火を迎える晩には、家の中で喧嘩をしない。小さいころ、祖母にそう言われた。
弟と叩き合いになっても、その日だけはどちらが悪いかを訊かれなかった。祖母は私たちを引き離し、口を洗ってきなさいと言った。手ではなく口を洗わせるのが、子供にはおかしかった。
大人になってから理由を聞いたことはない。ほかにも、そういうままのことがたくさんあった。家を出ると、訊く機会も、訊きたい気持ちも減った。
実家を売るために帰った年、たまたまその晩に当たった。祖母は亡くなり、父は弟の家に移っていた。家には誰も住んでいなかったが、私と弟で荷物を片づけるため、二晩だけ泊まった。
弟は夕飯を買いに出て、私は台所の食器を包んでいた。
玄関に、近所の藤枝さんが来た。昔から背の高い女の人で、会うたび、小さいころの私が台風の晩に泣いた話をした。その日はその話をせず、庭へ目をやった。
「今夜、いるの?」
私はいると答えた。
「じゃあ、助かった。お父さんには電話してあるから」
何が助かったのか分からないうち、藤枝さんは裏の物置へ行き、平たい鉄の皿を持ってきた。
皿は覚えていた。縁に三つ足がつき、いつも物置のいちばん上に置いてあった。火を分けてもらうときに使うものだった。
「洗わなくていいよ。そこへ出しといて」
藤枝さんは玄関の脇を指した。
弟が戻り、今夜は火が来るらしいと言うと、弁当の箸を割りながら、まだやってるのか、と言った。私たちは祖母のことを少し話した。口を洗わされた話をすると、弟は覚えていなかった。
「俺、そんなことされたか?」
「されたよ」
「姉ちゃんだけじゃないの」
父へ電話をすると、火は受けておけ、と言われた。家を売る話より、そちらのほうを気にしているようだった。
「誰もいなくなったら、どうするの」
私が聞くと、父は、だから今片づけてるんだろう、と答えた。会話が少し噛み合わなかった。
日が落ちると、道路に人が出た。祭りというほど賑やかではなく、子供の声もしなかった。家の前に椅子を置いて座る人、門だけ開けて中で待つ人。昔はもっと提灯があった気がしたが、記憶違いかもしれない。
藤枝さんの家から、火が見えた。小さな皿に炭を載せ、男の人が両手で運んでいた。
私は玄関へ皿を出した。弟は裏で段ボールを潰していた。火が来たら呼ぶつもりで、私は上がり框に座って待った。
家の中には、祖母の着物を出した匂いが残っていた。箪笥を空にしても、匂いは抜けなかった。
火を持ってきたのは、知らない若い男の人だった。私を見ると少し戸惑い、ここの人ですか、と聞いた。
娘です、と答えると、うなずいた。
「じゃあ、お願いします」
火ばさみで炭を二つ、うちの皿へ移した。炭は赤く、薄い灰をかぶっていた。私は礼を言い、男の人が次の家へ行くのを見送った。
皿を玄関の外に置いたままにしていいのか、分からなかった。昔、祖母がどこへ置いたか覚えていない。父にもう一度電話をしようとしたところで、弟が家に入ってきた。
「来た?」
私は皿を指した。
弟はそれを見て、何で二つ、と言った。
「二つじゃ駄目なの?」
「知らないけど。うち、一つだった気がする」
炭の数を気にするほど大事な行事だったのか、と私は少し笑った。弟は笑わなかった。顔色が悪かった。
「さっき、裏にも来た」
私は箸を持つ手を止めた。
「誰が」
「火、持って」
弟は物置の前に、別の皿を置いていた。錆びた洗面器に、小さな炭が一つ載っていた。誰から受け取ったのか聞くと、よく顔を見なかった、と言った。
「お父さんが来れないからって。そう言ったし」
父の名前を知っていたので、近所の人だと思ったらしい。
私は藤枝さんを呼びに行った。彼女は事情を聞くと、足早に裏へ回った。洗面器をのぞき、弟を見た。
「入れた?」
「ここへ置いただけです」
「家の中には?」
弟は首を振った。
藤枝さんは一度だけ、よかった、と息を吐いた。
洗面器の火は小さかった。赤く見えるところもほとんどなく、消えかけているようだった。それなのに近づくと、額が熱くなった。
藤枝さんは火を移そうとしなかった。弟へ、誰が持ってきたか、もう一度思い出して、と頼んだ。
弟は目を閉じ、男の人、と答えた。
年は、と訊かれると、私のほうを見た。
「姉ちゃんより、少し上くらい」
私は、それじゃ分からない、と言った。弟は顔をしかめた。祖母が生きていたら止めるような言い争いになりかけて、藤枝さんが私たちの間に立った。
「今夜は、喋らなくていい」
表の炭が、ぱちっと鳴った。
家の中で、同じ音がした。
私は玄関へ戻った。皿は外にあった。台所には誰もいなかった。奥の和室で、誰かが座布団を叩いたような音がした。
祖母のいた部屋だった。昼間、箪笥を空にし、座布団も全部、紐で縛っていた。その束が、ほどけていた。弟が触ったのかと思ったが、聞きに戻る気になれなかった。
