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白を持つ手

佐伯さんは、俺が勝ちそうになると飴をくれた。
盤の脇へ、包み紙をひねったまま置く。俺がそちらへ手を伸ばすと、待ちかねたように次の石を打つ。飴を噛みながら考えていたら見落とした、と一度言ってしまったのが悪かった。以来、形勢が悪くなるとポケットを探るようになった。

「今日は要りませんから」
俺が先に言うと、佐伯さんは一つ自分の口へ入れた。
「最初から勝つつもりか」
「いつもそのつもりですよ」
佐伯さんは薄く笑い、椅子を少し前へ寄せた。左の靴の爪先が剥がれかけていて、俺は座る前から気になっていた。帰りに靴の話をしてやろうと思った。碁の話では、いつも俺の方が言い負かされる。

十年ほど前まで、同じアパートに住んでいた。引っ越してからも、駅裏の碁会所で顔を合わせる。佐伯さんの子供の名前は知らないし、佐伯さんも俺が何の仕事をしているか、たぶん正確には知らなかった。それで困ったことは一度もない。日曜に二局打ち、帰りに蕎麦を食べる。勝った方が奢るという約束だけが、長く続いていた。

その日は俺が白だった。店の奥の、冷房が直接当たらない席を取っていた。入口の方では二人の客がもう始めていて、主人は受付の小さなテレビを見ていた。棚に古い碁盤が立てて並べてあるほかは、事務所みたいな部屋だった。窓から隣の建物の壁が見えた。

佐伯さんは石を指の間に挟み、置く前に一度だけ盤の上で止める。俺はその間に、違うところへ置け、と念じる。こんなことは将棋でも麻雀でも同じなのだろうか。今日も願いは届かず、置いてほしくない所に黒い石が来た。
「そこ、嫌ですね」
「嫌だろうね」
分かって言っている顔だった。

白い石の入った木の器へ、右手を入れた。一つつまんだつもりが二つくっついていた。指で離そうとしても、離れなかった。くっついている一枚の縁をなぞって、手を止めた。石だと思った白い丸は、中指の腹についていた。

中指の先が白くなっていた。押すと、爪で机を叩いたような硬さがあった。爪は反対側にちゃんとついている。俺は手を返して見た。腹の指紋が薄くなり、皮膚の下に丸い物が入っているように膨らんでいた。
「どうしたの」
「手が変なんですよ。さっきまで何ともなかったのに」
佐伯さんは俺の手を見た。白い丸を親指で撫で、乾燥じゃないか、と言った。

手荒れする季節でもなかった。けれど痛くはないし、曲げることもできた。俺は膝で一度指を擦り、つまんでいた石を置いた。佐伯さんがすぐに打ってきた。俺の迷いを待たず盤面の方を先へ進めるのは、いつものことだった。

二手か三手打つあいだ、俺は右手を気にしていた。石を挟む時の感触が違った。指の腹は少し潰れて石を支えるはずなのに、固い物同士でつまんでいるようだった。取り落とした白が、器の中で鳴った。
佐伯さんが手を止め、器の中へ指を戻した。

「そっちの、見せてもらえます?」
俺は手ではなく、黒い石の入った方を指した。佐伯さんは器を寄せた。中には見慣れた黒い石が重なっていた。おかしい物はない。佐伯さんの人差し指が縁に掛かっていて、その先だけが妙に黒かった。
「指、黒くないですか」
「昔から、こんなもんだよ」
そう言って、指を器の内側へ戻した。

俺は、先ほど飴を開いていた手を思い出そうとした。黒かっただろうか。飴をくれる癖も石を置く癖も知っていたのに、指の色は覚えていなかった。
もう一度見せてくださいと言う前に、佐伯さんの手が盤へ出た。黒い石を置いて戻る。そのあとを、一つの黒が転がった。石を手の中へ余分に取っていたのかと思った。だが、転がった石は、器へ戻る佐伯さんの手を追うように弧を描いた。

盤の端に来た石を、佐伯さんは左手で押さえた。
「落ちると面倒だからな」
取って器へ戻した。その時、右の人差し指が短く見えた。爪の先にあるはずの肉がなく、白い爪だけが少し突き出していた。佐伯さんはその指で鼻の脇を掻いた。

