「実際に出るところを見てから、ということでいいですよね」
今川さんは、電話でも当日の玄関でも同じことを確かめた。出ると答えた覚えはない。商品説明には、店を閉めたあと、客席で人を見たことがある、と書いた。その人が灰皿と関係するかどうかは分からない、とも添えておいた。
けれど、八万円という値段は、灰皿だけにつけたものではなかった。
私の店は、前の年の十一月に閉めた。
飲食店の居抜きで借りた細長い店で、カウンターに八席、奥に四人掛けの席が一つあった。閉めたあとは借り手がつかず、大家と相談して、残った備品を売りながら中を空にしていた。製氷機も冷蔵庫も先に売れた。高そうに見える照明や椅子ほど売れず、見積もりに来た人から、処分代を貰う品だと言われた。
灰皿は、そういう残り物の一つだった。
黒い陶器で、底が厚く、洗うときには両手で持った。縁の一か所が欠けて白くなっている。千円でも引き取り手はないだろうと、初めはほかの食器とまとめて出していた。
その写真を見た知り合いから、あの話も付ければ、と連絡が来た。まだ店をやっていた頃、閉店後に変なものを見たと酔った客へ話していた。客が怖がると気分がよく、話すたびに少しずつ細かくした。知り合いには、それを本当のことだと思われていた。
元の話は、店員だった松浦の怪我から作った。
その晩のレジが足りなかった。松浦は知らないと言い、確かめもしないで決めつけないでくれと言った。客が帰ってからも口論を続け、私はカウンターの灰皿を取った。松浦の顔に当たったとき、手に思ったほどの衝撃がなかったので、次の一言をまだ言いかけていた。彼が口を押さえ、指の間から歯が落ちたところで黙った。
割れた歯は、彼が自分で拾った。金は翌日、私が予備の釣り銭を入れる引き出しから見つけた。
松浦は生きている。治療費は払ったが、店には戻らなかった。辞めてしばらくして、共通の知人の結婚式の写真で彼を見た。口を閉じて写っていた。灰皿の欠けは、あのときできた。
客にその話をするわけにはいかなかった。欠けたところを指でなぞって、昔この辺りで殴られた男が、酒を飲む場所を探しているらしい、と言った。名前も年も知らない男だった。右にずれた顎が戻らず、両手を顔に添えている。服は白い。口を開いても声は出ない。
松浦は作業用の黒いシャツを着ていた。白い服にしたのは、店の暗がりで見つけたという話をしやすかったからだ。
今川さんは、そういう物を個人で集めている人だった。
動画を撮るのかと尋ねると、撮らない、と答えた。人に見せるつもりもないという。電話の声は穏やかで、車をどこへ置けばよいか、店の前で荷物を積めるかと、普通の引き取り客と同じ質問をした。
私が、何も出ないかもしれませんよ、と断ると、今川さんは少し笑った。
「そのときは灰皿の値段を相談しましょう。捨てるよりはいいでしょう」
私は住所を送った。八万円が入れば、まだ払えていない撤去費用に回せた。
約束は夜の八時だった。白髪交じりで、革の柔らかそうな鞄を持つ人が来た。私より年上だったが、足取りは軽かった。車は近くの駐車場へ置いたという。
店の照明は、カウンターの上の二つしか残っていなかった。奥には売れ残りの長椅子があり、その前の机に、私が今川さんのために買った缶のお茶を二本並べていた。灰皿はカウンターの端へ出しておいた。
今川さんは欠けを見た。
「ここですね」
「ええ。写真より大きいでしょう」
「触っても?」
私はどうぞと言った。指の腹で白い断面を撫でると、今川さんは口元を緩めた。
その顔を見て、私は売り文句を一つ間違えたと思った。
客が話を聞いて怯え、帰りに灰皿をもう一度見ていくことがあった。今川さんにも、その程度の楽しみを買ってもらうつもりだった。今川さんは、欠けの先に出るものを楽しみにしているようだった。
「長くいるんですか」
「何がです」
「その人」
「そこまでは。見間違いだったかもしれませんし」
「手を顔に当てているそうですね」
説明に書いた通りだった。
「何か欲しがるんですか。お酒とか」
知らない、と答えた。ここで続きを作ると、確かめると言われる。今川さんは頷き、私が勧めた奥の席へ行った。
