除雪車から見ると、その家の前だけ、春のようだった。
屋根にも庭にも雪がない。両隣には腰ほどの雪が積もり、道路は削った雪の壁になっているのに、門から玄関までは土が見えていた。軒先に長靴が一足、逆さに掛けてあった。
助手席の杉本が指をさすと、運転していた小田は、地下水でも流してるんだろう、と言った。そういう家はほかにもある。ただ、あの家から道路へ水が流れ出している様子はなかった。地面も濡れていなかった。
雪が降り始めて四日目だった。杉本は町の工務店で働き、冬は除雪の応援に入っていた。その集落へ行くのは初めてではなかったが、家の持ち主を一軒ずつ知るほどでもなかった。
小田は道路を一度通したあと、戻りに各家の入口を確かめるつもりでいた。
昼前、杉本は雪のない家の前へ立った。雪の壁に切れ目があり、門のところだけ地面が低かった。道路から二段ほど下りるようにして庭へ入ると、靴底が砂を踏んだ。
温かくはなかった。普通の冬の土だった。
玄関から女の人が出てきた。灰色の割烹着を着ていた。年は六十にも八十にも見えた。雪がない理由を聞くのは余計なことだと思い、杉本は、何か困っていることはないかと尋ねた。
女の人はすぐに、裏を見てもらえますか、と言った。
家の脇は狭く、石の敷かれた通路だった。表と同じく雪がなかった。杉本が奥へ入ると、勝手口の前に、箒と赤いプラスチックの塵取りが立てかけてあった。
「こっちはいいんです。あっち」
女の人はさらに向こうを指した。
裏の斜面に、雪を踏み固めた細い道があった。隣の家へ続いているようだった。足跡は一人分で、行った跡だけが見えた。
「主人が、帰ってこなくて」
杉本は女の人を見た。
「いつからですか」
「朝。ちょっと見てくるって」
杉本は小田を呼んだ。二人で斜面の下まで確かめたが、雪が深く、それ以上は進めなかった。小田は警察へ連絡した。女の人には家の中で待つよう言い、杉本が残った。
台所にはストーブがついていた。女の人は湯を沸かし、杉本に茶を出した。杉本は濡れた手袋を膝に置き、電話で名前と住所を伝えた。
女の人は、戸口のところを気にしていた。
「開けておいたほうが、帰りやすいでしょう」
杉本は、寒いから閉めましょう、と言って勝手口を閉めた。
男の人は午後、集落の下の道路で見つかった。除雪の様子を見に行き、戻る途中で道が分からなくなったらしい。体が冷えていたので病院へ運ばれたが、大きな怪我はなかった。
杉本はほっとした。女の人に知らせると、安心したように笑った。
「お茶、もう一杯」
杉本は断り、仕事へ戻った。
小田は帰り道で、あの家の奥さんに会ったか、と聞いた。
「会いましたよ」
「一人だった?」
「はい」
小田は何か考えていたが、やがて、まあ無事でよかったな、と言った。杉本も、そうですね、と答えた。
翌朝、また同じ集落へ入った。夜のあいだに雪が積もり、前日の轍が消えていた。例の家の前には雪がなかった。
小田は車を止め、昨日の男の人を見つけた消防団員に電話をかけた。杉本には待つよう言ったが、通話を終える前に、家の女の人が門まで出てきた。
「戻られましたか」
杉本が聞くと、女の人は首を振った。
「まだ。今日はお迎えに行けるかしら」
病院に一泊したのだろう。杉本は道路が通れば、と答えた。
女の人は杉本を手招きした。
「これだけ、運んでもらえない?」
玄関の中に、大きな鞄があった。入院用の着替えだという。杉本は車まで運ぶのかと思い、持ち上げた。鞄は空のように軽かった。
「勝手口へ」
女の人に言われ、台所を抜けた。
勝手口の外に、赤い塵取りがあった。昨日と同じ位置だったが、柄が妙に短く見えた。地面へ半分埋まっているようだった。
「雪、ここまで来たんですね」
杉本が言うと、女の人は、いえ、と答えた。
足元は土だった。塵取りだけが地面の下へ沈んでいた。
杉本は鞄を置き、柄を引いてみた。抜けなかった。強く引くと、土の表面が割れるのではなく、塵取りの周りだけ、柔らかく沈んだ。
雪だった。
土だと思った色の下から、白い粒が指についてきた。
後ろで女の人が戸を閉めた。杉本は顔を上げた。台所の床が、自分の膝より高いところにあった。さっきは同じ高さで、敷居を一つ跨いだだけだった。
女の人は台所に立ち、こちらを見下ろしていた。
「まだ、下があるから」
女の人が言った。
「足を置くとこ、気をつけて」
杉本は返事をせず、鞄を引き寄せた。自分の長靴が、膝まで雪に埋まっていた。横を見ると、家の裏の壁にも雪が張りついていた。昨日は通れた通路が、白い斜面になっていた。
小田が遠くで杉本を呼んだ。声は家の表から聞こえた。杉本は叫び返した。小田の声が近づき、そこで止まった。
「どこだ」
「裏です」
「裏、入れないぞ」
杉本は家の壁へ手をついた。指の先が軒の金具に触れた。壁ではなく、屋根の下の板だった。いつの間にか、自分は家の脇の雪の上に立っていた。足を抜こうとすると、腰まで沈んだ。
