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脱衣場の下

八木が辞めて三か月になる。
川瀬は、その番号を携帯から消していなかった。近くのスーパーで見かけても向こうが会釈をしなくなったので、もう頼み事をしてはいけない相手なのは分かっていた。

共同浴場の脱衣場に、小さな入口がある。鏡の下の板を外すと、床下へ潜れるようになっていた。川瀬が管理を任されるより前から、そこには鼠が入った。
風呂を掃除する人と、床下の鼠を片づける人は、いつの間にか別になっていた。八木が働き始めてからは、後者は八木だった。

「俺、これも仕事だと思って入ったんじゃないです」
一度、そんなことを言われた。もう四年ほど前だ。
川瀬は、俺だって好きで人の落とした毛を拾っているわけじゃない、と返した。若いのだから体が利くし、床下の入口にも入りやすい。八木は一言も返さず、黒い袋を持って板の向こうへ消えた。
辞めるまで、文句を言ったのはその一回だけだった。

気づくと脱衣場から臭いがするようになっていた。
床を拭いても消えない。常連の一人が、死んだ鼠でもあるんじゃないか、と番台へ言いに来た。川瀬は、調べているところです、と答えた。調べてはいなかった。
八木の代わりに入った井沢さんには、小学生の子供がいる。閉店後まで頼むのは無理だった。業者へ電話をすると、見に来られるのは週明けになると言われた。
土日を休みにするほどのことではないだろう。
そう考えたあとで、川瀬は鏡の下の板を見た。

金曜の晩、井沢さんをいつもの時刻に帰した。客がいなくなると湯を抜き、ボイラー室を閉め、入口へ鍵を掛けた。
軍手と懐中電灯は受付の戸棚にあった。袋を探しているうちに、八木が最後の給料を取りに来た日のことを思い出した。
「あそこは俺がやめても、見てくださいね」
八木がそう言ったのを、川瀬は聞き流していた。今更、自分がどれだけ役に立っていたかを言いたいのか、と思ったのだ。

板を外すと、臭いははっきりした。川瀬は顔を背け、軍手をした手で鼻を拭きそうになった。懐中電灯の明かりを下へ入れると、床を支える短い柱の間に白いものが見えた。
手を伸ばしたが届かなかった。
八木はどうやっていたのだろう。川瀬は初めて考えた。
鼠を拾った袋が、次の日には裏のごみ置場にあった。それだけを見て仕事が済んだと思っていた。

頭から入ろうとすると、肩が枠につかえた。いったん後ろへ下がり、上着の釦を外しかけたが、やめた。床下へ入るのに、服を減らしてどうする。
袖を捲り、横向きになって肩を通してから、腹這いで入った。
入口から二本目の柱の陰に、白い塊があった。近づくと鼠ではなかった。何かの腹だった。毛がなく、皮が薄く、片方へ窪んでいる。表に回って顔を確かめようとしたとき、奥で音がした。

土を引き摺る音だった。
川瀬は灯りを上げた。床が低くて、腕を伸ばすこともできない。明かりが柱を照らし、その向こうに、ひどく大きな顔があった。
人の顔に見えた。
目の辺りには土がついていた。口が開いていたが、歯はよく見えなかった。顔の下に体が続いているのは分かる。二つの肩が床板に押しつけられ、何度も片方ずつ前へ出ていた。
こちらへ来ようとしている。

川瀬は懐中電灯を放した。
後ろへ下がろうとして、肘が柱に当たった。足が入口の縁を蹴った。自分がそこを通ってきたことが信じられないほど狭かった。
声を出したら、奥からも声がした。
言葉には聞こえなかった。同じ苦しさで息を吐く、もう一人の声だった。

脱衣場へ這い出すと、川瀬は板を戻した。重い体重計を引き摺ってきて、板の前へ押しつけた。
両方の膝が震えている。入口まで歩き、鍵を開けた。外の道にはまだ人通りがあった。飲み屋から帰る二人連れが、川瀬へ手を振った。
川瀬は手を振り返してから、自分が何をしているのかと思った。
携帯を出した。八木へ掛けるつもりが、指が隣の番号を押していた。

電話に出たのは、この浴場の修繕を頼んでいる大工の森田だった。
「中に誰かいる」
川瀬はそう言った。鼠でも獣でもなかった。そう説明するほかに、言いようがなかった。
森田は近くにいた。十分もしないで来たので、川瀬は一人で戻らずに済んだ。

森田は脱衣場を覗くと、何で体重計をこんな所へ置くんだ、と言った。
川瀬が説明しても、信じた顔にはならなかった。床下へ人が入る穴などほかにない。自分が塞いだせいで閉じ込めているなら、まず開けろ、と言う。
川瀬は体重計を退かした。森田が板を外し、自分の灯りを差し入れた。
「おい」
それきり森田が黙った。
川瀬は脇から覗こうとしたが、腕で押し戻された。
「入るな」

