犬は私を見て吠えているのだと、最初は思った。
玄関の戸を開けた私の足元で、リクは前脚を伸ばし、喉の奥を鳴らしていた。口は開かなかった。鼻先が、家の中へ向いている。横へ動いても追ってこない。犬の見ている先には、食卓と、昨夜脱いだ上着しかなかった。
一昨日、山で借りた犬を失くした。
リクの飼い主は相馬さんという女性だった。定年になるまでは病院で看護師をしていた。亡くなった夫が連れていた猟犬を引き取り、自分は猟をしなかった。餌をやるたび、私の手で老けさせてるようで、と彼女は言う。リクはもう速く走れないが、山に入ると顔つきが違った。私は相馬さんに頼んで、年に何度か連れていった。
あの日は猪の被害が続いている畑の裏へ入った。私と、あと二人いた。犬を放したあと、谷の奥で短く吠えた。それきり戻らなかった。位置を知らせる首輪も、その日だけうまく働かなかった。午後は近くの工場で仕事があった。捜すからお前は帰れと言われ、私は帰った。相馬さんには、仲間の家に泊めている、と電話した。
夕方に連絡すると、仲間も戻っていた。足跡がなくなったのだという。私が必ず翌朝捜すと言うと、一人は、朝まで待ったらもう無理かもしれん、と答えた。それでも夜の山へは行かなかった。翌日は雨で、昼まで車の中から林道を見ていた。リクは現れなかった。相馬さんには連絡しなかった。
そのリクが、三日目の早朝には、うちの玄関へ伏せていた。
濡れてもいないし、痩せてもいなかった。首輪もついていた。どこを通って家を覚えたのだろう。私は腹に手を入れて起こそうとしたが、リクは重く、立とうとしなかった。体に触れた感触は確かにあった。それなのに、指を毛に埋めると、指先だけが見覚えのある赤土に触れる気がした。
頭を撫でると、犬は鳴いた。口は閉じたままだった。音は食卓の向こうから来た。妻が廊下へ出てきて、そんなところで何してるの、と聞いた。
「戻ったんだよ」
私が犬を指すと、妻は困った顔をした。
「朝から、山の犬の声がするって言おうとしたの」
足元にいるだろうと言ったが、妻は一度も下を見なかった。私の指の先には、玄関の濡れた雑巾があった。
私は相馬さんへ電話した。犬が戻っているが動かない、と言うと、すぐ行くという。迎えに来た彼女は車を降りた途端にリクを呼んだ。犬は顔を上げなかった。相馬さんは玄関へ膝をつき、私の手を払って首輪へ指をかけた。彼女にも見えている。私はそれだけで、許されたような気がした。
「どっちから帰ってきたの」
「来たところは見てません」
「山で離れたのは、どのへん」
私は畑の上だと答えた。谷の奥とは言えなかった。
相馬さんは私に犬の水皿を出させた。リクは飲まない。皿へ映ったのは犬の顔ではなく、斜面を流れる水だった。こちらへ伸びてきた枝が、水の底で揺れた。私が皿を動かすと、枝はそのまま、リクの鼻先に重なった。
「車、出せる?」
相馬さんは立ち上がった。自分の車は足回りが低く、林道へ入れないと言った。私は仕事のことを口にしかけ、携帯で欠勤の連絡をした。犬を抱き上げようとすると、相馬さんが止めた。
「それ、動かすもんじゃない気がする」
犬を玄関へ残し、私たちは出かけた。リクは車にもついてこなかった。曲がり角で振り返ると、門の内側でまったく同じ方を向いていた。家の壁の向こう、谷の方だった。相馬さんは助手席からしばらく見ていたが、何も言わなかった。
畑へ着くと、雨で土が崩れていた。私はその先へ進めないと言った。相馬さんは車を降り、長靴を履いた。私の話を聞いていないように見えた。連れていった犬を、ここへ置いて帰ったのか。そう聞かれるのが怖くて、私は先へ立った。
山道には、見慣れたものが並んでいた。曲がった栗の木、捨ててある青い容器、落ちた橋板。場所だけが違った。栗の木は沢へ降りる前にあるはずなのに、登った先へあった。青い容器は橋を越えた向こうで見たものだ。私は近くで足跡を探すふりをした。地面へ目を落とすたび、玄関に伏せるリクの背中が見えた。
相馬さんが、あれ、と言った。左手の藪に猪がいた。小さな猪で、背を丸め、こちらへ顔を向けていた。私は反射的に肩へ手をやった。猟ではないので銃を持ってきていない。猪は逃げず、前脚を揃えた。その間に細長いものがあった。リクの首輪と同じ色だった。
