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百足の嫁入り

父が連れてきた人は、玄関にいた蟻を踏まなかった。
わざわざ靴を持ち上げ、蟻が通り過ぎるのを待った。雨の中で傘を畳みながら、片足を上げている。私は最初から見ていたので、ずいぶん大変な人が来たと思った。

名前は千津さんといった。
父より七つ年下で、母より二つ年上だった。母は私が中学生のときに亡くなったから、そんな数え方に意味がないことは分かっている。けれど、父の再婚相手をどう見ればいいのか分からず、私は会う前から年齢を何度も計算していた。

千津さんは料理が上手でも、世話好きでもなかった。
冷蔵庫を勝手に開けなかったし、掃除を手伝おうともしなかった。父が話し始めると、途中で退屈そうに窓の外を見ることがあった。そういうところは少し好きだった。父の話は長い。相手を気分よくさせるために全部聞く人より、私は信用できる気がした。

父が台所へ湯を沸かしに行くと、千津さんは私へ、小さな包みを差し出した。お菓子かと思ったら、古い帯留めだった。薄い緑色の石に、金色の虫が彫られていた。
「使わなかったら、そのままでいいから」
そう言われると、いらないとは返しづらい。私は受け取り、箪笥の上に置いた。

父と千津さんは、山の直売所で知り合ったのだという。
父は月に何度か、野菜を買いに遠くまで車を出した。安く買ってもガソリン代で損をする、と母が昔よく言った。母がいなくなってから、父はますます遠くへ行くようになった。ある日帰り道で車を止め、道端にいた千津さんへ声をかけたらしい。

最初の話では、道に迷っていたのは千津さんだった。
次に聞いたときは、父だった。父の話は細部がよく変わるので、そのときは気にしなかった。千津さんはどちらの話にも口を挟まず、帰れてよかった、とだけ言った。

泊まりに来るようになったのは、それから二か月ほどたってからだ。
朝、洗面所へ行くと、窓のところに百足がいた。大きいものだった。私は声を上げ、父を呼んだ。父より先に千津さんが来た。百足へ指を伸ばし、そのまま手の甲へ這わせた。

私は廊下へ逃げた。
千津さんは追ってこず、窓を開けて百足を外へ出した。あとで手を洗いながら、嫌い、と聞いた。私は、普通は嫌いです、と答えた。少し嫌な言い方になった。千津さんは気にせず、そうなのね、と頷いた。

その日から、家に虫が増えた。
台所に小さな甲虫が出た。居間のカーテンに蛾が止まった。どれもこの辺りで見たことのない模様をしていた。蛾の羽根には、細い縞が何本も重なり、遠くから見ると、人の指紋のように見えた。

千津さんはそれを一匹ずつ外へ出した。窓のそばへ手を置くと、虫が自分から乗った。父は、昔から動物に好かれるんだよ、と言った。私は、虫でしょう、と言い返した。父は笑ったが、千津さんは笑わなかった。

ある夜、千津さんの部屋の前を通ると、話し声が聞こえた。
相手の声はなかった。電話なのだろうと思ったが、襖が少し開いていた。千津さんは机へ両手を載せ、そのあいだに置いた百足へ話しかけていた。百足は長い体を輪にし、頭を持ち上げていた。

「それは駄目。ここは、まだ」

私は足音を立てて廊下を歩いた。
千津さんが顔を上げた。百足は彼女の袖へ入り、見えなくなった。私は水を飲みに行くだけのふりをした。冷蔵庫を開けたまま、何を取り出せばいいか思い出せなかった。

翌朝、父へ話した。
父は笑わなかった。千津さんが虫へ話しかけることを、知っていたらしかった。お前も猫に話しかけるだろう、と言われた。私は猫を飼ったことがない。父は母の話と混ぜていた。その雑さに腹が立ち、あの人をここへ住ませるなら私は出る、と言った。

父は、そうか、と答えた。
怒ると思っていた。説得されるつもりでもいた。あまり簡単に受け入れられて、言った私のほうが取り残された。私はその日、不動産屋のサイトを何時間も見た。実際に部屋を借りられるほど、貯金はなかった。

千津さんは夕飯の席で、私が出ていく話をしなかった。
焼き魚の骨を端へ寄せ、父が残した大根おろしを少し貰った。私は彼女の箸の持ち方を見ていた。普通だった。指は五本で、爪も短かった。誰かを疑い始めると、そういうところまで数えてしまうことを、そのとき初めて知った。

食後、千津さんがゴミを捨てに出た。
玄関の照明に、影が伸びた。首から下が、人の形ではなかった。細い節がいくつもつながり、両側から脚が出ていた。影の先は玄関の外へ伸び、見えなくなっていた。

私が立ち止まると、千津さんも止まった。
振り向かず、靴を履いたまま言った。
「見えたなら、踏まないでね」
それだけだった。言い訳も、口止めもなかった。

私は父を二階へ呼んだ。
何を見たか話すと、父は目を伏せた。今度は信じる信じないの話にはならなかった。父も見たことがあるのだと分かった。
「怖くないの」
聞くと、父は長く黙った。
「怖いよ」
その答えで、私は余計に腹が立った。

