祖母の猫は、裁縫箱を開ける音がすると起きた。耳が遠くなっていたので、名前を呼んでも寝たままなのに、あの金具が外れる音だけは聞こえるらしかった。尚美が箱を棚へ載せると、猫は椅子を踏み台にして上がり、蓋に前脚を載せた。
祖母は転んで入院していた。退院後は尚美の母と住むことになり、家を片づける必要があった。使う物を全部運ぶと母の家へは入りきらない。尚美は要る物の写真を祖母へ見せ、不要な物を箱へ詰めていた。猫のシロは尚美が引き取る予定だった。
シロは白猫ではない。黒と茶の混じった大きな猫で、額に白い部分が少しだけあった。祖母は名前を取り替える機会を失ったのだと笑っていた。十八歳になり、前ほど高いところへ跳ばなくなった。尚美は椅子へ乗るたび落ちないか気になり、抱いて下ろした。
裁縫箱には針と糸巻き、古いボタンが入っていた。針は全部小さな容器へ移し、蓋を締めた。糸巻きの一本だけが木製で、黄色くなった糸を巻いていた。シロはそれを欲しがった。尚美が渡さず箱へ戻すと、床へ降りて文句を言うように鳴いた。
最初に糸に気づいたのは、食器棚を開けたときだった。上の段から大皿が滑った。尚美は両手を出したが、爪先へ落ちると思った。その手前で袖が短く引かれ、身体が横へずれた。皿は足を外れて畳へ落ちた。割れなかった。振り返ると、シロが木の糸巻きをくわえていた。
糸は尚美の袖に絡んでいた。猫が引いたにしては強かった。尚美は糸をほどき、シロの口から糸巻きを取った。飲みこんだら困るので裁縫箱を閉め、上へ本を載せた。猫は本の角をしばらく嗅ぎ、諦めたように居間を出ていった。
祖母へ電話すると、昔から糸が好きなのだと言った。食べ物にはあまり寄ってこないが、糸を巻くと膝へ上がったらしい。祖母はシロがまだ小さいころ、毛を少し糸へ縒りこんだことがあるとも言った。尚美が何のためにと聞くと、あたたかいと思って、と答えた。
午後、脚立へ乗ってカーテンを外した。窓の上の金具に手を伸ばしたとき、シャツの背が引かれた。脚立が一段分だけ沈み、尚美の手が金具から離れた。直後、錆びたねじが抜けてレールが落ちた。彼女が頭を出していた場所だった。床にシロが座り、糸巻きを前脚で押さえていた。
裁縫箱の蓋は閉じたままだった。本も載っていた。尚美は箱を開け、木の糸巻きがないことを確かめた。シロへ目を戻すと、足元に黄色い糸が長く伸びていた。シャツに結び目はない。端が縫い目へ吸いこまれ、引くと布ごと動いた。
尚美は糸を切らず、シャツを脱いだ。床へ置くと、糸は簡単に外れた。シロは糸巻きをくわえ、押入れの前へ運んだ。糸の先が壁の隅に引っかかった。尚美がそこを外そうと指を当てると、壁の白い紙が一筋、糸になって剥がれた。薄い板の上に線が残った。
彼女はそこを何度も撫でた。剥がれたのは壁紙だけではない。板と板の境が、少し見えにくくなっていた。古い写真を水で濡らし、輪郭がぼやけたようだった。シロが糸を引くと、そのぼやけた部分が壁の横へ伸びた。尚美は猫を抱き上げた。老猫は嫌がらず、喉を鳴らした。
次の日、居間の敷居が低くなっていた。躓きやすいから気をつけてと祖母が何度も言ったところだった。尚美はしゃがんで指を当てた。角が丸まり、木の硬さも薄い。昨夜、シロがそこで糸を引いていたことを思い出した。足をぶつけないようにしてくれたのかと思い、すぐにその考えを打ち消した。
玄関の柱にも、同じぼやけがあった。祖母が尚美の背を測って印をつけた柱だった。鉛筆の線は残っているのに、柱の端だけが曖昧になっていた。尚美は写真を撮った。画面でも同じように見えた。ピントを変えても直らなかった。彼女はその写真を祖母へ送れなかった。
祖母からは、今日は箪笥を開けないで、と連絡が来た。中へしまった通帳の場所を自分で確かめたいらしい。尚美は開けないと約束した。箪笥の上に載った小箱だけを取ろうとすると、シロが前へ出た。糸が彼女の手首へ巻かれた。尚美は、分かったから、と猫を退かせた。
箱を取ると、箪笥の上の板が外れた。尚美の肩へ落ちる前に糸が張り、シロが床を滑った。彼女は猫を庇おうと屈み、板が背中をかすめた。痛みはなかった。糸が一本切れた。居間の壁の端が急に薄くなり、外の庭の色が透けた。
尚美は板を置き、シロを診た。脚を順に触っても嫌がらない。歩き方もいつもと同じだった。念のため動物病院へ連れていくと、目立った怪我はないと言われた。帰りに猫用の箱を買った。糸巻きは家へ置いたままにしたはずだったが、シロの前脚の間から、木の端が見えた。
尚美は車の中で糸巻きを取り上げた。巻いてある糸が増えていた。使えば減るはずなのに、木の端が隠れるほど太くなっていた。家の白い壁と同じ色の細い糸が、黄色い糸に混じっていた。彼女はそれを袋へ入れ、手の届くところへ置いた。運転中に開くことはしなかった。
