漏水の連絡が来たとき、梶田は出張先のホテルにいた。
九階の自分の部屋から水が落ちている。下の階の住人が、天井の照明の中に水が溜まっていると言っている。管理会社の男は、そこまで話してから、鍵を使って入ってよいかと尋ねた。
梶田は承諾した。前の晩にシャワーを使った。蛇口を閉め忘れたのかもしれない。洗濯機のホースが外れたのかもしれない。補償のことを考え始めたところで、男から二度目の電話が来た。
「いま、どこにいらっしゃいますか」
さっき伝えたホテルの名を、梶田はもう一度言った。
男は、部屋に雨が降っています、と言った。
窓が開いているのか聞くと、閉まっているという。上の階からの漏水ではないかと聞くと、天井は乾いているという。梶田は苛立ち、何が濡れているんですかと聞いた。男は、私です、と答えた。
電話の向こうで、強い水音が続いていた。
梶田は翌日の仕事を同僚に頼み、その晩の新幹線で戻った。
駅を出ると、路面は乾いていた。七月の、蒸し暑い夜だった。マンションの入口に管理会社の男がいて、作業着の肩だけが濡れていた。持っていたタオルも重そうだった。
部屋の止水栓は閉めたという。十階の住人にも確認し、水回りに異常はなかった。下の階には応急処置をし、照明の電源を切ってもらった。男は、その説明をしている間だけ落ち着いていた。
「中へ入ると、分かります」
最後にそう言って、エレベーターの九階を押した。
廊下には水がなかった。
梶田の玄関の前にも、濡れた足跡はなかった。男が鍵を開けると、中から湿った空気が出た。部屋の匂いではなかった。ずっと使っていない押入れの奥に、濡れた新聞を積んだような匂いだった。
玄関から見える床は濡れていた。
窓の前へ、細い雨がまっすぐ落ちていた。天井から落ちるのではない。天井より三十センチほど下の、何もない空間に雨粒が現れ、床へ落ちていた。窓の外は普通の町の夜で、向かいのマンションのベランダに洗濯物が干してあった。
梶田は天井を見上げた。白い壁紙は乾き、照明も点いていた。窓の上にエアコンはない。彼の持ち物のどれも、こんな量の水を出せるものではなかった。
梶田が一歩入ると、肩へ冷たい雨粒が当たった。
窓のところだけではなかった。
部屋全体に降っていた。玄関にいると、窓の光を受けた部分だけが見えるのだ。梶田は管理会社の男と並び、床に敷かれたタオルを踏んだ。タオルは何枚も重ねられ、その上に鍋と洗面器と、男が持ってきた青いバケツが並んでいた。
「家具を、先に出したほうが」
梶田は言いかけ、止めた。
本棚は濡れていなかった。机も、畳んだ布団も乾いていた。雨は家具を通り抜けるのではなく、手前で細かく曲がり、床と人にだけ落ちていた。梶田の靴の中は、もう冷たくなっていた。
男が、見てくださいと言って、バケツを持ち上げた。
水は半分ほど溜まっていた。男がそれを台所へ運ぶと、歩くたびに水位が下がった。床へこぼれていない。流しに着いたとき、バケツは空になっていた。元の場所へ戻すと、底に水が現れ、さっきと同じ深さまで増えた。
梶田は窓を開けた。
雨を外へ逃がせるとは思っていなかった。息が苦しく、空気を入れ替えたかっただけだった。窓が十センチほど開くと、向こう側から掌が入ってきた。
手首がひどく細かった。
指は水で膨れたように白く、窓枠の内側を探っていた。梶田は窓を押し戻した。指が挟まる前に、手は外へ引っ込んだ。ガラスの外側に、五本の指の跡が残った。
九階だった。ベランダは別の窓の外にあり、こちら側には足を置ける場所がなかった。
管理会社の男が、最初からいました、と言った。
梶田は男を見た。男はタオルで顔を拭き、窓を見なかった。
「人に見えるから、言えなかったんです」
二人で部屋を出た。
扉を閉めると、水音はほとんど聞こえなくなった。梶田の服だけが濡れていた。廊下の床へ雫が落ちたが、すぐ消えた。男の髪も、見ている間に乾いていった。
梶田は濡れたまま帰宅したような格好で、管理会社の事務所へ行った。建物の一階に、小さな管理室があった。そこで古い書類を見せてもらった。以前に雨漏りや窓の破損があったか、確認するためだった。
自分たちにできる、普通の手続きを続けたかった。
前の住人が窓際の壁へ、大きな鏡を置いていたことが分かった。
退去時の写真に、鏡を外した跡が写っていた。梶田はそこへ本棚を置いた。鏡自体は部屋になかった。けれど、洗面所の小さな鏡だけは、前の住人の置き忘れをそのまま使っていた。
管理会社の男が、その人へ電話した。
遅い時間だったが、相手は出た。水が出ていますかと、先に聞かれた。男は梶田に電話を代わった。梶田が雨のことを話すと、相手はしばらく黙ったあと、窓を開けましたか、と聞いた。
「少し」
梶田は答えた。
相手は、そうですか、と言った。責める声でも、驚いた声でもなかった。その落ち着きが、梶田には怖かった。
「鏡を捨てたんですか」
梶田が聞くと、大きいのは処分しました、と返ってきた。
小さい鏡のことを話すと、相手の息が変わった。
あれは持っていったはず、と言った。洗面台の横に置く、銀色の枠のものですか、と確かめられ、梶田はそうだと答えた。相手は、私は持っています、と言った。