「ちょっと待って」
俺は盤の上へ左手を出した。佐伯さんが次の石を取るのを止めたかった。
「何か変ですよ。手、見てください」
「見てるよ」
「そうじゃなくて」
俺は自分の中指を相手へ向けた。さっきより白い部分が広がっている。第一関節の皺は残っていたが、その先は、磨いた石のように光を返していた。

佐伯さんは自分の右手を開いた。
人差し指だけではなかった。中指も黒かった。二本とも、爪と指の腹の境目がなくなりかけていた。俺が指してみせたのと同じ場所で、皮膚のしわが終わっていた。
「痛くないんだよ」
佐伯さんは言った。その口調で、初めて気にしていないわけではないのだと分かった。

俺は椅子を引いた。今日はやめましょうと言いながら立つと、盤の端で、白い石が一つ鳴った。
右手が盤に載っていた。置いたつもりはなかった。指を引くと、白い石がその先についてきた。中指の腹の、膨らんでいた所だった。

左手でつまんだ。冷たかった。右の中指は、押されている感じだけがした。指を軽く曲げると、白い物がころりと落ちた。
血は出なかった。
爪の先から関節までの長さが、さっきより短くなっていた。切り口はなく、爪も短く収まっていた。生まれつき短い指をしていたように、皮が先まで丸く閉じていた。

佐伯さんが立ち上がった。俺が落とした白を拾おうと、手を伸ばした。
「触らないで」
俺の声が大きくなり、入口の客が振り返った。佐伯さんは手を止めた。だが、黒くなった指が先へ動き、白い石の横へ何かを置いた。黒だった。俺たちの打っていた所から離れた、盤の隅だった。

佐伯さんは右の手首を左手で握った。
「今、動いたか」
俺は頷いた。佐伯さんの足元で椅子が倒れていた。立った時に押したのだろう。あんなに長く対局してきて、佐伯さんが椅子を倒すところは初めて見た。

主人が来た。足元の椅子を起こし、どうかしましたか、と俺たちの顔を交互に見た。俺は短くなった指を見せた。主人は腰をかがめ、爪が割れたのかと訊いた。手をもっと近くへ出すと、その先の白い光沢を見て黙った。
「さっき、ここから落ちたんです」
俺は盤の白を左手で指した。触る気にはなれなかった。

主人が白をつまみ上げた。初めは普通に持っていた。親指で表面を擦り、それから急に指を開いた。落ちた石が床で跳ねた。
俺の右の中指が、勝手に曲がった。
床の白い石も向きを変えた。丸い面を下にして横たわっていたものが、細い縁で立ち、俺の靴へ向かって転がってきた。主人が一歩退いた。

「手、動かさないで」
主人が言った。俺は右手を左手で包んだ。右の指は掌の内側を押した。石が動いているのを確かめるために開くことはできなかった。俺が使っているのと違う力で、短い指が一本ずつ動いていた。

佐伯さんも同じ姿勢で、右手を押さえていた。
「これ、握ってていいのかな」
訊かれても分からなかった。俺は、自分が変に力を入れているからだとは思えない、とだけ答えた。佐伯さんは唇を強く結んだ。口の中の飴を、どこへやればよいか困っているようだった。

主人が受付から、紙の箱を持ってきた。横に倒した箱の口を石の前へ置き、棚にあった厚紙で後ろから押そうとした。白い石は、箱へ入る手前で止まった。佐伯さんの足元にも黒い石が二つあった。一つが主人の靴の向こうから転がってきた。

「どこから出た」
佐伯さんが言った。俺は手を見るよう顎で示した。彼が左手を緩めると、親指の先まで黒くなっていた。本人はその色より、手の中にある粒の方を見ていた。皮膚の裂け目もないのに、小さな黒い石がいくつも掌に載っていた。

俺も右手を開いた。
掌の、指のつけ根に並ぶ皺が、白く途切れていた。握っていた時に固い粒が当たったのは、佐伯さんと同じように何かが出ていたからではない。指を折るための柔らかい所が、丸い石になりかけていた。四本をいっぺんに曲げると、そこが互いにぶつかった。