一枚だけ、座布団が敷いてあった。いつも祖母が座っていた場所だった。
私はそれを拾おうとした。畳に膝をつくと、後ろで父が咳をした。
振り向かなかった。
父は弟の家にいる。そこへ電話したばかりだ。私はそう考えながら立ち、部屋を出た。
藤枝さんが廊下にいた。
「聞いても、返さなくていいから」
その言葉で、私はますます返事をしそうになった。何を、と問い返したくなった。藤枝さんは私の口元を見て、静かに首を振った。
祖母が口を洗わせた日の顔を、急に思い出した。
裏では弟が洗面器の前にしゃがんでいた。火に当たっているのではなかった。両手を膝に載せ、誰かの話を聞いているようだった。
藤枝さんが弟の肩へ手をかけた。
「こっち」
弟はすぐに立ったが、一度、洗面器へ頭を下げた。
「何、聞いてたの」
私が小声で訊くと、弟は、別に、と答えた。
家の中へ戻らず、三人で表にいた。隣の家でも、誰かが玄関へ出てきた。向かいの家の戸が閉まり、別の家で灯りが消えた。
町全体が、うちの音を聞いているようだった。
私は藤枝さんに、消したらいけないんですか、と訊いた。
彼女はすぐには答えなかった。
「消えたら、どこへ行くか分からないでしょう」
「何が」
藤枝さんは道路を見た。
火を運んできた男の人が、戻ってきていた。空の皿を持ち、私たちの家の前で止まった。
「二つ、渡しました?」
藤枝さんが聞いた。
男の人はうなずいた。
「こちら、二人いらっしゃるって」
藤枝さんは眉を寄せた。男の人は不安そうに私と弟を見た。
「違いました?」
私は弟の腕をつかんだ。何かを数えられている気がした。住んでいる人の数ではない。帰ってきて、火を受け取った人の数だった。
弟が小さく言った。
「裏のも、二人って言った」
藤枝さんが顔を上げた。
「お前さん、二人って答えたの?」
弟はうなずいた。家に何人いるか聞かれ、姉と二人だと答えたらしかった。
男の人が火ばさみを持ち直した。藤枝さんは彼を止め、ほかの家へ行くよう言った。男の人は困った顔をしたが、従った。
私は、逃がしている、と思った。手伝ってくれる人を呼ぶのではなく、一人でも離そうとしていた。
藤枝さんは自分の家から大きな皿を持ってきた。表の炭をそこへ移し、私に持たせた。
「ここを動かないで」
弟には、私の隣にいるよう言った。それから一人で裏へ回った。
台所で水が出た。
藤枝さんが何か言い、別の人が返事をした。聞き覚えのある声だったが、誰の声か考えないようにした。弟は私の袖をつかんでいた。私も手を離さなかった。
奥の部屋で、座布団を重ねる音がした。
藤枝さんが戻ってきたとき、手には洗面器がなかった。両腕の袖を肘までまくり、指先を赤くしていた。
「明るくなるまで、外にいなさい」
それだけ言った。
私が礼を言おうとすると、藤枝さんは首を振った。今夜はいいから、と言った。
私たちは車の中で夜を明かした。皿は車の前に置いた。炭は朝まで赤かった。弟は途中で眠ったが、何度も目を開け、窓の外を見た。
私は一度も眠れなかった。
夜明けに玄関を開けると、家の中は昨日片づけた通りだった。座布団は紐で縛られ、台所の蛇口も閉まっていた。裏の洗面器には、白い灰が薄く残っていた。
灰の上に、箸を置いたような細い跡が二本あった。弟はそれを見ると、また、すみません、と言った。
誰に向けたのか、私は聞かなかった。
父は電話で話を聞き、長く黙った。
「受けておけって言ったのは、お父さんだよ」
私が責めると、父は、分かってる、と答えた。
「表のだけ、って言わないと分からないよ」
父は何も言わなかった。
家はその年のうちに売れなかった。藤枝さんが、冬を越してからにして、と頼んだからだ。理由を聞くと、私もまだ片づいてない、と言った。
あの晩、何を引き受けたのか、彼女は話さなかった。
翌年、家は更地になった。荷物を運び出すとき、鉄の皿だけは父が持っていった。弟の家へ置く場所がなく、物置にしまったと聞いている。私は見に行っていない。
藤枝さんとは年賀状だけが続いた。写真もなく、短い挨拶だけだった。
何年か後、弟の娘が小学校へ上がったころ、遊びに来ないかと電話があった。久しぶりに三人で食事をし、父もよく喋った。
食べ終わって、姪が台所で口を洗っていた。
歯を磨いているのかと思ったが、手に歯ブラシはなかった。水を含んで、吐いて、また含んでいた。
弟がそばに立ち、もういいよ、と言った。
私は父を見た。父は自分の茶碗を持ち、底に残った茶を見ていた。
「今日は、何日だっけ」
私が訊くと、弟は日付を答えた。
あの晩だった。
庭の物置で、炭のはぜる小さな音がした。弟は姪の手を拭き、私に向かって、今年は三人、と言った。


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