缶のお茶を開け、前に買ったという箪笥の話をした。売り手は、中から爪で掻く音がすると言っていたらしい。
「結局、何にも。引き出しは全部外しましたよ」
「そういうのは、難しいでしょう」
「でも買ったからには、見たいじゃないですか」
私は自分のお茶を開けなかった。帰ってもらう時間を、先に決めておけばよかったと思っていた。壁の時計も外して売ってしまい、店では時刻を見るたびに携帯を出さなければならなかった。
奥の席からは、カウンターの内側が見える。
今川さんがお茶を飲んだまま、目を上げた。私もそちらを見た。白い男が立っていた。調理台を外したあとの、四角く壁の色が違う場所だった。
誰かが入ってきたのだと思った。入口は私たちから見え、戸のベルも残っている。鳴らなかったことに気づいたとき、男が顔から両手を離した。
顎が、片側へ外れていた。左の口の端に下の歯が見え、右の頬は首の近くまで垂れていた。肩を動かして向きを変えているのに、下顎だけは置いてこられたように揺れない。顔が先にこちらを向き、遅れて首の皮が張った。
私は長椅子から立ち上がり、膝を机の縁へぶつけた。
今川さんは、開けた缶を机の隅へ寄せた。
男の顔は松浦ではなかった。もっと年上で、髪が薄く、白い袖から出た手首が細かった。松浦のことを知らない客から、何歳くらいの人なのかと訊かれた晩、私は五十か六十と言っていた。
襟の下に、細い青い縞が見えた。あれも私が言ったことだった。白い服だけでは寝間着に聞こえると言われ、襟元から青い縞のシャツが出ていると、あとから付け足した。
さっきまで、私はこの男を本当には一度も見ていなかった。
「立っているだけですね」
今川さんが言った。
私は今川さんを見た。彼も男を見ている。自分の目だけを疑うことができなくなった。携帯を握っていたが、連絡先を開いても、誰に来てくれと言えばいいのか分からなかった。
今川さんは席を立ち、カウンターへ歩いた。男は両手をまた顔に添えた。自分では閉じられない口を、手で戻そうとしているようだった。
「これを持つと、こっちへ来ますか」
今川さんは灰皿を示した。
「やめてください。分かりません」
灰皿に手を伸ばしかけた今川さんは、素直に引っ込めた。その代わり、カウンターの横に残る通路へ入った。
私は立ったまま、今川さんの鞄を見ていた。机の下に置き、口をきちんと閉じている。着替えが入る大きさには見えなかった。誰かを先に店へ入れておくなら、鍵が必要だった。大家に合鍵を借りたのかもしれない。
そんなことばかり考えた。二人が同じ側へ並ぶまで、まだ人間のいたずらだとする方法を探していた。
今川さんは男の肩へ触れた。
男は顔を伏せた。逃げようとするほどには身体を動かさず、膝を少し曲げて身を縮めた。今川さんが肩を持つ指に力を入れると、白い上着の布が、指の間へ深く寄った。
「触れますね」
こちらへ顔を向け、嬉しそうに言った。
その手首が、男の肩へ沈んでいた。服の中へ手を差し入れたのではない。袖口までが白い布に包まれ、男の脇の下からは、丸く曲がった指先だけが出ていた。
男は声を出さなかった。首の皮が張り、口の左端にあった歯が全部見えた。足がカウンターの下で擦れた。裸足だった。膝を落として下がろうとし、今川さんの手に肩を引き上げられる。
「痛いのは分かるんですね」
今川さんは、私の返事を待たずにもう一方の手を伸ばした。
私はカウンターの横へ駆け寄り、伸ばされた腕を掴んだ。
「やめてください」
今川さんは驚いた顔をした。叱られたと思ったらしかった。男の肩から手を抜くと、五本の指が揃って戻った。服には穴がなかった。男は壁に背を当て、片方の肩を自分で押さえた。
「壊すつもりはないですよ」
「そうじゃなくて」
「八万、払います。出ましたから」
今川さんは私の手を腕から外し、奥の席へ戻った。鞄から財布を取り、机で札を数え始めた。
男はその間にカウンターの端へ移っていた。細い通路を通り抜け、今川さんから遠いほうへ、私のところへ来た。顎へ添えていた手を一本下ろし、私の上着の後ろを掴んだ。
