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拍手の残り

本当に受けたときは、何を喋ったかあまり覚えていない。次の台詞を言いたいのに、客の笑いが終わらない。その間だけ、俺たちは面白い人間だった。
あの晩のことは、台詞も、間も、嫌になるほど覚えている。

相方の竹内が、辞めると言い出していた。二十八になった年だった。俺たちは芸人というより、芸人を続けるために働いている二人だった。竹内は引っ越しのバイト、俺は居酒屋の深夜。舞台のために休みを合わせると、どちらかの給料が減った。

竹内は理由を、腰が痛い、と言った。引っ越しの仕事のことだったのに、俺は、漫才は立って喋るだけだろ、と返した。
竹内は、そうなんだけどな、と笑った。
あそこで怒ってくれれば、まだよかった。

稽古に使っていたのは、古い雑居ビルの地下室だった。普段は小さな催しをする場所で、平日の深夜なら安く貸してもらえた。椅子が三十脚ほどあり、正面に一段高い舞台があった。
音が外へ漏れにくいのがありがたかった。地上の店が閉まるころ、俺たちは鍵を受け取り、冷えた弁当を持って下りた。

その日は最後に一度だけ、次のライブのネタを合わせる約束だった。竹内は駅で弁当を買わず、家からおにぎりを持ってきた。丸い形で、海苔が巻いていなかった。
「彼女?」
俺が聞くと、竹内は、俺、と答えた。
「握るの、下手だな」
「食えたらいいだろ」
くだらない会話だった。それを俺は、あとになって何度も思い出した。

ネタは、俺が喫茶店を始めたいと言い、竹内が注文をつけるものだった。何かを始めたいと言い出すネタしか書けなくなっていた。竹内は最初の一分で、ここ、客ついてこんと思う、と言った。
「一回、最後までやろう」
俺は答えた。
最後までやれば、何とかなると思っていた。

終わった瞬間、拍手がした。
客席の後ろからだった。強く、速く、何人もいるように聞こえた。俺は反射的に頭を下げた。竹内も下げた。
顔を上げると、椅子は全部空だった。

俺たちはしばらく客席を見た。それから竹内が、管理の人かな、と言った。奥に小さな事務室があり、扉が閉まっていた。俺が声をかけても返事はなかった。明かりも点いていなかった。
「隣の音?」
俺が言うと、竹内は肩をすくめた。

もう一度やった。
途中で俺が台詞を間違え、竹内が素で笑った。俺も笑い、立て直そうとしたところで、また拍手がした。
今度は、俺たちが終わる前だった。

笑い声はなかった。拍手だけだった。竹内は口を閉じ、客席の後ろを見た。
「今の、何が」
そう言いかけて、やめた。
俺は、受けたんじゃない、と言った。空席を見ながら、そんなことを言った。

地下室の入口まで上がった。階段の上の戸は閉まっていた。外へ出ると、ビルの管理をしている男の人が自転車に乗るところだった。誰かまだ残っているか聞くと、もうお宅らだけ、と答えた。
地下の拍手のことを言うと、スピーカー切れてる、と逆に訊かれた。

戻って機材を見た。音源はつないでいなかった。マイクも使っていなかった。竹内はコンセントを抜いた。
「これでいい?」
怒っているように聞こえたので、俺は、俺が鳴らしてるわけじゃないだろ、と言った。竹内は、ごめん、と答えた。

帰ればよかった。
だけど、そのあと、俺がずっと直せずにいた一か所を変えると、拍手が長くなった。竹内が言った、客がついてこない一分を削ったときだった。
俺は少し興奮した。
「ここ、やっぱ切って正解じゃん」
竹内は時計を見た。
「もう終電、ないよ」

朝までいるつもりで借りていた。竹内は折り畳み椅子を二つ並べて横になった。俺はノートを開き、台詞を直した。声に出してみると、時々、短い拍手がした。
それを聞きながら、鉛筆で線を引いた。

何度目かに、竹内が起き上がった。
「それ、やめてくれ」
「何を」
「今、そいつに向かって喋ってるだろ」
俺は客席を見た。何もいなかった。
「そいつって、誰」
竹内は顔をしかめた。
「知らんよ。だから嫌なんだろ」

竹内が片づけ始めた。帰っても電車はないが、外の店で待つという。俺は引き止めた。一回、今のをやらせてくれ。それで終わりにする。
竹内は長く黙り、おにぎりの残りを袋へ入れた。
「一回だけな」

最後のネタは、妙にやりやすかった。台詞を待つ時間がほとんどなかった。竹内が次に何を言うか、息を吸うだけで分かった。普段なら俺が被せてしまうところも、きれいに空いた。
終わりの台詞を言うと、大きな拍手がした。

