閉店の札を裏返しかけたとき、表のガラスを爪で叩かれた。相馬が顔を上げると、午後に衣裳を届けた榊さんが立っていた。ウェディングドレスの裾を、両手に抱えている。店から式場へは歩いて十五分ほどだが、その格好で戻ってくる客はいなかった。
「すみません、脱ぐのを手伝ってください」
背中にある小さな留め具を外せないのだろう。相馬は札を戻し、扉を開けた。通りでは買い物帰りの女の人が二人、立ち止まってこちらを見ていた。榊さんはそちらへ会釈をし、裾を抱き直した。靴を履いていない。店の中に入ると、裸足で歩いてきたのが分かった。足の指にアスファルトの黒い粉がついていた。
「お怪我は。式場の方はどうなさったんですか」
「足は大丈夫です。二人で来ましたから」
相馬は店の外を見た。迎えの車らしいものも、付き添いの姿もなかった。榊さんは、いつもの試着室を使っていいですか、と尋ねた。相馬が答える前に奥へ歩き始め、床に長い裾を下ろした。裾の裏へ泥がついていた。今日は晴れていたので、相馬はそちらの方が気になった。
三か月前から、この客を担当していた。榊さんは二十八歳で、笑うと前歯が少し重なって見えた。婚礼の話をするより、近くのパン屋の話をするときの方がよく笑った。付き添いで来る新郎は、榊さんの選んだ物を一度も否定しなかった。その代わり、どの衣裳を見ても、好きなのにしなよ、としか言わなかった。相馬は二人で決めてもらおうと、新郎の意見をわざと何度も訊いた。
今日のドレスは肩ののぞく、袖の短い形だった。背中の小さなボタンは飾りで、その下にファスナーがある。相馬は試着台に上がってもらい、榊さんの背中へ手を回した。首筋に擦り傷が二本あった。乾いた血がついている。指で触れることはせず、「痛いところはありますか」と訊いた。
「今は、ないです」
榊さんは鏡の中の相馬を見た。「全部脱いだら、分かりません」
相馬はファスナーの金具を持った。下へ引く前に、榊さんの腹のあたりから、布を掻く音がした。小さな指輪が刺繍に触れたときのような音だった。両手を前で組んでいるせいだと思ったが、鏡の中の榊さんは、手を左右へ下ろしていた。
「お召し物は、式場に?」
「持ってきました。裾の中の袋に」
相馬がしゃがみかけると、榊さんは初めて強く言った。「後にしてください」。相馬は立ち直った。ファスナーを下ろす。肩甲骨の間が開き、肌着が見えるはずだった。そこに、違う布があった。白地に青い小さな花の模様。相馬は、下にブラウスを着てきたのかと思った。
その布が呼吸をした。榊さんの息とは合っていなかった。榊さんは浅く息を吸って止めているのに、青い花がゆっくり左右へ離れ、また寄った。花柄の布の上に、薄い黄色の髪が一本垂れてきた。
相馬は手を離した。開いたドレスの背中に隙間ができ、榊さんの身体が前へ出た。背中を丸め、腰から何かを抜くように、左右へ小さく動いた。肌着をつけた本当の背中が見えた。そのすぐ後ろに、花柄のブラウスを着た別の背中があった。
榊さんがこちらを振り返った。
「下、押さえてもらえますか」
相馬は動かなかった。榊さんはもう一度頼み、それから自分で裾を踏んだ。短い袖から片腕を抜き、もう片腕も抜いた。胸元を腰の下まで押し下げ、片足ずつ抜いた。白い布は彼女の足元へ落ちるはずだった。落ちなかった。後ろに残る身体が、ドレスを着たまま立っていた。
ブラウスの女だった。榊さんより頭一つ小さい。薄い黄色の髪は、濡れたように頬へ貼りついていた。顔は壁へ向いていて見えない。女の足はドレスの裾に隠れていたが、試着台には乗っていなかった。台と壁の間に立ち、榊さんの腰を避けるように身を反らしている。二人の身体が一着に入っていたとしか思えなかった。
「ちょっと、どなたですか」
女は答えなかった。榊さんの方が、相馬の袖を引いた。声を下げて、また後にしてください、と言った。これほど近くにいる者へ聞こえないはずがなかった。女もそれを分かっているのか、肩を少し動かした。笑ったように見えた。
榊さんは裾の中を探り、口を結んだエコバッグを取り出した。下着姿のまま台を下り、バッグから紺のワンピースを出して着た。髪の飾りも自分で外す。作業用の椅子へ、使い終わったピンを一本ずつ並べていた。相馬は、他人が自分の部屋で身支度をしているような、間違ったところへ入り込んだ気分になった。