私は石を拾った。追わなければ、と考えた。相馬さんが手首を掴み、首を振った。
「何か、くわえてる」
猪は首を上げた。赤い布が口の下へ垂れた。首輪ではなく、私が犬の傷を拭くために持っていた手拭いだった。いつ落としたのか分からなかった。猪はそれを置き、私たちに背を向けて下りた。追うことも、礼を言うこともできなかった。礼を言おうとしたことが、ひどく嫌だった。
布には犬の毛が付いていた。相馬さんはそれを拾わず、近くへしゃがんだ。下に穴が開いていた。根の隙間を雨が削った穴で、人が入れる大きさはない。
「下にいる」
彼女が言った。奥を照らすと、毛の色が見えた。私が光を寄せると顔を上げた。目のあるところに、口があった。鼻が二つあるようにも見えた。
私は光を逸らした。
「リクじゃない」
声が大きすぎて、相馬さんが振り向いた。
穴の奥から鳴いた。あの声だった。家の食卓の向こうからした、短く押し殺した声だった。私はもう一度ライトを向けた。犬がいる。普通の犬の顔が、泥の向こうでこちらを見ていた。相馬さんは、さっき何が見えたの、と聞かなかった。
根を切れば入れるかもしれないと私は言った。道具は車にあった。相馬さんが一緒に戻ると言ったので、私は待っていればいいと答えた。彼女は立ち上がり、きつい顔で私を見た。
「置いていかれる方は、待ってるだけなんだよ」
私は聞き返せなかった。
その道を戻るのに、倍ほど時間がかかった。目印は行きと同じ順番で出てきた。順番が逆にならなかった。青い容器を通り、橋板を踏み、栗の木を見た。相馬さんは私の腕を握っていた。彼女にもおかしいと分かったのだろう。私が手を離そうとすると、強く掴み直された。
畑へ出たとき、リクが車の横へいた。
玄関と同じ格好だった。鼻先を地面へつけ、穴の方を向いている。私には初めて、その犬がこちらへ戻ってきたのではないと分かった。相馬さんは屈んで、耳の上へ手を置いた。
「待ってな」
犬は動かなかった。彼女は犬に触れている手を見つめ、静かに泣いた。
道具を持って戻った。私は相馬さんに、一昨日の昼に犬を置いて仕事へ行ったこと、昨夜も捜さなかったことを話した。彼女は道を見ていた。返事がなかったので続けかけると、今はリクを、と言われた。
穴の根を少しずつ切り、泥を掻いた。奥へ手を伸ばすと、リクは私の手袋を噛んだ。強くではなかった。もう少しだと声を掛けたら、顔を背けた。相馬さんが腹這いになり、名前を呼んだ。犬は体を動かし、片脚を前へ出した。首輪を引くのはやめ、二人で土を広げて、犬が出てくるのを待った。
出てきたリクは、抱えられるほど軽かった。
私は首輪の泥を落とそうとして、裏側へ自分の手拭いが挟まっているのを見つけた。あの猪が置いたものは、まだ根元にあった。相馬さんにも見せたが、彼女は取らないでと言った。犬の首が震えていた。私はそのままにした。
動物病院で点滴を受けたリクは、十日ほどで歩けるようになった。相馬さんは礼を言わなかった。私も、助けたつもりの挨拶はしなかった。預かった犬を返した。病院の費用を払い、もう貸してくれとは頼まないと伝えた。
家の前に犬はいなくなった。妻は、やっと静かになった、と言った。リクを見ていたのか聞いたが、知らないと答えた。夜中に山から聞こえる声が、なくなったという。
先月、相馬さんから留守電が入っていた。リクが死んだ知らせだった。しばらく迷ってから折り返すと、眠るようだったよ、と彼女は言った。
「もう山へは行かないでね」
誰に言ったのか、電話が切れても分からなかった。
その夜、妻が寝室の窓を閉めた。私はすぐ横で寝る支度をしていた。
「あんた、また行ってた?」
山へは行っていないと答えた。妻は私の顔を確かめ、そうだよね、と言った。カーテンを引きながら、だってさっき、向こうであんたが呼んでたから、と続けた。
私は窓へ近づかなかった。妻の手が止まり、もう一度山の方を見た。
「犬を呼んでるんじゃないね。あんたが、吠えてる」


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