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待合室の居眠り

歯が痛くて眠れなかった翌朝、私は予約を取っていない歯科へ行った。
昼前なら少し待てば診られると電話で言われていた。待つことは構わなかった。椅子へ座り、名前を呼ばれるまで何も考えずに済むのがありがたかった。

待合室は小さく、長椅子が壁に沿って二つあった。向かいには若い男が座っていた。薄い灰色のパーカの帽子を背中へ落とし、胸の前で腕を組んで眠っていた。
ほかには年配の女の人が一人。受付の窓口では、診察を終えた人が会計をしていた。
私は一番端へ座り、左の頬を指で押さえた。痛いところへ舌を当てずにいるのが難しかった。

眠っている男は、口を開けていなかった。
唇を結んだまま、鼻から静かに息をしていた。目の下に薄い隈があった。私と同じように眠れなかったのかもしれない。
見ていると眠気が移り、私は一度あくびをした。
口を開けた瞬間、目の前が暗くなった。

停電だと思った。
だが口を閉じると、待合室は明るかった。受付の女の人も普通に仕事をしていた。
私は顔を上げた。向かいの男が、少し顎を下げた。寝息が長くなった。
左の歯が脈を打った。私は寝不足のせいにして、鞄から本を出した。

年配の女の人が呼ばれた。
「はい」
彼女が返事をしたとき、口の中に目が見えた。
歯の奥だった。舌より上の暗いところに、閉じたまぶたが二つ並んでいた。私は思わず顔を近づけた。そんなものを確かめる必要などなかったのに。
女の人は立ち上がり、診察室へ入った。戸が閉まる直前に、眠る男のまぶたが動いた。

私は本を閉じた。
受付の人へ呼び掛けようとして口を開くと、また暗くなった。
完全な闇ではなかった。薄い横長の線から光が入っていた。左右へ広がる肌の色が見えた。自分がどこか狭いものの奥へ入ってしまったようだった。
息を吸うと、向かいの男の胸が持ち上がった。
私は口を閉じた。

何度も試すのは怖かった。
一度目は眠気、二度目は痛みのせいだと思えたかもしれない。だが私はその暗さの奥で、誰かが瞬きをする手触りのようなものを感じていた。目の表面が、こちらの頬の内側へ触れた。
舌を動かすと、左の目尻がくすぐったかった。
私は両手を膝へ置いた。口に指を入れたくなかった。

受付の人がこちらへ来た。
「もう少しお待ちくださいね」
彼女の口の中にも目があった。
今度は開いていた。眠る男と同じ、目の下に隈のある目だった。こちらを見ていた。受付の人の顔についている目は、私の手元の本を見ていた。
私はうなずいた。声を出さなかった。

彼女は私の顔を覗いた。
「痛み、強くなりました?」
私はまたうなずいた。痛いのは確かだった。言葉にしなければ、別の具合の悪さだと思われる。分かっていても、口を開けたくなかった。
受付の人は診察室へ戻った。
彼女の後ろで、男が寝返りを打つように肩をずらした。待合室の長椅子が一つ、ぎしりと鳴った。

男を起こせばいいのかと思った。
そうしてくれれば、普通に名前を呼ばれて診てもらえる。
椅子を立ち、向かいへ行った。
男の靴の先に、私の靴が来た。近くでは、彼の息の匂いもしなかった。眠る人の温かさがあるはずのところに、涼しい空気があった。

「すみません」
小さく言った。
暗くなった。すぐ口を閉じた。
男は目を開けなかった。胸の前の腕も動かなかった。私は肩へ手を伸ばした。
指が触れる前に、診察室から声がした。
「触らないで」
女の人の声だった。

私は手を引いた。
受付の人ではなかった。さっき入っていった年配の女の人の声に聞こえた。
彼女が誰に言ったのか、私には見えなかった。医師に言ったのかもしれない。なのに眠る男の肩が、その声で少し下がった。
私は自分の席へ戻った。動悸が強くなり、歯の痛みもそれに合わせて打った。

診察室の戸が開いた。
白い服の医師が顔を出し、私の名前を呼んだ。受付の人から何か聞いたらしく、少し急いだ様子だった。
私は立てなかった。
口を開けてくださいと言われる場所へ、これから入らなければならなかった。そのことを考えた途端、腿に力が入らなくなった。