「お式を中止なさったんですか」
「してません」
榊さんはワンピースの肩を直した。後ろのファスナーを上げてほしそうに、相馬へ背を向けた。相馬は手を出せなかった。榊さんは困った顔をし、自分で腕を回して何度か試したあと、半分開いたままで上着を羽織った。
「向こうは、まだ続いてます」
女が、試着台の上へ足を出した。土に濡れた踵だった。相馬は反射的に一歩退いた。榊さんは床に下ろしてあったパンプスを拾い、女の足の前へ置いた。さっき店へ入ってきたときには持っていなかった。あの裾の中に、ずっとあったらしい。
女は腰を曲げずに足を伸ばした。靴の中へ指を入れたが、踵が余り、押し込むたびパンプスが台の上を逃げた。相馬は椅子を使ってください、と口に出しかけた。榊さんに言うのと同じ調子になるのが嫌で、言わなかった。すると女は台へ尻を下ろし、膝を抱え、両手で靴を自分の足へ押しつけた。
手にも土がついていた。爪の間だけでなく、関節の皺の底まで黒かった。靴を履こうとするたび、ドレスの腰が左右へ引かれた。相馬が三日前に直したところだった。糸が切れる音がし、そこから太い染みが下へ走った。
「お待ちください。そのままだと破れます」
女の手が止まった。榊さんは、相馬が仕事の口調に戻ったことにほっとしたのか、少し笑った。「直せますか」と訊いた。誰のためにかを言わなかった。相馬は返事をしなかった。女の肩からずれたドレスが、脇の下まで落ちかけている。大きさがまるで合わなかった。
「榊さん。ご主人を呼びます。ここの電話を使っていいですから」
榊さんの前歯は見えなくなった。唇を結び、バッグの持ち手を両手で握った。ずっと落ち着いていたのに、そこで初めて帰りたがる子供のように見えた。相馬は台帳を出すため、カーテンを引いて売り場へ出た。店には二人だけ、と思いかけて、奥を振り返った。
女がこちらを向いていた。青い花のブラウスが、ドレスの胸元からはみ出していた。目は細く、鼻筋に土が固まっていた。肌色の粘土を指で押して作ったように、両頬だけが深く窪んでいる。相馬を見ると、口を開けた。口の中にも青い花があった。ブラウスと同じ柄の布を、歯のない歯茎で噛んでいた。
相馬はカーテンを閉めた。電話へ手を伸ばしたところで、榊さんが出てきた。小さな封筒をカウンターへ置いた。現金が見えた。貸衣裳の代金はすでに支払われている。榊さんは、足りなければ後で送ると言った。
「着られるようにしてあげてください」
「引き受けられません。知らない方でしょう」
「私だって、最初はそうでした」
相馬は封筒を押し返した。榊さんは受け取らず、扉へ歩いた。止めるために伸ばした手が、上着の肘に触れた。榊さんが身をすくめた。二本の擦り傷を思い出し、相馬は手を引いた。それで通してしまった。榊さんは店の外でバッグを開け、薄い室内履きを出して履いた。通りの向こうへ行くまで、一度も振り返らなかった。
奥で裾を引きずる音がした。女はカーテンの下から片足を出し、履けないパンプスを相馬の方へ押した。相馬は首を振った。相手からは見えない。分かっていながら、何度も振った。何かを断る言葉は、さっき客へ使ったばかりなのに、出てこなかった。
店の電話が鳴った。式場の衣裳担当だった。相馬の返事を待たず、困った調子で榊様はそちらへいらしてませんかと尋ねた。相馬は今帰ったと答えた。電話口の向こうで誰かが短く息を吐き、女の人が、よかった、と言った。
「では、こちらへお戻りですね」
相馬はカーテンを見た。裾が床を滑り、女が少しずつ出てきていた。借り物の靴を諦めたようだった。片手で胸元を押さえ、もう片方でファスナーの金具を背中に探している。
「衣裳は、まだこちらにあります」
相馬がそう言うと、電話の向こうが静かになった。やがて担当の女が声を低くし、ご新婦様は何人いらっしゃいますか、と訊いた。
相馬は受話器を握り直した。女がこちらへ背を向けて待っていた。花柄のブラウスに、ファスナーが少し噛み込んでいる。それを直してほしいのだった。


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