帰宅すると、居間の角の向こうが見えた。壁には触れられるのに、その向こうに物置の青い屋根があった。家の内と外が重なったようだった。尚美は床へ座り、シロを膝に載せた。猫は何も気にせず、前脚を一つずつ舐めた。その間にも、壁の端が少しずつ柔らかくなった。
祖母へ電話して、糸巻きのことを全部話した。皿もカーテンも、助けてもらったのだと思うと伝えた。祖母はすぐには返事をしなかった。やがて、そうか、と言った。「私、こけた時、それ持ってなかったな」。尚美は何も言えなかった。祖母が転んだのは買い物の帰りで、この家ではなかった。
「一緒に持っていく?」
尚美が聞くと、祖母は猫のことだと思って喜んだ。糸巻きだと分かると黙った。「何を巻いてるんだろうね」。知っていることを隠した口調ではなかった。祖母にも分からない。尚美は電話を切り、母へ片づけを一人でやらないことにしたと連絡した。
母は次の休みに来ると言った。尚美は大きな家具を動かさず、食器や本を箱へ入れる作業だけにした。シロはそれでも糸をくわえてついてきた。箱の角に手をぶつけそうになると糸が引かれた。重い本を持つとシャツの背が張った。小さな失敗まで、家の形をほどいて助けようとしていた。
尚美は糸巻きを庭の机へ置いた。すぐにシロが持ってきた。戸棚へ入れても、いつのまにか口へくわえていた。叱っても困った顔をするだけだった。尚美は猫を抱き、ありがとう、と言った。シロは頭を胸へ押しつけた。礼を言えばやめるようなことでもなかった。
夕方、居間の柱が向こうの空へ透けた。床の畳も、端だけが薄く見えた。シロが敷居へ跳び上がろうとし、前脚を滑らせた。尚美は駆け寄った。自分の袖を糸が引いた。猫を助けるために出した手まで、何かが危ないほうから引き戻していた。
尚美はシャツを脱ぐ暇もなく、糸を握って止めた。掌へ細い線が食いこんだ。シロは敷居の向こうでぶら下がっていた。床まで十センチほどしかないのに、後ろ脚が空を蹴っていた。床の続きがそこではなくなっていた。彼女は自分の肘を柱へ当て、糸の力に逆らって腕を伸ばした。
猫の肩へ指が届いた。毛をつかまず胸を包み、手前へ引いた。重かった。シロの身体よりもずっと遠いところから重みが来た。尚美は片膝をつき、猫の後ろ脚まで抱き込んだ。黄色い糸が掌を滑り、皮膚が熱くなった。それでも彼女は自分の手で猫を持ち上げた。
シロが膝へ戻ると、糸が緩んだ。家の角から白い細いものが剥がれ、糸巻きへ吸いこまれた。尚美はそれを巻き戻そうとした。反対へ回すと、糸は木の芯へさらに入った。巻いた部分へ指を当てると、庭の冷たい風が触れた。彼女は回す手を止めた。
糸の先を切ることはしなかった。尚美は自分のシャツからほどき、壁から伸びる部分だけをそのまま残した。シロを持ってきた箱へ入れ、車へ運んだ。猫が出たあとも家は崩れなかった。薄くなった柱の向こうで、庭の葉が揺れていた。尚美は玄関を閉めず、母を待った。
母は庭からその柱を見て、直さなきゃ、と言った。尚美は、どうやって、と聞いた。二人で同じところへ手を置いた。硬さは残っている。母は長く考え、まず中へ入らないことにしよう、と言った。その返事で、尚美はようやく座りたくなった。掌には細い切り傷が何本もあった。
片づけには何日もかかった。人に頼み、重いものは二人以上で動かした。尚美は転びそうになる前に道を空け、箱を高く積まないようにした。シロは車や尚美の部屋で待ち、家へ連れてこなかった。糸巻きも持ち歩かなかった。小さな失敗で手を痛める日もあったが、そのたびに自分で手当てした。
最後に祖母が欲しがった裁縫箱を運び出した。木の糸巻きだけは、箱へ戻さなかった。ほどけた糸はどう回しても元へ戻らず、長いまま床に残った。尚美は空になった菓子箱を一つ置き、その糸で結んだ。入っている物はない。蓋が勝手に開かない程度に、緩く結んだ。
祖母は退院し、シロに会いに尚美の部屋へ来る。猫は膝へ上がらず、隣の座布団で丸くなる。祖母が縫い物を始めると目を開くが、新しい糸巻きには手を出さない。祖母は糸を噛み切らず、はさみを使うようになった。尚美も針が床へ落ちれば、猫を別の部屋へ移してから探す。
古い家の空箱を、尚美は一度だけ見に行った。玄関から見える畳の上に、ちゃんと置いてあった。結んだ糸の先に小さな影があり、箱の蓋を前脚で押さえていた。シロは尚美の部屋にいる。尚美はそのことを確かめる電話をせず、敷居へ足を出す前に自分で一歩下がった。


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