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横になった人

成瀬が敷布団の値札を裏返すと、表と同じ金額が印刷されていた。カバーを含まないという小さな但し書きだけが増えている。
「裏に安い方、書いてあった?」
妻の千穂は隣の見本へ腰を下ろしていた。からかわれたのを認めるのも嫌で、成瀬は布団の厚さを確かめるふりをした。指を離すと、押したところがすぐに膨らんだ。

寝具を買い替える話は、連休の初日に千穂が始めた。今の布団は十年以上使っている。成瀬にはまだ使えるように思えたが、干すたびに綿が片寄り、縫い目の両側へ固い畝ができる。夜明け前にパン屋へ出勤する妻が、休みの日にも早く起きて、それを叩いていたことは知っていた。買うなら二枚一緒にという話をしたのは成瀬の方だった。一枚だけ値の張る物にすると、千穂はきっと自分のを後にする。

郊外の家具店の二階は、昼過ぎなのに空いていた。窓のない奥に寝具売場があり、低い台の上へ敷布団が一枚ずつ並べてある。枕元の照明は家の寝室より暗く、天井のスピーカーから、階下で売っている食卓の案内が流れていた。千穂は初めこそ靴を履いたまま端へ腰掛けていたが、店員に勧められると靴を脱いだ。
「頭をこちらへどうぞ。十分くらい、そのままでも構いません」
店員は枕に使い捨ての紙を敷いた。年齢は千穂と同じくらいに見えた。

千穂はバッグを成瀬へ渡し、横向きに寝た。いつも家で寝ている時と向きが逆だった。成瀬がそう言うと、あっちは窓だから、と目を閉じたまま答えた。窓からの明るさが気になるらしい。結婚して二十年以上になるのに知らなかった。
「カーテン、替えればいいだろ」
「布団を見てからね」
成瀬はバッグを膝に置いて隣の台へ座った。自分の方にも寝てみるよう言われたが、売場で眠る気にはならなかった。

店員が在庫を調べに離れてから、千穂は返事をしなくなった。寝息が聞こえたので、成瀬は起こさずにいた。首の下へ片手を入れ、もう片方を腹に載せている。仕事から帰って食卓でうたた寝する時には眉間の皺が深くなるのに、今日はそれがなかった。買うことになるな、と成瀬は思った。支払いを二回に分けられるか、店員が戻ったら聞いてみるつもりだった。

布団の側地は薄い灰色で、太い糸と細い糸が交互に使われていた。成瀬は千穂の足元を眺めながら、織り目の間に挟まった黒い物を見つけた。糸屑にしては形が揃っている。小指の爪ほどの長さで、左右へ短い枝が出ていた。寝ている妻の靴下から落ちたのかと思い、つまもうと身を屈めた。

頭だった。横へ投げ出した腕、揃えて伸ばした脚があり、小さな人が仰向けに寝ていた。布と同じ灰色で、目を離すと織り目へ紛れてしまう。人の形に見える毛羽なのだろう。指で撫でる前に、成瀬は顔を近づけた。小さな腕の一方が胸へ上がった。腹の辺りで折れ、また元の位置へ戻る。肩から先の動きに合わせて、下にある糸が一本ずつ沈んだ。

千穂の足に触れそうになり、成瀬は慌てて手を引いた。
「千穂」
妻は寝返りを打った。声が届いたのだと思って顔を見たが、眠ったままだった。灰色の人は妻の踵のすぐ下へ移っていた。上に足が載っているのに、顔の向きも胸に置かれた手も見えた。靴下越しに透けているのではない。織り目の中へ視線が通るところだけ、踵の下の人間が見えた。

目の具合がおかしいのか。成瀬は眼鏡を外して拭いた。階下で買った乾電池の袋と千穂のバッグが膝から落ちそうになり、抱え直した。バッグの紐を肩へ掛け、眼鏡を戻した。小さな人は肘を立てて上体を起こしていた。その頭の上には妻の踵があり、持ち上がりもしなければ、脇へずれもしなかった。成瀬が右へ顔を動かすと小さくなり、低い位置へ戻すとまた、手足のある形になった。

