太鼓を叩くとき、結人は妹の姿を探さないようにしていた。
見つけると、佳乃が変な顔をする。笑って拍子を間違えると、隣のおじさんに肘で小突かれる。高校に入ってまで小学生の妹にからかわれるのは嫌だったが、櫓の上からなら妹に見つからずに見られると思っていた。実際には逆だった。
町の盆踊りは、学校の校庭で開かれた。校舎の一階を控室に使い、給食室の前で焼きそばを売った。結人たちが小学生だったころと、屋台の場所はほとんど変わっていない。変わったのは、昔はただ貰っていた物を、自分たちが配る側になったことだった。
結人は太鼓が好きで引き受けたわけではなかった。地区の役員をしている母親に頼まれ、稽古へ来たら、同級生が何人かいた。思っていたより簡単で、叩くと音が腹へ返るのも悪くなかった。最後に貰える焼きそばを二つにしてくれるなら、と言って、三日間だけ練習した。
佳乃は踊りの輪に入りたがった。母親が屋台で忙しいので、同じ班の友達の親へ預けられていた。黄色い浴衣を着ていた。祖母が縫った浴衣で、丈が短くなった裾を母親が伸ばしたばかりだった。裾のあたりだけ、布の色が濃かった。
祖母は去年亡くなった。
盆踊りが好きな人だった。輪の端で踊り、知っている子を見ると手招きした。結人も小さいころ、何度も連れていかれた。手を上へ向けるところで下へ向け、祖母に笑われた。佳乃のほうがずっと上手だった。
八時を過ぎると、校庭の明かりが一段暗くなった。
電球が切れたのではなかった。提灯の赤が濃くなり、校舎の窓が黒くなった。櫓の上はまだ明るかったので、結人は自分の目が慣れていないのだと思った。太鼓の拍子は続いていた。隣のおじさんが水を飲み、結人へ次の一曲を任せた。
輪の中に、祖母がいた。
最初は似た人だと思った。薄紫の浴衣に白い帯を締め、腰を少し折って踊っていた。祖母の浴衣は、葬儀のあと母親が箪笥に入れたはずだった。けれど、帯の結び目の歪みまで、写真で見た通りだった。
結人は一度だけ拍子を外した。隣のおじさんが、どうした、と聞いた。結人が指をさすと、おじさんはそちらを見た。
「奥のおばあちゃん、来てるな」
驚いた声ではなかった。結人の祖母を、家の場所でそう呼ぶ人だった。
櫓の下でも何人かが気づいたらしかった。
亡くなった人の名前が聞こえた。祖母だけではなかった。輪の向こうに、春に亡くなった魚屋の主人がいた。近くで子供会の世話をしていた女の人もいた。みんな、元気だったころの服を着ていた。
踊りに来たのだ、と誰かが言った。
その一言で、校庭の空気が変わった。怖いと感じかけていた結人も、そうなら悪いことではない気がした。お盆だから。祭りが好きだったから。大人たちがそんなふうに話し、涙を拭く人までいた。結人は太鼓を叩き続けた。
佳乃が祖母の後ろへ入った。
結人が見つけたときには、もう手を伸ばしていた。祖母は佳乃を振り返り、指を曲げて招いた。結人は止めようとしたが、妹も祖母に会えて嬉しいのだと思うと、声が出なかった。母親を探した。焼きそばの屋台には、湯気が上がっていた。
佳乃は祖母と同じ動きをした。
右へ一歩、両手を揃え、胸の前で返す。結人にも分かる、何度も練習した踊りだった。けれど祖母は、手のひらを返していなかった。手の甲を外へ向けたまま、両手を胸へ寄せた。関節が、変な向きに折れていた。
佳乃はその動きを真似しようとした。
結人は妹の名を呼んだ。太鼓の音と音楽で届かなかった。隣のおじさんへ、ちょっと代わって、と頼むと、まだ途中だと言われた。結人は撥を台へ置いた。おじさんが怒鳴った。結人は梯子を下りた。
地面から見ると、輪は普通だった。
祖母の姿も、魚屋の主人の姿も見えない。どこにでもいる近所の大人が踊っていた。結人は佳乃の黄色い浴衣を探した。提灯の色で、どの浴衣も赤く見えた。輪の中を突っ切ろうとすると、知らない女に腕を押さえられた。
「反対に歩かないで」
女は笑っていた。指が冷たかった。結人が腕を抜くと、女は止めず、踊りへ戻った。こちらを見たまま一回転し、また背を向けた。背中の帯の下に、もう一組の手があった。
両手は帯の後ろで組まれ、手の甲を外へ向けていた。
結人は女の前の手を見た。そちらもちゃんとあった。腕は四本だった。肘の数を確かめようとすると、女が隣の人の陰へ入り、見えなくなった。
母親の屋台へ行った。
母親は結人を見ると、櫓へ戻りなさいと言った。頼まれたことを途中で放り出すなと叱る声だった。結人は、佳乃がいない、と言った。母親の顔がすぐに変わった。踊りの輪を見て、佳乃を預けた人へ手を振った。
その人は輪の外にいた。
隣に佳乃もいた。黄色い浴衣で、かき氷を食べていた。結人は息を吐き、近づいた。佳乃は、もう太鼓終わり、と聞いた。口の周りが青かった。
結人は妹の手首をつかんだ。温かかった。指も五本ずつあった。