父は、山で道に迷った話をした。
車を置き、珍しい虫を追いかけたのだという。小さいころ昆虫採集が好きだったと、私はそのとき初めて聞いた。羽根に白い丸のある虫が次々に現れ、捕まえようとしているうちに、車へ戻れなくなった。

千津さんは、道のない斜面から出てきた。
父の上着のポケットへ手を入れ、捕まえた虫を放した。それから、谷へ下りようとする父を止め、来たほうへ押し戻した。車まではすぐだった。父はお礼をしようとしたが、千津さんは何も欲しがらなかった。

「じゃあ、何で家へ」
私は聞いた。
「俺が、また会いたいって言った」
父は顔を上げた。私の返事を待つ顔ではなかった。
「一人で帰ると、誰もいないから」

私はその話を受け入れたくなかった。
寂しかったからなら、何を連れて帰ってもいいのか。虫を逃がして道を教えた相手なら、何者でもいいのか。言いかけて、やめた。父を正しいほうへ連れ戻すための言葉は、父の暮らしを全部否定する言葉になりそうだった。

その夜、隣の家で人が倒れた。
救急車が来たのは十一時過ぎだった。独り暮らしの大野さんという男の人だった。普段から父に細かな苦情を言い、庭の枝が少し越えただけで怒鳴りこむ。私は好きではなかったが、担架で運ばれる姿を見て、ひどく嫌な予感がした。

千津さんは玄関に立っていた。
両手を握り、道路を見ていた。袖口から、百足の頭が少し出た。彼女は指で押し戻した。その手つきが、さっきまでの優しさとは違った。
私は、あの人に何をしたの、と聞いた。

千津さんは答える前に、袖の中へ手を入れた。
出てきたのは小さな黒い虫だった。丸く膨らみ、脚が見えなかった。彼女の掌の上で転がり、何かを探すように向きを変えた。道路の向こうで救急車の扉が閉まると、虫の腹が一度大きく震えた。

「私じゃない」
千津さんは言った。
「でも、ここへ来たのは、私について」

彼女は虫を庭の石へ置いた。
百足が袖から出てきた。私は見たくなくて顔を背けたが、千津さんが、見て、と言った。百足は黒い虫の周囲を回り、頭を下げた。黒い虫は逃げず、その場で小さく潰れた。水滴ほどのものが、石へ吸いこまれた。

千津さんが両手で顔を覆った。
初めて見た仕草だった。人の顔に困っているようにも、別のものが出るのを押さえているようにも見えた。父が彼女の肩へ手を置いた。彼女は、その手をすぐには受け入れなかった。

大野さんは三日後に戻った。
何があったかは教えてくれなかった。父が様子を見に行くと、玄関へ出てきて、庭の石を動かすな、とだけ言った。父は帰ってから、一日中、窓の外を見ていた。
千津さんはその晩、自分の荷物をまとめた。

私は手伝わなかった。
出ていくなら、そのほうがいいと思った。父は泊まっていけと言いかけ、言葉を飲んだ。千津さんは、しばらく離れます、と言った。別れるとは言わなかった。父はその違いに縋った顔をした。

玄関で千津さんは、私へ名前を聞いた。
最初に会った日に伝えてある。食事の席でも何度も呼ばれた。それなのに、もう一度、あなたの名前を聞かせて、と言った。私は口を開き、閉じた。
玄関の照明の下で、彼女の影が長く伸びていた。

百足の脚が、すべてこちらを向いていた。
体は外へ向いているのに、脚の先だけが家の中を探っていた。私は、父から聞いてください、と答えた。自分の声が掠れた。千津さんは寂しそうに笑った。
「そうね。それがいいね」

彼女が門を出ると、家の中にいた虫が動き始めた。
カーテンの蛾、洗面所の小さな甲虫、台所の隅の蟻。見ていたわけでもないのに、どこにいたか分かった。壁の中で、天井の裏で、たくさんの脚が同じ方向へ進む音がした。父は玄関を開けたまま立ち、全部出ていくまで待った。

帯留めだけが残った。
私は返すつもりで包みを探したが、父に次に会うとき渡してと言うことができなかった。石に彫られた金色の虫は、前より長くなっていた。そう見えるだけかもしれないと思い、机の引き出しを閉めた。

父は今も、月に二度ほど山へ行く。
帰る日は必ず連絡を入れるようになった。私は夕飯を二人分作る。千津さんの分は作らない。父も、そのことを責めない。
時々、車の助手席の窓だけが開いている。父が閉め忘れたのではないことは、分かっている。

先月、父が小さな箱を持って帰った。
千津さんからだと言った。開けると、帯留めを収めるための台が入っていた。私が持っている石にぴたりと合う窪みがあった。父は、なくさないでくれって、と言った。

私は箱へ帯留めを入れた。
蓋は閉めなかった。閉めかけると、窪みの中から、千津さんが息を詰めるような音がしたからだ。金色の脚が一本だけ、箱の縁へ出ていた。触らずに待っていると、その脚はゆっくり戻った。

父は私の横で、その小さな動きを見ていた。
手を出さなかった。呼びかけもしなかった。二人で箱を開けたまま、台所のお湯が沸くのを待った。

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