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向かいの双眼鏡

向かいの二階から見られていると気づいたとき、真帆は洗濯物を干していた。白いカーテンの隙間に、双眼鏡の丸いレンズが二つあった。手を止めて見返すと、レンズは少し上を向いた。隣の庭の木へ向けたのだろう。真帆は濡れたシャツを振り、何も気づかなかったように竿へ掛けた。

向かいに住む倉田さんは、七十代の女性だった。引っ越したときに挨拶へ行き、鳥を見るのが好きだと聞いていた。夫婦で湿地へ通っていたが、ご主人が死んでからは、自宅で見える鳥を探しているという。真帆は鳥に興味がなく、へえ、としか答えられなかった。

真帆の家は、姉から借りた小さな戸建てだった。姉の家族が海外へ住むあいだ、風を通してくれるだけでいいからと言われた。家賃を安くしてもらったぶん、庭の落ち葉や雨戸の手入れは真帆がした。昼は家で翻訳の仕事をしている。二階の窓から向かいの家が見えるので、仕事中に双眼鏡が目へ入ることが増えた。

見ないでほしいと伝えるのは、気が重かった。野鳥を見ているだけの人を疑ったと言われそうだった。真帆は窓の内側へ薄い布を掛けた。ところが、翌朝には布が窓枠へぴったり貼りついていた。結露したような湿り気はなく、引いてもなかなか剥がれない。端を持ち上げると、窓の外で倉田さんが双眼鏡を下ろした。

布は普通に落ちた。真帆はその場で倉田さんを見た。老婦人は眼鏡をかけ直し、窓越しに小さく頭を下げた。真帆も会釈を返した。これで気づいてもらえたと思った。だがその午後、仕事机の引出しが勝手に閉まった。開けたままにしていた一番下の引出しだった。中には印刷した資料しか入っていなかった。

次は部屋の戸だった。廊下へ出ようとして、幅が狭いと感じた。戸は壁まで引ききってある。肩を横へ向けなければ通れなかった。真帆が柱を撫でると、木が小さく震えた。向かいの窓では双眼鏡がこちらを向いていた。真帆が身を隠すと戸口が広がり、廊下の掃除機が倒れた。

彼女は一階へ下りて、倉田さんの家へ行った。鳥を見る場所を少し変えてもらえないか。考えていた言い方より、きつい声になった。倉田さんはすぐに謝った。
「お宅の窓に止まるのよ。あの鳥が」
どんな鳥か聞くと、名前が分からないと言った。見つけてから三週間もたつのに、図鑑のどれとも合わないのだという。

真帆が住み始めたのもちょうど三週間前だった。倉田さんは二階へ招いた。断りに来た家へ上がるのは変な気がしたが、何を見ているのか確かめたかった。部屋の窓辺には低い椅子があり、湯呑みと図鑑が床に置かれていた。双眼鏡は古く、片方の接眼部だけ黒いテープで補修してあった。

窓から見えるのは、真帆の家だった。二階の仕事部屋、その隣の物置、下の台所の窓。どこにも鳥はいなかった。倉田さんが双眼鏡を渡し、上の細い窓を指した。真帆が覗くと、軒下に茶色い鳥がいた。雀より大きく、首がほとんどなかった。顔の前に平たい嘴がついていた。

鳥は窓ガラスへ、額のような部分を当てていた。片目だけを室内へ向け、じっとしていた。真帆が双眼鏡を下ろすと、鳥は見えなくなった。もう一度覗けば、同じ位置にいる。嘴の先がガラスを通り、部屋の内側へ入っていた。真帆は思わず声を出した。

鳥がこちらを向いた。双眼鏡の中いっぱいに、丸い目が広がった。距離は十五メートルほどある。飛んできたはずはなかった。真帆は双眼鏡を落としかけ、紐をつかんだ。倉田さんは、こっちを向くでしょう、と言った。嬉しそうだった。初めて誰かに見てもらえた人の顔だった。

「窓の中、見た?」
倉田さんに聞かれ、真帆は首を振った。自分の家なのに、なぜそんなことを聞くのか分からなかった。倉田さんは、お客さんがいるときも来るのね、と続けた。真帆は誰も呼んでいない。姉の荷物を置いた物置も、普段は鍵をかけていた。
「奥に女の人が座ってた。いつも、背中だけ」

真帆は双眼鏡を返し、もうこちらへ向けないでほしいと頼んだ。倉田さんは頷いた。真帆が階段を下りるあいだ、カーテンを閉める音がした。家へ戻ると、引き戸は元の幅だった。窓に貼りついた布も床へ落ちていた。彼女は物置の鍵を開けた。誰もいなかったが、部屋の隅の段ボールが全部、壁に向けて伏せられていた。

箱を起こすと、姉の家族の写真が出てきた。引っ越しのときに外した額だった。真帆は中身を触ったことがない。写真の人は皆、紙の端へ顔を向けていた。顔そのものが変わったのか、そういう写真だったのか確かめられない。真帆は一枚だけ携帯で撮り、姉へ送るのをためらった。

画面には、元の写真が写っていた。姉夫婦と子供たちが正面を向き、カメラへ笑っている。手元の額の中では、全員が横を向いていた。真帆は額を伏せた。廊下で床が鳴った。窓のある側から、こちらへ順に、誰かが足を置くような音だった。

