早苗の干場では、網を裏返して使わなかった。
油の付き方が違うので、魚がくっついて身を傷める。短期の手伝いに来た大庭にも、最初はそう説明した。間違えた網を抱えていた大庭は、赤い糸の結んである角を確かめ、上下を替えた。
「こっちが海ですね」
「上。海は関係ない」
早苗は答えた。赤い糸をどちらへ向けるか、母から教わった覚えはない。母の使う通りに使っているうちに、向きを間違えなくなった。
店は港の外れにあった。魚を開く小屋から石段を上がると、六畳ほどの平らな土地があり、海の方へ傾いた松が一本立っている。その松と物干し柱に枠付きの網を掛け、洗った網を乾かす。魚を干す台はもっと低い。海が見えるのはこの場所だけで、作業小屋の窓からは防波堤しか見えなかった。
大庭は冷蔵庫の清掃をする会社を辞めたばかりだと言った。母の代わりに人を雇うのは初めてで、早苗は少し迷った。短い爪の間まで洗っている手を見て、来てもらうことにした。魚の扱いを教えると、一度聞いただけで丁寧に真似た。そのくせ、作業がなくなると何もせず海を見ていた。煙草も携帯も取り出さない。早苗はその横顔に、声を掛けにくいものを感じた。
二週目の火曜日、よく晴れていた。早苗が網を取り込もうとすると、一枚だけ滴が落ちていた。日陰にもなっていない。向こうに立つ大庭の作業着の肩も、雨に遭ったように黒かった。
「降った?」
「そっちは降ってないんですか」
彼は網を透かして早苗を見た。こちらからは空の青さが、細かな升目に切られているだけだった。
網の裏へ手を回すと、指の間に強い風が抜けた。顔には何も当たらない。早苗は手を引き、干したばかりだったかと尋ねた。
「朝からこれだけ、ずっと濡れてます」
大庭が角を持ち上げた。裏に出した腕が、肘まで白くぼやけた。霧のようなものの中を腕が曲がり、濡れた袖が戻ってきた。
早苗は取り込まなくていいと言った。大庭は少し嬉しそうに、海が荒れているんですよ、と答えた。
昼の配達で港へ降りた。船は何艘も出ており、防波堤では作業員が昼寝をしていた。網の向こうでだけ荒れているのかもしれない、と思ってから、早苗は自分の考えをおかしく感じた。台所の窓一枚だけで、別の日の天気を見るような話だった。
夕方、大庭は干場の松に靴下が引っかかっていたと言って、片方を持ってきた。灰色の毛糸の靴下だった。誰の洗濯物だろうと早苗が首をひねると、海から飛んできました、と彼は言った。松は海面から十メートル以上も高い。早苗は返事をせず、ゴム手袋のままそれを拾い、作業小屋の外の籠へ入れた。
次の日はシャツだった。子供のものか、小柄な女のものか、襟に細いレースが付いていた。大庭は網の裏から出てきて、そこに人がいたと言った。
「どこ」
「沖の。舟じゃなくて」
早苗が石段の上まで行くと、干場の土は白く照らされ、網の細い影がくっきり落ちていた。網はかすかに揺れ、赤い糸の結び目から、ぽとりと水が落ちた。
「泳いでた?」
「寝てたみたいでした」
何人か、とも言った。早苗はその日から、大庭を魚の箱詰めに回した。
あの網だけを外そうとはした。母が使い始めた頃の古い枠で、角が割れていた。手で持つと軽かったのに、柱から離す方へ力を入れると、木枠が掌の肉へ沈んだ。ぶら下がっているものを引き上げる重さだった。早苗は手を放した。母がいつも、洗い終えた網の最後にこれを掛けていたことを思い出した。
母はもう店へ来ない。去年足を悪くして、妹の家で暮らしている。電話をすると、初めは昔の注文客の話ばかりしていた。早苗が網のことを出した途端、聞こえなかったように黙った。
「赤い糸のやつ。乾かないんだけど」
「あんた、誰と使ってる」
大庭のことを話すと、母は長い息を吐いた。
「あそこ、よく見える人がおるのよ」
「何が」
「私には、よく見えんかった」
母はそれ以上を言わなかった。早苗は電話を切る前に、手伝いの男を勝手に怖がらせないでよ、と言った。母ではなく自分がそうしているのだと、切ったあとで気がついた。
