城巡りが趣味の友人Sから、また連絡が来た。
以前、茨城の別の城跡で妙な目に遭って以来、堀底を歩く城には一人で入らないと決めている男だ。
「多良崎城、行ってるよな」
電話の第一声がそれだった。
行っている。ひたちなか市の多良崎城跡。深夜に一人で三度入り、動画も三本公開している。
三度とも、何も起きなかった。噂の多さで知られた場所が、私の中では空振りの箱に入っている。
「先月、一人で行きかけた。入れなかった。四度目、頼めるか。入口までは付き合う」
Sがそこまで言うのは珍しい。Sの話に入る前に、調べ直したことを並べておく。
多良崎城跡は茨城県ひたちなか市の足崎にある。地名は足崎と書き、城の名はたらざきと読む。市の史跡で、指定は昭和五十年。
築いたのは鎌倉の末、常陸大掾氏の一族の吉田里幹とされる。多良崎三郎を名乗ったと伝わる人物だ。
南北朝の争乱で南朝方につき、多良崎氏は没落した。城主は入れ替わり、最後は一五九〇年、佐竹氏の侵攻で落ちて廃城になった。

一日で落ちたと伝わっている。
城は旧真崎浦という沼に三方を囲まれた半島状の台地の上に築かれていた。天然の要害だったわけだ。沼はいまは水田に変わり、名残の貯水池が近くに残る。
遺構の残りは良い。本郭・二の郭・三の郭・虎口・隅櫓跡・土塁・空堀・堀底道・烽火台・水の手・木戸跡。ほぼ完全な形で残っていて、現地では赤い看板が場所を示している。
噂の方も書いておく。
白い装束の若い女を見たという話。どこからともなく女の声が聞こえるという話。霧の中を女が走ってくるという話。昔テレビの心霊特集で取り上げられ、茨城で一番と数える者もいる。どれも裏の取れる話ではない。
もう一つ、噂ではない事実がある。
城へ上る道は、二輪車が通行禁止になっている。
かつてこの連続カーブでバイクの死亡事故があり、その後も二輪の事故が続き、規制がかかったという経緯だ。夜は首なしのライダーを見るという噂まで付いている。噂は噂として、規制は現実の標識として立っている。
カブの私は毎回、規制の手前に停めて歩いて上がる。三度ともそうした。
Sの体験は先月の平日、昼のことだ。
車で急カーブの道を上り、城跡の石碑の前に停めた。駐車場はない。木が両側から被さる道で、昼だというのに薄暗かったそうだ。

石碑の脇の説明板を読んでいたとき、声がした。
女の声。話し声だった。
内容は聞き取れない。抑揚だけが届く距離で、誰かに向かって話している調子だったという。
周りに人はいない。城跡の隣にはゴルフ場と霊園があるが、声の届く距離ではないとSは言う。
二分ほど置いて、もう一度聞こえたという。
二度目は、聞き取れてしまった。
「読んでる文と、同じだった」
Sは説明板の一文を目で追っていた。その一文と同じ文言が半行遅れて、女の節回しでなぞられたそうだ。
Sは車に戻り、そのまま帰った。
「中まで行けば何か分かるのかもしれん。俺はもう、ああいうのと二人きりになりたくない」
四度目は六月の頭。夜にカブで出た。

千葉からひたちなかまで下道で三時間半。利根川を渡り、国道を北へ。三度走って覚えた道のはずが、その夜はいやに長かった。
二輪規制の手前の広い路肩にカブを停めた。三度目までと同じ場所に、同じ標識が立っている。
ここからは徒歩だ。決めごとはいつもの二つに、今回ひとつ足した。
順路と看板のある道しか歩かない。原っぱの穴は前の三回で覚えたから、足元は常に光で確かめる。そこまでは毎回のことだ。
足した一つはこうだ。声が私の言葉をなぞったら、その場で引く。
上りの道は木のトンネルになっていた。ヘッドライトの丸だけが先へ延び、カーブのたびに闇が付け替わる。
入口の石碑の前に、Sの車が停まっていた。
「中には入らん。ここで待つ」
Sは窓を少しだけ下ろして言った。エンジンは切らないらしい。
説明板をライトで読んだ。南北朝。佐竹の侵攻。一日での落城。Sが目で追っていたのはこのあたりの一文だろう。
読み上げはしなかった。まだ、しない。

登城道に入る。
赤い看板が最初に現れた。一の木戸。
数えることにした。行きに見た看板の数を、帰りに照らし合わせるためだ。
一枚目。
杉と雑木の林で、下草は刈られている。史跡として手が入っているのが分かる道だ。夜気は湿って土の匂いが濃い。
二の木戸。二枚目。
虫の声が右にも左にもある。この時期の林はうるさいくらいでいい。うるさいままでいてくれと思いながら歩いた。
声は、道の半ばで来た。
前の三回で、一度もなかったものだ。
女の声。話し声。
立ち止まる。光を消さずに耳だけ澄ませた。