どちらが本物か、そんなことを考える余裕はなかった。
梶田は、どうしたらいいですかと聞いた。相手は答えなかった。電話の向こうで、水を止める音がした。そのあと、今夜は入らないほうがいい、とだけ言って切れた。
九階へ戻ると、廊下の奥で足音がした。
非常階段から、誰かが下りてくる音だった。階段室の窓に、車のライトが当たり、人の影が回った。梶田は管理会社の男へ、誰か来る、と言った。
足音はしたが、人は現れなかった。
光がもう一度当たると、影は同じ踊り場を回った。
さっきより肩が低かった。体を屈めて下りているのかと思った。三度目には頭の位置が床に近づいていた。影の背中が、階段の形へ長く折れ曲がっていた。
男が梶田を管理室へ戻そうとした。
梶田は部屋の中に、財布と会社のパソコンがあることを思い出した。取りに入るだけだと言った。今考えると、何を優先していたのか、自分でも分からない。仕事の道具を失くしたと説明することのほうが、そのときは怖かった。
扉を開けると、雨は強くなっていた。
床に水が溜まり、窓の下へ向かってゆっくり流れていた。家具は相変わらず乾いていた。梶田は机のパソコンを取り、鞄へ入れた。財布を取るため洗面所へ行くと、鏡の中の自分だけが濡れていなかった。
実際の梶田の髪からは水が落ちていた。
鏡の中の髪は乾き、上着も乾いていた。鏡の中の梶田は、こちらと同じように右手を上げた。けれど、自分の頭を拭く代わりに、後ろの壁を指さした。
梶田は振り向いた。
壁に、窓があった。実際には隣の部屋との境で、窓のある場所ではなかった。向こうに見えたのは、自分の部屋だった。管理会社の男が入口に立ち、鞄を持った梶田へ何かを言っていた。
梶田がいる場所だけが、部屋の外だった。
雨が横から顔へ当たった。
床だと思っていたところは、窓の外の細い縁になっていた。梶田の足元の先に、夜の町が見えた。車の灯りが遥か下を通った。梶田は鏡の枠をつかんだ。小さな鏡のはずなのに、両手を広げても端に届かなかった。
窓の向こうの梶田が、鞄を持って玄関へ歩き始めた。
管理会社の男がその肩へ手を掛けた。梶田は叫んだ。声はガラスに当たり、自分の耳へ戻ってきた。男が窓を見た。目が合った。
部屋の中の梶田も振り向いた。
濡れていない顔で、こちらを見た。驚かなかった。鞄を持つ手を少し上げ、管理会社の男へ何かを言った。男はどちらを見るべきか迷い、顔を何度も動かした。
梶田は窓へ両手をついた。
最初に入ってきた白い手の持ち主も、こうしていたのかもしれなかった。隣を見ると、同じような窓がいくつも並んでいた。どの窓にも、人が張りついていた。顔をガラスへ押し当て、内側にいる誰かへ話しかけていた。声は聞こえなかった。
管理会社の男が窓へ近づいた。
梶田は首を振った。開ければ、また同じことになる気がした。男は取っ手に触れず、窓の下へ青いバケツを置いた。梶田には意味が分からなかった。男は洗面所へ行き、銀色の小さな鏡を持って戻った。
鏡をバケツの中へ伏せた。
梶田の足元で、床が揺れた。いや、床ではない。窓の縁が、急に柔らかくなった。雨が下から上へ流れ始め、梶田の体が窓へ押しつけられた。鞄を持ったほうの梶田が、初めて嫌な顔をした。
男がバケツを持ち上げた。
梶田はガラスへ顔をぶつけた。ぶつかった感触のあと、床へ転がり落ちた。水の中で息を吸い、咳をした。管理会社の男が、梶田の背中を叩いていた。鞄は机の上にあった。濡れていないもう一人は、どこにもいなかった。
雨は止まっていた。
男はバケツから手を離さなかった。底に伏せた鏡が、水のないところで細かく震えていた。梶田は立ち上がり、男の肘を支えた。二人で、そのまま部屋を出た。
廊下に出ても、今度の水は消えなかった。
バケツの底へ、雨粒が一つずつ落ちていた。鏡の裏側から、滲むように出てきていた。男は前だけを見て歩き、梶田は後ろへついた。非常階段の踊り場で影が動いたが、二人ともそちらを見なかった。
管理室の流しへバケツを置くと、男はやっと手を離した。
掌に深い跡がついていた。梶田の手にも、鏡の縁をつかんだ赤い筋が残っていた。男は椅子へ座り、しばらくして、自分も外にいたから、と言った。最初に部屋へ入ったとき、一度だけ。窓を開けなかったので戻れたのだという。
梶田はホテルを取り直した。予約を終えるまで、男は電話を掛けずに待っていた。自分も今夜は家へ帰ると言った。流しに置いたバケツへ、二人とも蓋をしようとはしなかった。
管理室を出る前に、梶田は九階の部屋の鍵を机へ置いた。いつもの癖で、鍵の先を男のほうへ向けた。男は手を伸ばしかけ、ポケットから乾いたタオルを出して、その上から鍵をつかんだ。
一階の玄関まで、一緒に歩いた。男は梶田をタクシーへ乗せ、自分は反対側へ歩いていった。梶田は車が発進するまで、その背中を見ていた。管理室の窓には明かりが残っていた。どちらも、消しに戻ろうとは言わなかった。


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