店員が紙を二枚持って戻った。
「同じ硬さの物でしたら、二枚あります」
成瀬は布団を指した。何と言えばよいか分からず、ここ、動いています、と言った。店員は千穂が眠っているのを見て声を落とし、指の先へ屈んだ。
「毛玉ですかね」
その人の爪が、灰色の人の頭に近づいた。

小さな腕が店員の爪に掛かった。成瀬のいる側へ、五本の細い筋が揃って曲がったのが見えた。店員が指を引くと、小さな人の肩が側地から出てきた。肩から胸、腰へと、織り目の奥に残っていた体が続いた。糸は切れなかった。編み目がほどけることもなかった。出てきた物の表面には、布団と同じ太い糸と細い糸が交互に走っていた。

店員は指を振って手を離した。紙が千穂の足元へ落ちる。人の形をした布は台の縁へ垂れ、片方の足を床につけた。そこで成瀬は、大きさを見誤っていたと気づいた。出てきた体は、小さな人形が膨らんだようには見えなかった。ずっと奥に寝ていた背の高い人が、近くへ歩いてきたのを見ているようだった。最後にもう一方の足が台から下りた時、頭は店員の肩より高い所にあった。

厚みがほとんどなかった。正面から見れば成人の男ほどの肩幅なのに、横を向くと灰色の線になる。胸も腹も平らで、縁には短い毛羽が出ていた。床に触れている足の裏だけが曲がっている。店員が後ろへ下がり、踵を別の台へぶつけた。布の人の首がその音へ向いた。顔のある場所には糸が縦横に走っていて、向こう側の値札の赤が細かく分かれて見えた。

成瀬は千穂の肩を揺すった。強く揺すったつもりなのに、妻は低く唸って首を引いただけだった。
「起きろ。もう出るぞ」
その声で近くにいた客が振り向いた。寝具売場の入口で枕を触っていた男が、手を止めてこちらを見ている。成瀬には説明する余裕がなかった。千穂の肩口からブラウスがずれて、首筋に赤い跡が見えた。

指の跡が二組ついていた。小指の先ほどの小さな手が左右から首に触れたような、細い赤い筋だった。寝ていた跡にしては並び方が揃いすぎている。成瀬が襟を引いて確かめると、その下にも同じ形が続いていた。背中へ向かって、手の幅が大きくなっている。布の人へ目を戻した。平らな両手が、千穂の肩と腰の間ほどの幅を空けて前へ出ていた。

布団の中で、妻を下から抱えていた。その考えが浮かんだ途端、成瀬は妻の腕を引いた。千穂の上体が起き、首ががくりと前に倒れた。重かった。布団に貼りついているのではなく、力を抜いた大人の体の重さだった。腕だけ引いても立たせられない。成瀬は台へ膝をつき、妻の脇へ腕を入れた。
「お客様、奥様の腰を」
店員が反対側へ回ろうとした。布の人が一歩、横へ動いた。店員は足を止めた。

その一歩で、台に下がっていた値札が人の腿へ引っ掛かった。紙は床へ落ちず、毛羽に留まって揺れていた。人は手を下ろし、値札をつまんだ。値札の端が折れた。成瀬はその手を見てしまい、千穂を支えていた腕を滑らせた。妻の頭が成瀬の胸へ当たり、ようやく薄く目が開いた。
「何。痛い」
「立ってくれ」
「どこにいるの」
千穂の視線は成瀬の顔を通り過ぎ、店の天井へ向いていた。

成瀬は自分の靴を履いたまま台に上がっていることに気づいた。千穂が普段なら真っ先に注意することだった。それを言おうとしてやめた。謝るのも説明するのも、後でいい。妻の足を台の外へ向け、床へ下ろした。靴下の裏は何も付いていなかった。
「床、分かるか。足、ここ」
千穂の膝が折れる。成瀬は腰を抱え直した。バッグの紐が二人の間で突っ張っていた。妻を胸で支え、片手で紐を外して台へ落とした。