盤の上で聞き慣れた、乾いた音がした。

主人は箱を置き、電話を取りに戻った。入口にいた客の一人が、救急車を呼ぶのかと訊いた。主人は答える前に俺の手を見た。俺は呼んでくださいと言った。名前と歳を訊かれ、答えた。五十二だと言うと、佐伯さんが顔を上げた。
「まだ、そんなだったか」
「佐伯さんの歳は知らないです」
「六十七だよ」
そんな話を、そこで初めてした。

右手を目の高さまで上げた。手首までは、俺が毎日使っている手だった。甲の小さな染みも残っていた。その先の指だけ、見慣れた形から少しずつ離れていた。左手で肘を押さえ、何にも触れないようにした。白い石がまた一つ、床へ落ちた。俺の手を離れる瞬間は見えなかった。音で気づいた時には、人差し指の先がなくなっていた。

佐伯さんは俺の前へ椅子を置いた。左手だけで動かし、座りなさい、と言った。俺は首を振った。椅子に座ると、また盤の高さへ手が戻るのが嫌だった。佐伯さんは椅子をそのままにし、窓際へ下がった。

俺たちの間を、白と黒の石が動いていた。まっすぐ進まず、回っては止まり、向きを替える。誰も打たなくなった盤には、途中の対局が残っていた。俺はまだ少し勝てそうだった。あそこで取れた黒が二つあった。今さら目が行く自分が嫌で、俺は盤から顔を背けた。

佐伯さんが、俺にではなく盤へ頭を下げた。
「負けました」
その言葉は聞こえた。だが、床を動く黒い石は止まらなかった。佐伯さんが掌を開くと、また一つ落ちた。手首をつかんでいた左の指が、黒くなるのではないかと俺は見た。そちらは普通の肌の色をしていた。

「そういうのじゃ、ないんですね」
俺が言うと、佐伯さんは顔をしかめた。
「終わりにしたかっただけだ」
俺は謝った。何かを知っていると思って訊いたのではなかった。けれど、痛くないと言っていた時から、どこかでこの人なら知っているのではないかと期待していた。

主人が通話を終え、もうすぐ来ますからと言った。入口の客は二人とも帰らずにいた。一人が通路の椅子を退け、もう一人は靴で石を踏みかけて動けなくなっていた。踏まないで、と俺が言う前に、佐伯さんも同じことを言った。

俺は受付まで歩いた。右手を肘から持ち上げたまま、体の前へ出していた。佐伯さんも後ろから来た。離れた席に残した盤は見なかった。足元を追ってくる石はあったが、全部ではなかった。いくつかは、誰もいない椅子の下で回っていた。

主人が紙の箱を椅子へ置き、手をこの上に出しておきませんか、と言った。俺は箱を覗いた。落ちたら探さなくて済む。そう思って右手を載せかけ、そこで止めた。右の指が、自分から箱の内側へ曲がったからだった。残った長さをいっぱいに使い、縁を越えようとしていた。

「動いてます」
俺が言うと、主人は箱を引いた。右の手だけが、そのあとを追った。肘を押さえている左手に力を入れた。関節を曲げる力は残っているのに、指先を開こうとしても開かなかった。

佐伯さんは入口の椅子に座っていた。右手を膝へ置かず、掌を上へ向けていた。俺に飴をやろうとして左手をポケットへ入れ、途中でやめた。
「蕎麦、今日は無理だな」
俺は頷いた。店を出る算段を、ようやく二人で話せた気がした。

階段の下から、人の上がってくる足音がした。主人が戸を大きく開けた。その風で受付の紙が一枚めくれた。俺たちは、入ってきた人へ右手を見せた。佐伯さんの黒い指と俺の白い指は、どちらも同じくらい短くなっていた。

自分の名前をもう一度答えている間に、右手が軽くなった。指のつけ根だった所から、白い石が離れた。誰の手も届かず、床で二度跳ねた。俺はそれを見ていた。拾ってほしいと言おうとしたが、石はもう、俺が一度も座ったことのない席へ向かって転がっていた。

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