森田は板を元どおりにはめ、立ち上がった。顔が白かった。
川瀬は、見ただろう、と言った。森田は返事をしなかった。川瀬の胸を見て、それから顔へ目を戻した。
「お前、向こうで何してた」
「俺はここにいただろ」
「分かってるよ」
強く返してから、森田は口を閉じた。
川瀬は何を言われているのか、分かりたくなかった。

森田が見たのは川瀬だった。
奥に這いつくばり、顔をこちらへ向けていた。体は柱と柱の間いっぱいに広がっていた。灯りを向けると、片手を上げようとしたらしい。
「お前が今してるのと、同じ手だった」
川瀬は自分の手を下ろした。袖口を押さえていた。這っている間に捲った袖がずり落ち、片方の手を半分隠していたのだ。
森田はもう一度、川瀬の作業着を見た。

二人で表へ出た。川瀬が鍵を掛ける間、森田は道の方を見ていた。
「明日は休め」
「土曜だぞ」
「休めよ」
森田に怒鳴られたのは、それが初めてだった。川瀬は頷いた。業者へ頼む、警察へ言う、どうにか説明して人を呼ぶ。考えつくことを二人で言い合ったが、森田が中へ戻ることにはならなかった。
別れ際に、川瀬は八木のことを口にした。
森田は、あいつを呼んでどうする、と言った。

翌朝、川瀬は一人で浴場へ来た。
業者の電話がつながるには早すぎた。入口へ休みの紙を貼るため、と自分に言った。事務机の引き出しを開けたが、何と書けばよいのか決まらなかった。
設備の故障。清掃のため。
鼠、と書くわけにはいかない。そのうち廊下の先へ、目が行った。

板は元の場所にあった。体重計は退けたままだった。
その前に黒い袋が一つ置いてあった。
口がきつく結んである。八木のいた頃にも見た袋だったが、今ある物は大きかった。川瀬は動けずにいた。誰が出したのか。昨夜、鍵を掛けた。入口は開いていなかった。
袋の底から、床へ薄い水が流れ出していた。

このまま脱衣場に置いておくわけにはいかない。袋に収まっているなら、床下へ潜るよりはましだ。川瀬は結び目を避け、上の方を鋏で切った。
覗いてすぐ、鋏を置いた。
青い作業着が入っていた。
背中を向けて丸まっている。衿の下に小さな焼け焦げがあった。川瀬が煙草を吸っていた頃、火のついた灰を背中に落として穴を開けたものだ。妻に言われて煙草をやめてからも、その上着は使っていた。
今、着ている。

川瀬は自分の背中へ手を回した。
指先が小さな穴に触れた。布の下の皮膚を爪で押した。痛かった。
川瀬は手を離した。袋から離れたところに座り、脱衣場の鏡を見た。土のついた顔が映っていた。昨夜、家へ帰ってから風呂に入る気にはなれなかったのだ。
鏡の川瀬は、ちゃんと椅子に座っていた。

八木は三度目の電話で出た。
川瀬は、今すぐ来てほしいと言った。用事を訊かれたので、床下のことで、と答えた。長く黙られた。
「業者を呼んでください」
川瀬は、もう頼んである、と言った。
嘘ではなかった。見に来られる日が決まっているだけで、何を片づけてもらうのかはまだ伝えていなかった。

「あのな、いつもの鼠じゃないんだ」
川瀬の声が小さくなった。
「俺の服が出てきた」
八木は何も言わなかった。川瀬は袋へ背を向け、床下で見たもの、森田の見たものを説明した。
喋っているうちに、来てくれるに決まっている気がしてきた。あれだけ長く一緒に働いた相手だ。八木が病気で休んだときには、川瀬が受付へ入った。金が足りないと言われて給料を先に渡したこともある。
話し終えると、八木は、服だけでしたか、と訊いた。

川瀬は振り向かなかった。
袋の中身を、そこまで見てはいない。
「ちょっと来て、見てくれないか」
「俺も、最初は見てました」
八木の声は平らだった。
川瀬は携帯を強く握った。聞き返す前に、八木が続けた。
「途中から、袋だけ替えてました」

通話はまだつながっていた。
川瀬はもう一度、来てくれ、と言った。返事を待つ間に、八木の息の音が聞こえた。いつも風呂掃除のあとに休んでいた、小さな事務室を思い出した。
背中の方で袋が擦れた。
川瀬は振り向く代わりに、床下の入口を見た。板が内側から押されて、少し浮いていた。そこから、懐中電灯の細い明かりが漏れた。
昨夜、落としてきた灯りだった。
誰かが拾い、まだ川瀬の出ていった場所を捜していた。

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