布の人が二人へ寄ってきた。足の先が床を擦るたび、カーペットの毛が寝た。歩幅は小さく、急いではいなかった。人の腕が台の端を越え、千穂の背中へ回ろうとしていた。成瀬は妻を自分の方へ引き寄せた。薄い指先が二人の間を通り、妻の袖に触れた。ブラウスが腕から離れ、指の動く方へ引かれた。布同士が擦れる音はしなかった。

千穂が首を起こした。
「寒い」
店員が一緒に支えようと手を伸ばしたが、千穂は成瀬の肩を押して座り直そうとした。眠いから少し待って、と言った。その言い方があまりに普段通りだったので、成瀬は一瞬だけ、また寝かせれば済むような気がした。灰色の腕が妻の脇へ入りかけていた。成瀬はその手首を叩いた。手のひらに、固い麻紐を束ねたような感触が当たった。人の腕は脇へ振れたが、体は動かなかった。

入口の男が、店員に何か叫んでいた。成瀬が顔を向けると、男は枕を棚へ戻せずに持っていた。その枕の角から、灰色の細い腕が肘まで出ていた。指が男の手の甲を撫で、手首を回り、もう片方の手を探していた。男は枕を床へ落とした。腕も一緒に下がったが、指先だけが男の袖から離れなかった。男は袖を振り切り、売場を走り出た。店員が無線機を取り出した。

成瀬は千穂を台の端へ腰掛けさせた。靴は台の下に揃えてあった。片膝をつき、靴下のままの足をつかんだ。ここで履かせるつもりだったのか、足を確かめたかったのか、自分でも分からなかった。妻の足裏へ指が掛かると、千穂は大きく脚を引いた。
「くすぐったいって」
「千穂。こっちを見ろ」
今度は妻が成瀬の顔を見た。目を細め、何か言いかけて、それから成瀬の後ろを見た。

妻の手が成瀬の肩へ食い込んだ。成瀬は振り向かなかった。そのまま立ち、妻を引いた。千穂は一歩目こそ膝が折れたが、二歩目には自分で足を出した。店員がバッグを拾い、成瀬に押しつけた。二人で通路へ出る間、千穂は後ろを見ていた。
「あの人、何」
成瀬は答えず、靴を置いてきたと言った。妻は、それはいい、と言った。

寝具売場を出ても、千穂は足を止めなかった。椅子の売場を通り、エスカレーターへ向かう。成瀬の手首を握る力が強かった。途中で千穂が振り返ろうとしたので、成瀬もつられて顔を向けた。灰色の人はついてきていなかった。店員が寝具の台から離れ、無線機へ話していた。その奥に、千穂が寝ていた布団が見えた。

布の人は、空いた場所へ横になろうとしていた。台の上へ両手をつき、片膝を載せる。千穂が残した窪みはもう膨らんでいたのに、人は手のひらで何度もそこを撫で、妻の背中があった辺りへ顔を近づけた。横になると、頭から肩へ順に、織り目の中へ沈んでいった。枕に敷かれた白い紙だけが、少し揺れた。

一階の入口脇で千穂を椅子に座らせ、成瀬は車を回した。駐車場へ向かう途中で一度だけ電話を掛けた。妻はすぐに出て、ここにいるよ、と言った。成瀬は返事をしながら車の鍵を探した。何を確かめたかったのか、うまく言えなかった。

車に乗った千穂は、寝具売場で何を見たか話さなかった。靴下のまま助手席へ座り、足を床から上げて膝を抱えた。成瀬は家に帰るかと聞いた。
「今、横になりたくない」
千穂がそう言ったので、成瀬は大通りの喫茶店へ車を向けた。信号で止まると、妻は襟を引いて首の後ろを掻いた。赤い筋はまだ見えた。
「そこ、痛むのか」
「ううん」
千穂はしばらく窓の外を見ていた。
「寝てる間、誰かに向こうへ詰めてって言われてた」
信号が変わった。成瀬はハンドルを握り直した。妻がほんの少しだけ、助手席のドアへ体を寄せた。

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