竹内は頭を下げなかった。
俺が礼をして顔を上げると、竹内は舞台の端に立ち、手のひらを見ていた。
「俺、叩いてないよな」
何を、と聞くと、竹内は両手をポケットへ入れた。
拍手が一人分、減った。

俺はその音を聞き分けた。さっきまでは分からなかったのに、急に、一つだけ近くで鳴っていた手の音が消えた。
竹内はポケットの中で手を握っているようだった。
「お前、下ろしてみて」

俺も両手を体の脇へ下ろした。拍手がまた減った。
客席の後ろで、残った誰かがゆっくり手を叩いた。さっきまでの勢いはなく、終わるのを惜しむように、一つ、間を空けて、もう一つ。
俺たちは何も言わなかった。

竹内が、辞めるわ、と言った。
今まででいちばん普通の言い方だった。
後ろの拍手が止まった。

俺は怖くなった。竹内が辞めることより、客が続きを待っているように静かになったことが怖かった。
「それ、今じゃなくてもいいだろ」
俺が言うと、客席で椅子が鳴った。
竹内は俺を見た。
「今、言わないと、お前またネタにするだろ」

俺は何度も竹内の私生活をネタにしていた。彼女に振られたこと、バイトで叱られたこと、実家から届く荷物にパンツが入っていたこと。竹内も笑っていた。だから、笑っているうちは構わないと思っていた。
その晩も、言い返す言葉を探しながら、客席の反応を待っている自分に気づいた。

竹内が舞台を下りた。俺は名前を呼んだ。
客席の奥から、竹内が「何」と答えた。
階段の前にいる竹内は、振り向かなかった。

事務室の扉が開いた。暗い中に、人の膝が見えた。椅子に座っているらしく、膝の上へ両手を置いていた。
竹内のズボンと同じ色だった。膝に、白い米粒が一つついていた。
さっき竹内が、おにぎりを食べて落としたものだった。

俺は階段の竹内を見た。膝に米粒はなかった。
「取っただろ」
俺は言った。何を訊いているのか、自分でも分からなかった。
竹内は、行くぞ、とだけ答えた。

扉の中で、両手が持ち上がった。
拍手を待っているのではなかった。こちらが何かを言えば、すぐ叩けるように構えていた。その手つきが、稽古で俺の新しい台詞を待っていた竹内と同じだった。
俺はノートを机に置いた。

階段を上がるあいだ、後ろから俺たちの声が聞こえた。喫茶店を始めたいという、最初の台詞だった。削ったはずの一分も、そのまま続いた。
竹内は足を止めなかった。
俺も止めなかったが、どこで笑いが起きるか、耳で追ってしまった。

地上へ出ると、雨が降っていた。竹内は軒の下で煙草を出した。火をつける前に、自分の手を見た。両手のひらが赤く腫れていた。
俺の手も同じだった。
何度も強く叩いたあとの、熱を持った赤さだった。

俺は竹内に謝った。拍手のことではなく、辞めたいと言ったのを、きちんと聞かなかったことを。
竹内は煙草をしまった。
「今、それも聞かれてる気がする」
地下から、短い拍手がした。
二人で軒を出て、雨の中を駅まで歩いた。

コンビは解散した。最後のライブにも出なかった。主催の人には迷惑をかけ、しばらく悪く言われた。竹内はバイト先で社員になり、俺は一年ほど一人で続けたが、結局やめた。
あの地下室へノートを取りに戻ることはなかった。

忘れ物の連絡は来た。管理の人は、紙のノートが二冊あると言った。俺は一冊しか持っていっていなかった。竹内はネタを書かない。処分してくださいと頼んだ。
電話を切る前、管理の人が、昨日も練習してたの、と訊いた。
していません、と答えた。
相手は、そう、とだけ言った。

竹内とは、今も年に一度くらい会う。昔の知り合いに会うと、二人でちょっとやってよ、と言われることがある。竹内は、もう忘れた、と笑う。
俺は忘れていない。喫茶店のネタも、最後の一回も、全部言える。
でも、口に出さない。

数年前、竹内が、あのときおにぎり食ったっけ、と聞いてきた。
食ったよ、と答えると、竹内は首を傾げた。
「俺、袋に入れて、持って帰ったんだよな」
半分残ってたろ、と言うと、そうなんだけど、と考えこんだ。
「家で開けたら、二つとも丸ごとあったんだよ」

俺は、地下室の奥に見えた米粒を思い出した。
竹内には言わなかった。
彼も、何か言おうとして、やめたようだった。

そのあと少し気まずくなり、俺は昔のバイト先であった失敗を話した。竹内が笑った。昔みたいに、体を折って笑った。
俺は話の続きをやめた。
竹内も笑うのをやめた。

隣の席には誰もいなかった。それを二人で確かめてから、竹内は店員を呼び、水を二つ頼んだ。
運ばれてきたコップを、それぞれ片手で持った。空いた手は膝へ置いた。そうして、今の仕事の話をした。

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