私は跳び退こうとした。手がついてきた。布越しにも冷たく、指が長かった。私が机のほうへ回ると、男は身体の向きを変え、ずっと私の背中に隠れた。
松浦に殴り返されることは、長いこと考えていた。
外で酒を飲んでも、店の入口を見る癖があった。今ここへ来たのが彼なら、私を掴む理由は分かった。
だが、この男は私のほうへ顔を向けようとしなかった。今川さんが椅子を引く音に、上着を持つ指が固くなる。私は背中を引かれるまま、一歩下がった。
「八枚あります。数えてください」
今川さんが札を揃え、私を見た。
「手、肩を抜けましたよね」
私が訊くと、今川さんは手の甲を見た。自分でも驚いたのだという。
「初めてですよ。ほかのは何も出なかったんですから」
彼は自分の手を開いていた。親指の腹が少し濡れていた。ズボンへ拭き、私の背後を覗こうとした。
「話は、私が作ったんです」
今川さんは目を上げた。
「ここで死んだ人はいません。顔も服も、私が適当に。値段を上げたかったんです」
「そうなんですか」
「だから、これが何なのかは」
今川さんは私の言葉を待った。口で言い直せば、男がいなくなるように思っていた。私は、何も分からないんです、と繰り返した。背中の手は離れなかった。
今川さんは、灰皿だけの値段を訊かなかった。
「でも、その話通りの人がいるんでしょう」
カウンターの端へ戻り、灰皿を両手で持った。男が来るかと身構えたが、上着を掴む力は変わらなかった。今川さんは灰皿を机へ運び、並べた札をその下へ差し込んだ。
「持って帰ってからも、出るんですかね」
私は分からないと答えた。今川さんも、それは困りますね、と言った。
帰ってほしかった。灰皿でも何でも渡して、店から出ていってもらいたかった。そのあと私の背中に残る男を、どうすればいいかは考えられなかった。
今川さんは缶のお茶を飲み切り、机へ置いた。
「今日、ここで見せてもらってもいいですか。物はあとでいいんで」
何を、と訊けなかった。男の指が、私の上着を強く引いた。背中を自分の胸へ寄せようとしている。そんなに引けば、こちらも怖くなって振り払うのだと、思わず言いたくなった。
今川さんは回り込もうとした。私は一緒に向きを変えた。男も背中を離れない。狭い店で、三人が机を半周した。
「そのままでいいですよ」
今川さんは私の顔を見て言った。
「押さえていてもらえれば」
私は上着を脱ぎかけた。片腕を袖から抜けば、自分だけ離れられると思った。男が掴んでいるのは布だった。人の指が怖かったので、今川さんのほうへ一歩出た。
背中から、小さな息が漏れた。振り向くと、男は頭を深く下げていた。顎を支えていないほうの手で、上着を握っていた。私が抜きかけた袖を戻すと、その指がほんの少し緩んだ。
「こっちへ引いてください」
今川さんが言った。男の片腕が、私の脇から見えていた。
私は、その手首を掴んだ。細く、触れると皮膚の下がゆっくり逃げた。腕を引くと、男は半歩出た。
今川さんが身を寄せた。男は今川さんの手を見て、顎を支えていた手を離した。その手で私の腕を握り、自分の手首を掴んでいる私の手ごと、背中のほうへ引き戻そうとした。支えの外れた顎が胸元へ下がった。
私は途中で腕を止めた。
私の肘が机の端の缶に当たり、床へ落ちた。誰も拾わなかった。
私は今川さんの顔を見るのが嫌で、男の手を見た。私の指を外そうとはしていなかった。今川さんが近づくたび、私の手を持ったまま、背中のほうへ引いた。
机の上には八万円があり、灰皿の欠けた白いところが照明の下へ出ていた。
「ほら、そっちへ隠しちゃうから」
今川さんは、少し困ったように笑った。
私は掴んだ手首を離した。男は私の手を離さず、掌をずれた顎の下へ押し当てた。下の歯が、親指の付け根に当たった。
今川さんの手が横から伸びてきた。私は男へ向き直り、顔を抱えて今川さんへ背を向けた。背中へ今川さんの指が触れ、どいてくださいよ、と言われた。男の歯は私の手に当たったままで、閉じようとするたび、支えている顎が掌の中を滑った。


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