医師が近づいた。マスクをしていたので、口は見えなかった。
「歩けますか」
私はうなずいた。
彼は椅子の前へ屈んだ。目の高さが同じになった。私はマスクの上の目を見た。普通の、心配している人の目だった。
私は鞄から携帯を出し、文字を打った。口を開けると暗くなる、と書いた。
見せる手が震えた。

医師は最後まで読んだ。
それから、今は立たずに待っていて、と言った。口を見せてとは言わなかった。私はそれだけで涙が出た。
受付の人が水を持ってきた。私は飲めなかった。断るため首を振ると、医師はコップをそばの台へ置かせた。
眠る男が、初めて口を開いた。

待合室の奥が見えた。
男の口の中に、私たちのいる部屋があった。小さな椅子が二つ、受付の窓、壁の時計。その中で、誰かが屈んでいた。
医師だった。
本物の医師は私の前にいた。男の口の中でも、同じ白い背中が私へ向いていた。

私は椅子から立った。
医師が腕を支えてくれた。その手は普通に温かかった。
男の口の中で、私も立った。小さな私の顔には目がなかった。口が大きく開き、その奥でさらに小さい待合室が明るくなった。
私は声を出した。
自分の声は聞こえなかった。男の口の中から、誰かが私の名前を呼んだ。

医師が私を入口へ連れていった。
受付の人が戸を開けた。外気が頬へ触れた。私はそこで口を閉じられた。
商店街だった。自転車が通り、向かいの店の人が鉢植えに水をやっていた。医師は私を入口の椅子へ座らせ、受付の人へ連絡を頼んだ。
私は、あの人、と言った。
今度は自分の声がした。

医師が待合室を見た。
男は眠っていた。口も閉じていた。
「あの人、起こして」
私は頼んだ。
医師はすぐには動かなかった。私の手首を支えたまま、男を見ていた。それから受付の人へ、ほかの患者さんを奥から出して、と言った。
声が少し硬くなっていた。

年配の女の人が出てきた。
エプロンを外し忘れたまま、口元を手で押さえていた。彼女のうしろに、もう一人、男性の患者がいた。さっきまで声もしなかった人だった。二人とも何かを言おうとして、途中でやめた。
私は彼らの口を見なかった。
誰も、眠っている男のそばへ行かなかった。

男が自分で目を開けた。
ごく普通に、眠りから戻った。天井を見て、壁の時計を見た。
「すみません」
彼はそう言って立ち上がった。大きなあくびをした。
私の顎も下がった。
受付の人の口も開いた。年配の女の人も、男性の患者も、医師も。皆が一度に息を吸った。私は閉じようとしたが、顎を戻せなかった。

男はあくびを続けた。
長かった。
私たちは入口の外で、声も出さずに口を開いていた。通りかかった人がこちらを見た。何をしているのかと笑いかけ、足を速めた。
私は顎の付け根が痛くなった。歯の痛みより、そちらが強くなった。
男の目に涙が溜まった。

ようやく彼が口を閉じた。
私たちも閉じた。
受付の人が壁へ手をついた。医師はマスクを押さえ、息を整えた。
男は足元の鞄を取った。誰かが呼び止めるより先に、入口へ来た。
私たちの間を、すみません、と言いながら通った。誰にも触れなかった。
歩道へ出て、少し伸びをしてから歩いていった。

連絡を受けた救急隊が来たとき、私たちは全員起きていた。
眠っていたのは彼だけだったはずだ。それでも隊員に尋ねられると、目が覚めた、と答える人がいた。私にもその言い方がいちばん近かった。
私はほかの場所で診てもらった。歯の治療は、その日はできなかった。

一週間後、別の歯科の診察台へ横になった。
痛みはまだあり、放っておけなかった。医師へ口を開けるのが怖いと伝えた。ゆっくりでいいですよと言われた。
私は天井の灯りを見たまま、少しずつ口を開いた。
明るさは変わらなかった。
医師が器具を置く音を聞き、助手が私の名前を呼ぶのを聞いた。返事をする必要はないのだと分かっていても、声の主がどこにいるのか、一人ずつ確かめた。

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