金曜日の午後、急な注文が入った。土産物店で催しをするので、夕方までに五十袋追加してほしいという。早苗は大庭に頼み、昼に上げた網から魚を取ってきてもらった。干し台と、洗った網の掛かっている松は離れている。そちらへ行かなければいい。言わずに済ませたことを、石段へ向かう彼の背を見ながら考えた。
十分たっても戻らなかった。
早苗が呼ぶと、はい、と答えがあった。石段を上がりきったところで、大庭は背中を向けて立っていた。例の網の裏側だった。彼の向こうは空が暗く、大きなものが横切っていた。近くへ来て初めて、それが人だと分かった。腹を上へ向けた男が、風にのった服のように流れていた。目も口も閉じ、片手を後頭部に添えている。昼寝をしている、と大庭が言った意味が分かった。
人は網の裏にだけいた。男が枠の端へ流れると、肩が細い材木に隠れ、それきり出てこなかった。
「こっちへ来て」
早苗は大庭の腕を引いた。掌が肌へ届かず、袖の中で腕が遠くなった。大庭は振り向かない。
「あの女の人、ずっと呼んでるんです」
「声がするの」
「口が」
彼の首の横が濡れていた。耳から水が落ちていた。早苗は彼の正面を見ようと、網の角へ体を回しかけた。途端に息ができなくなった。喉に何か入ったのではなかった。息を吸う隙間がなく、顔の前の全部が、冷たくて重かった。
早苗は膝をつき、手探りで松の根を握った。大庭の長靴がすぐ横に見えた。足底は土の上に付いていなかった。爪先を下へ垂らし、かすかに左右へ揺れている。
彼を引きずり出すだけの力はなかった。早苗は根を握ったまま、這って網の正面へ戻った。松葉を頬に刺しながら顔を上げると、息が入った。大庭の頭越しに青空が見えた。
石段の下で車の音がした。注文を取りに来た土産物店の主人が、上がってもいいかと呼んだ。
「こっち来て。急いで」
言い終わって、早苗は口を押さえた。大庭が向こうを指していた手を、ゆっくりこちらへ戻した。彼の唇が動いた。網を透かして、早苗と同じ形に開いた。
店の主人は段の途中で止まっていた。早苗が顔を見て、来ないで、と言い直したからだった。
「救急車を呼んで。人が」
その先が出てこなかった。大庭の口の中が、黒かった。奥が深く、誰かの濡れた額が一つ、そこから覗いていた。
早苗は上着を脱ぎ、網のこちら側へ掛けた。大庭の顔が隠れた。すぐに下へ水が落ち、上着は白い塩の筋を吹いた。彼の長靴が土を踏む音がした。
「早苗さん、暗い」
彼は困ったように言った。
「そこから動かないで。私の手を」
上着の端を片手で押さえ、もう一方を大庭の方へ出した。濡れた指が触れた。早苗は引かなかった。手を握り返し、彼自身がこちらへ回ってくるまで待った。
大庭は網から離れると、腹を下へ向けて倒れた。水を吐いたが、量はほんの少しだった。海で泳いだ覚えはないと、救急隊員に繰り返した。早苗は彼を運ぶ担架のあとについて石段を下りた。頭の上から上着の袖が一つ垂れ、こちらを招くように揺れた。風は吹いていなかった。
大庭は二日で退院した。海を見たくないので辞める、と電話で言った。早苗は給料を振り込み、荷物は郵送した。謝ろうとすると、彼は先に訊いた。
「見えてましたよね。あの人たち」
早苗は、見えたと答えた。
「よかった」
彼はそう言った。安心した声ではなかった。
干場はそれから使っていない。店には乾燥機を入れ、注文も少なくした。母へ網をどうしたらいいかは尋ねなかった。母が何をしてきたのか、聞けば、自分にも同じことができてしまいそうだった。
一度だけ石段を上がった。網にはまだ上着が掛かり、袖の下へ灰色の靴下とレースのシャツが落ちていた。早苗の上着よりよほど乾いていた。触らずに降りようとすると、松の根元で小さな声がした。
「こっち来て」
自分の声だった。店の主人を呼び上げた日の、息の切れ方まで同じだった。
早苗は石段の途中で手摺を握った。下の小屋では乾燥機が鳴っている。途切れずに続く低い唸りを聞きながら、足を次の段へ下ろした。背後では誰かが上着を着ようとしていた。濡れた布の裏へ腕を通す音が、なかなか終わらなかった。


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