倉田さんへ電話した。番号は引っ越しの挨拶のときにもらっていた。向こうはすぐに出た。見ていませんよ、と先に言った。真帆は、疑っているんじゃありません、と答えた。自宅の窓の前に鳥がいるか、肉眼で見てもらえないかと頼んだ。倉田さんは少し間を置き、見えない、と言った。

「双眼鏡なら」
「使わないで」
真帆は強く止めた。電話の向こうで紐の擦れる音がした。次の瞬間、真帆の目の前で廊下の壁が動いた。両側から少しずつ近づいてきた。肩が壁紙に当たり、服の繊維がこすれた。彼女はしゃがんだ。上半分が狭くなっているようだった。床にはまだ膝を動かす余地があった。

倉田さんが、あら、と言った。
「見えない。お宅、窓を閉めた?」
真帆の前で二階の窓が細くなった。サッシが歪むのではなく、その両側の壁が、何事もないように内側へ寄った。鳥の嘴が、細い隙間に挟まっていた。黄土色の硬いものが割れ、間から人の歯に似た白い並びが見えた。

真帆は双眼鏡を下ろしてと叫んだ。肩の圧迫が止まった。電話を持つ右手は、肘から先しか動かせない。彼女は自分の位置を説明し、助けを呼んでほしいと頼んだ。倉田さんは電話を切った。真帆は廊下を膝で進み、階段へ向かった。下へ降りる穴も狭くなっていた。

どこかで鳥が鳴いた。聞いたことのない声だった。短い人の笑い声を、喉の奥で何度も繰り返していた。真帆が耳を塞ぐと、窓の隙間へ顔が来た。鳥の顔ではなかった。家の中の誰かが、外を見ていた。真帆と同じ髪の長さで、両手を頬の横へ当てていた。

家が自分を閉じ込めるのではなく、何かから隠れようとしているのかもしれない。真帆はそのとき初めて思った。だとしても、中にいる自分が潰れていいわけではない。彼女は廊下へ腹をつけ、階段の穴へ脚を入れた。踵が二段目に届いた。腰が抜けず、胸が床へ押された。

玄関のチャイムが鳴った。倉田さんの声がした。真帆が鍵の場所を叫ぶと、勝手口の鍵が開いた。二人の家の間を、人が通って来る足音がした。倉田さんは近所の男性を呼んできていた。二人が階段の下から見上げ、上がれない、と言った。真帆には二人の額と、上げた両手だけが見えた。

「こっちを見ないでください」
真帆は思わず言った。二人の視線が外れると、胸の圧迫が少し弱くなった。真帆は同じ言葉を繰り返し、目を閉じて自分の踵へ手を伸ばしてもらった。男性が片足、倉田さんがもう片足をつかんだ。どちらも手の位置を確かめる声だけ出していた。

三人で声を合わせた。真帆が息を吐いて身体を横へ向け、下の二人が引いた。腰が抜けた。腕を上に残さないよう胸へ寄せると、階段へ滑り落ちた。男性が腰を受け、倉田さんが頭を支えた。三人とも壁へぶつかり、しばらく動けなかった。上の穴はまた小さくなった。

真帆が立てるようになると、二人は彼女を勝手口から外へ連れ出した。男性は途中で振り返りかけたが、倉田さんが袖を引いた。家の窓という窓が閉まっていた。カーテンが閉じているのではない。サッシの枠の中が、薄い壁で埋まっていた。男は正面を向き直し、口を結んだ。

救急車が来て、真帆は肩と肋骨を診てもらった。大きな怪我はなく、その日のうちに帰れた。家の階段が狭くなったと説明しても、古い建物の変形について詳しく分かる人はその場にいない。姉へ連絡し、しばらく友人の家へ泊まることにした。姉はまず、無事でよかったと言ってくれた。

数日後、建物を見てもらった。窓も階段も普通にある。家の中を撮って姉に送った写真にも、異常は写っていなかった。真帆は大工と一緒に中へ入り、仕事のパソコンと着替えを持ち出した。物置の額は伏せたままにした。大工が手を伸ばしたので、姉の物だから触らないで、と頼んだ。

倉田さんは、双眼鏡を箱へしまっていた。自分のせいだったのかと聞かれて、真帆は分からないと答えた。それは本当だった。見なければ平気なのか、鳥が来なければ平気なのか、確かめたくなかった。倉田さんは紐を丁寧に巻き、箱の蓋に重い図鑑を載せた。

真帆は引っ越す前に、一度だけ倉田さんを訪ねた。二人で一階の窓辺に座り、お茶を飲んだ。庭の椿へ小さな鳥が来た。今度は裸眼で見えた。倉田さんは鳥の名を言いかけ、やめた。鳥は枝につかまったまま、こちらへ胸を向けていた。片方ずつ瞬きをした。閉じる瞼が横から動いた。

目を逸らすと、湯呑みが指の中で軋んだ。真帆は鳥を見た。椿の枝は揺れず、鳥の目の中だけで、二人が座る部屋の窓が小さくなっていた。倉田さんが、もう帰りなさい、と言った。顔を見ずにそう言った。真帆は湯呑みを置けなかった。親指の腹の形に、陶器がゆっくりへこんでいた。

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