勝手口が見えた。雪の下、斜め前に明かりがあった。女の人が戸を開け、両手を差し出していた。
「入ったらいいのに」
温かい湯気の匂いがした。ストーブの上で煮えた湯の、湿った匂いだった。
杉本はそちらへ手を伸ばしかけた。脚が抜けない。中へ入れば足場がある。そう考えた。
小田がもう一度、名前を呼んだ。今度は怒鳴り声だった。
「動くな」
杉本は手を止めた。雪の上から、小田が棒を差し出していた。先へ縄が巻いてあった。杉本がつかむと、小田は自分の体へ引き寄せた。
女の人が下で何か言った。杉本は聞き取ろうとしたが、雪が耳へ入った。
引き上げられたとき、杉本は家の軒先にいた。屋根から落ちた雪が壁になり、その中へ脚を踏み抜いていた。小田と、近くの家の男の人が、杉本を道路まで運んだ。
女の人の家は、ほとんど雪に埋もれていた。
表札も、玄関も見えなかった。
杉本は震えが止まらず、除雪車の中で手を温めた。小田は何度も、何でそこへ入った、と聞いた。
「呼ばれて」
杉本が言うと、小田は唇を噛んだ。
「昨日の人の奥さん、いないぞ」
杉本は顔を上げた。
「死んだとかじゃない。今、入院してる。息子さんが、病院で二人とも見てる」
小田が朝の電話で確かめたのは、そのことだった。昨日見つかった男の人は、妻のいる病院へ行くつもりで家を出たという。道が分からなくなったあと、家へ戻れと言われたが、自分の家が見えなかった。
「あそこ、雪がなかったですよね」
杉本は聞いた。
小田は、俺にはあった、と答えた。
前日、小田が雪のない理由を地下水だろうと言ったのは、杉本がそう見えると言ったからだった。車からは、家の入口が道路の雪の壁に隠れていた。杉本が庭へ下りたときも、小田には、雪を踏み固めながら進んでいるように見えたという。
二人で裏へ行ったとき、杉本は女の人と話していた。小田にはその姿が見えず、家の中から声をかけられているのだろうと思った。杉本が台所へ入ったあとも、普通に会話する声がしたので、そこに人がいると疑わなかった。
「俺、昨日、お前を置いてったんだぞ」
小田が言った。自分を責めるような声だった。
家の息子が来た。両親が不在なので、戸締まりを確かめたかったらしい。杉本たちは一緒に玄関の雪を除けた。鍵はかかっていた。
中へ入ると、ストーブは冷えていた。台所の椅子は、二脚とも机へ入れてあった。
杉本は自分が座った椅子を見た。昨日、濡れた手袋を膝に置いた。茶碗を持ち、女の人と、夫の帰りを待った。
机の上には、伏せた茶碗が一つあった。杉本が見ていると、息子が持ち上げた。
内側に、薄い氷が張っていた。
勝手口は、雪の重さで開かなかった。ガラス越しに、赤い塵取りの柄が少し見えた。杉本は、鞄をあそこへ置いた、と話した。息子は鞄なら玄関にあると言った。
見に行くと、同じ茶色の鞄があった。中には父親の着替えが詰められ、持ち上げると、きちんと重かった。
何が起きたのか、結局、誰も説明できなかった。杉本が疲れていたこと、白い景色の中で距離を見誤ったこと、雪に埋まった家の構造を知らなかったこと。考えられることはいくつかあった。けれど、小田も、前日に家の中から女の声を聞いていた。
そのことだけは、後になっても変えなかった。
春、雪が消えてから、杉本はあの家へ行った。老夫婦は戻っていた。妻は小柄で、よく笑う人だった。割烹着も声も、杉本の会った女の人とは違った。
夫は、道で助けてもらったことを何度も礼を言った。杉本は自分ではありません、とそのたびに答えた。
帰り際、夫が庭を指した。
「ここ、玄関だったんだよ。昔は」
今の玄関より一段低いところに、平たい石が残っていた。家を直したとき、入口を移したという。
杉本が雪のない庭へ下りた場所だった。
その夜のことを、杉本は小田に話した。小田は、昔の家を見たのか、と言ったが、すぐに首を振った。
「でも、鞄は今のだろう」
二人とも黙った。昔の話にしてしまえば、何か分かった気になれるところだった。
杉本はそれからも除雪の仕事を続けた。人手が足りなかったし、ほかの仕事より給料もよかった。家の人に呼ばれれば手伝った。困っている人を全部疑うことはできない。
ただ、足跡だけは確かめるようになった。こちらへ来た跡があるか、戻っていった跡があるか。雪のないところでは、濡れた靴底の跡を見た。
小田はその癖をからかわなかった。
翌冬、同じ集落で休憩していると、車の窓を女の人が叩いた。弁当を食べていた杉本が顔を上げると、顔は逆光で見えなかった。
「お茶、入ったから」
小田が先に、結構です、と答えた。
女の人は少し待ち、歩いていった。
杉本は窓を開けなかった。小田も食べる手を止めていた。二人の車の周りには、朝から降ったばかりの雪が薄く積もっていた。
ドアのすぐ下まで、誰の足跡もなかった。


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