内容は取れない。高さと抑揚だけが届く。誰かに向けて話す調子で、独り言の平らさではない。
方角を探った。霊園の側ではない。ゴルフ場の側とも違う。夜のゴルフ場に人はいないし、霊園はなおさらだ。
風が止んだ。
声の距離は変わらなかった。風で運ばれる音なら風と一緒に揺れる。揺れない声が林の同じ深さから続いている。
聞くうちに、輪郭がひとつ増えた。
間がある。
一人分の声しか聞こえないのに、会話の間の取り方をしている。
ひとしきり話しては、相槌の長さだけ空いてまた続く。
電話口の話し方だ。相手の声だけが、こちらに届いていない。
大手門。三枚目。
赤い看板の文字を、小声で読み上げてみた。

半行遅れて、同じ文言が女の節回しでなぞられた。
Sの言ったとおりのことが、Sの言ったとおりの遅れ方で起きている。
読み上げをやめた。足した決めごとに、半分かかっている。なぞられたのは看板の文字で、私の言葉ではない。そう整理して、先へ進んだ。
整理した自分の甘さは、後で思い知ることになる。
本郭に出た。
土塁にぐるりと囲まれた広場だった。空が急に開けて月がある。虎口の切れ目から入った瞬間、林の虫の声が背中側に遠のいた。
広場の中は静かだ。静かすぎる。
声は、いた。
土塁の内側のどこか。距離にして十数メートル。ひと節話しては、間を置いてまた話す。
内容は最後まで取れない。取れないのに、調子だけは近い。世間話の調子だ。天気の話とおぼしき、なだらかな抑揚が続く。
その声が、ふいに問いの形で止まった。

語尾が上がって、切れた。
間が空く。
相槌の長さではない。もっと長い。答えを待つ長さの沈黙が広場に置かれた。
こちらの番だと、体の方が先に分かった。
黙っている。
光を足元に落とし口を結んで、ただ立っていた。
沈黙が続く。虫の声も戻らない。月だけがある。
「はい」
若い声が受けた。
すぐ後ろ。振り返れば触れる距離から。
会話は続いていたのだ。足りていなかったのは、返事だけだ。

誰の返事かは、考えなかった。考える前に足が出ていた。
虎口を抜ける。来た道を戻る。走らない。走ると足元の光が跳ねて、穴を見落とす。足元の決めごとだけを頭に残して、看板を数えながら下った。
大手門。二の木戸。
その間に一枚あった。
赤い看板。文字のない赤だけの板が道の脇に立っていた。
行きに数えた覚えのない一枚だった。前の三回の記憶にもない。名前の書かれていない場所を示すように、矢印だけが林の奥を向いている。
立ち止まらなかった。読むものがないのだから、読まずに済む。
一の木戸。石碑。Sの車のライト。
助手席の窓が下りて、Sの顔が見えた。血の気のない顔だった。
「お前、誰と話してた」
入ってから出るまで、私はひと言も発していない。看板を一度だけ小声で読んだきりだ。

Sは首を振った。
「三十分ずっと聞こえてた。お前の声で、誰かと話してるのが。相槌まで打ってたぞ」
私の声は私の知らないところで返事をしていたらしい。
あの『はい』が誰の声だったのか、Sの話を聞いてから考えるのをやめている。
カブまでの下り道は、Sが車で後ろをついてきてくれた。
規制の手前でカブに跨り、エンジンをかけたとき、上のカーブで単気筒の排気音が一度だけ鳴った。
二輪の入れない道だ。首なしのライダーの噂が頭をかすめた。音は音だ。確かめに戻らなかった。
Sとは国道の分かれで別れている。別れ際の一言だけ書いておく。
「あの城、四百年ぶん話し相手を探してるのかもな」
Sの当て推量だ。私の推量ではない。ここに書くのは、Sがそう言ったという事実だけにしておく。
帰ってから、回していた動画を確かめた。

映像は撮れている。看板も、本郭の月も。
音声にはあの声が入っていない。看板を読んだ私の小声も入っていない。
入っていたのは自分の足音と呼吸だけだ。
その呼吸がところどころで浅く乱れている。
乱れの位置を波形で見ると、等間隔ではなかった。話の切れ目のような、相槌のような間隔で、私の息だけが揺れていた。
公開済みの三本に、四本目を並べる気はまだない。編集するとしても、音は消して使うと思う。
あれから、独り言を言わなくなった。
誰もいない部屋で口を開くと、間を差し出すことになる気がしている。
差し出した間に何が入るのかは、あの広場で聞いた。
二度は聞かないと決めている。



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