」
亮介は鏡を見なかった。向こうの二人が、笑いながら廊下を歩き始めた。二人が遠ざかるほど、箪笥が重くなった。亮介の膝が曲がった。夏帆も壁へ肩を付けた。指だけが木の中で留まり、身体の重さがそこへ掛かった。
「下ろせないの」
夏帆が言った。亮介はしゃがんだ。箪笥は動かなかった。腕だけが上へ引き上げられた。
床に、亮介の影が二つあった。一つは膝から壁へ伸びていた。もう一つは、箪笥の下から出て、廊下の先へ伸びていた。先へ伸びた影は、立っていた。床の上で起き上がるように、黒い形が厚みを持った。頭を傾け、夏帆のほうを向いた。鏡の中の亮介と、同じ姿勢だった。
夏帆の足元にも、二つ目の影が出た。黒い二人は、互いの手を取った。こちらの亮介と夏帆の指が、さらに深く木へ入った。亮介は叫んだ。誰か、と言った。玄関の向こうで、隣の部屋のドアが開いた。人の足音が近づいた。助かったと思った。
その人は、玄関の前で立ち止まった。亮介がもう一度叫ぶと、玄関の外から亮介の声が返った。
「大丈夫です。荷物を動かしてるだけなので」
自分の声だった。隣人の足音が遠ざかった。夏帆は俯いた。今度は泣いていた。亮介は、泣くな、と言わなかった。
箪笥の中から、服の匂いがした。夏帆が使っていた洗剤の匂いだった。亮介は空のはずの引き出し穴を見た。奥に、青いセーターが入っていた。夏帆が昔よく着ていたものだった。結婚して二年目の冬、袖を引っ掛けて破り、亮介がそれくらい縫えばと言った。夏帆は縫った。縫い目が気に入らないと、ほとんど着なくなった。
その隣に、亮介の灰色の上着があった。別れる原因になった喧嘩の夜、椅子へ掛けたものだった。夏帆も服を見ていた。
「空にしたのに」
鏡の二人は、その服を着ていた。笑っていた。
箪笥の奥にあったのは、服だけではなかった。使わなかった旅行のパンフレット。二人分買って一つだけ残ったマグカップ。夏帆の母が送ってきた、亮介には味の薄かった漬物の容器。何もかも、形のいいまま入っていた。亮介は、その一つを見つめた。
安い指輪だった。付き合い始めた頃、夏帆へ買った。彼女は金属でかぶれて、すぐに外した。それを亮介は、不満の証拠だと思っていた。あの頃から合わなかったのだと、最近まで思っていた。鏡の夏帆の指には、指輪があった。皮膚が黒くなっていた。
夏帆もそれを見た。
「あれ、痛いんだよ」
小さく言った。亮介は、知ってる、と答えかけた。知らなかった。知ろうとしなかった。
「うん」
それだけ言った。鏡の夏帆が、指輪を外した。黒い影の手が離れた。箪笥が、少し下がった。夏帆が顔を上げた。
亮介は底を持ち直そうとして、指先の感触が戻っていることに気づいた。木の中に入っていた第一関節が見えた。
「もう一度、置こう」
彼が言うと、夏帆は頷いた。二人で膝を曲げた。箪笥は途中まで下りたが、また止まった。鏡の亮介が、夏帆の腕を掴んでいた。
笑顔は消えていた。口を開き、何かを言い続けていた。夏帆は、こちらの亮介を見た。
「また一緒に暮らそうとか、言わないでね」
亮介は首を振った。
「言わない」
「これで怖くなったから、やり直すのは嫌だ」
「分かってる」
夏帆は、まだ彼を見ていた。
亮介は言い直した。
「分かった」
鏡の中の自分が、腕を離した。箪笥が床へ落ちた。大きな音がした。夏帆は手を引き抜き、廊下の壁へ背中を付けた。亮介も座り込んだ。廊下は元の長さに戻っていた。玄関の靴が、すぐそこにあった。鏡には箪笥の内側の板しか映っていなかった。黒い二人の影は、まだ床にいた。薄い紙を落としたように、互い違いに重なっていた。
夏帆が立った。彼女の影は一つだった。亮介も立った。床に残った二人は、動かなかった。
二人で玄関を開け、外へ出た。隣の人が顔を出し、ずいぶん大きな音がしたけど、と聞いた。亮介は謝った。夏帆は彼の代わりに、もう大丈夫です、と答えた。二人は近くの公園まで歩き、別々のベンチに座った。亮介の手には、箪笥の木目の跡が付いていた。夏帆の手も同じだった。
「病院、行く?」
亮介が聞くと、夏帆は頷いた。彼は夏帆の鞄を取りに戻った。玄関には箪笥が横になっていた。下の床に、黒い二人の形が残っていた。その形を踏まないようにして、鞄を取った。上の小さな引き出しは、居間に置いた時のままだった。裏の鏡を覗くと、空の廊下が映った。
箪笥の中に立っていた鏡が、どこから来たのかは分からなかった。
箪笥は予定通り処分した。
翌朝、回収の人が二人で運んだ。亮介は途中で手が止まらないか見ていたが、何も起きなかった。床には何も残っていなかった。夏帆とは、その後一度だけ会った。彼女が置いていった通帳を返すためだった。駅前で受け渡し、数分立ち話をした。手の痕は、お互いに消えていた。
夏帆は、新しい部屋には箪笥を置かない、と言った。亮介は笑わなかった。
「狭いからね」
彼女は少し遅れて付け足した。別れる時、夏帆が手を上げた。亮介も同じように上げた。
駅の床に、二人の影が離れて伸びていた。
亮介は最後まで見届けた。黒い指が互いを探さず、それぞれの持ち主の後ろへついていくところまで、確かめてから改札へ向かった。


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