母親は、いるじゃない、と呆れた。
その向こうで、同じ黄色い浴衣が回った。祖母のすぐ後ろだった。手を上げ、手の甲を外へ向けようとしていた。佳乃はかき氷を持ったまま、そちらを見た。
「私、まだ踊ってる」
母親も見た。
そのとき、屋台の明かりが一つ消えた。輪の中の佳乃が、こちらへ顔を向けた。泣いていた。口だけは笑っていた。祖母の手が、後ろからその両手を持ち上げた。
結人は本物の佳乃を母親へ押しつけ、また櫓へ走った。
どちらが本物かを考えたわけではなかった。目の前にいる妹を、母親へ預ける。それだけだった。櫓の上からなら、祖母がどこにいるか見える。上って、止めればいい。そんなことを考えた。
梯子の途中で、輪の形が分かった。
踊っている人たちの影が、校庭の真ん中へ向かって伸びていた。提灯は周りにもあるのに、影は全部、同じ方向だった。影の腕が隣の影へつながり、大きな一つの輪になっていた。輪の内側では、頭のない細長いものが、何本もの腕を振り回していた。
それが踊ると、人が踊った。
太鼓に合わせているのではなかった。結人が拍子を間違えても、輪が乱れなかった理由が分かった。隣のおじさんは汗を流して太鼓を叩いていた。音のほうが、下の動きを追っていた。
結人は撥を奪った。
おじさんの手を押さえ、叩くな、と叫んだ。おじさんは怒らなかった。両手が赤く腫れていた。もう持ちたくなかったのか、撥を離したとたん、櫓の板へ膝をついた。
録音の音楽は続いていた。
結人は櫓から係のテントへ叫んだ。母親も地上から同じことを叫んでいた。音を止めて。やっと誰かが機械へ手を伸ばし、曲が途中で切れた。
踊りは止まらなかった。
靴が砂を擦る音だけになった。
何十人もの足が、同じところで地面を踏み、同じところで浮いた。掛け声はなかった。結人は輪の中の佳乃を見た。背中から細い腕が二本出ていた。祖母の腕ではなかった。子供の、細い腕だった。
結人は櫓の照明の線を見た。
影を消そうと思った。けれど暗くしていいのか、自信がなかった。輪の内側のものを見失えば、妹がどこにいるかも分からなくなる。結人は、体育館の灯りをつけて、と叫んだ。校庭の片側に、大きな窓が並んでいた。
母親が走った。
誰かが鍵を持って追った。長い時間に思えたが、実際には一分もなかったのだと思う。体育館の照明がつくと、窓から四角い光が校庭へ落ちた。踊りの輪の一部に、別の方向の影ができた。
輪の内側のものが、そこへ腕を伸ばした。
影が切れた場所をつなごうとしていた。結人は大声で佳乃を呼んだ。母親の隣にいる佳乃も、輪の中の佳乃も、同時に顔を上げた。結人はどちらへ言うのか決められず、両方へ叫んだ。
「手、下ろせ」
二人とも手を下ろした。
輪の中の佳乃だけ、背中の手が上がったままだった。祖母が後ろへ回り、その手を取った。結人は祖母を止めようとした。
祖母は、佳乃の背中の手を、左右へ大きく開いた。
布の裂ける音がした。
佳乃の黄色い浴衣が、背中から二つに開いた。中は黒かった。体がなかった。祖母の両手に、空の浴衣だけが残った。母親の隣の佳乃が、声を上げて泣いた。浴衣の背に、二本の長い裂け目ができていた。
踊っていた人たちが、一人ずつ座りこんだ。
全員が同時に止まったのではなかった。光に近い人から腰を落とし、次の人の腕を引き、輪が崩れていった。結人は祖母を見失わないようにした。祖母は空の浴衣を抱え、校庭の暗いほうへ歩いていた。
祖母の後ろに、頭のないものがついていた。
細長い腕を何本も伸ばし、浴衣を取り戻そうとしていた。祖母は振り返らなかった。結人は声を出そうとしたが、喉が動かなかった。祖母の白い帯の後ろにも、手が二つあった。手の甲をこちらへ向け、何度も何度も、追い払うように振っていた。
その晩の祭りは、そこで終わった。
気分の悪くなった人が何人もいて、校舎の廊下に寝かされた。結人も母親も、見たものを全部は説明できなかった。亡くなった人が来た、という話だけが、翌日には町じゅうへ広まった。
佳乃は、祖母に会ったことを覚えていた。
けれど、二人いたことは覚えていなかった。踊りの途中で、背中が痒くなった。掻こうとしたら、祖母が、そっちの手は使っちゃ駄目、と言った。それだけを繰り返した。
浴衣は母親が預かった。
縫い直せる裂け方ではなかった。背中の布が、ちょうど小さな手の形に二か所なくなっていた。母親が畳むあいだ、佳乃は見なかった。結人は横にいた。祖母の浴衣がしまってある箪笥へ、同じように入れた。
翌朝、結人は片づけのため校庭へ行った。
櫓の太鼓に、白い帯が掛かっていた。誰かが忘れ物として置いたのだろう。結人は帯に触らず、係のおじさんを呼びに行った。戻ると、帯はなかった。
太鼓の皮の内側に、両手の形が浮いていた。
手のひらをこちらへ向けた、しわの多い手だった。結人が前へ立つと、ゆっくり動いた。叩くなと言っているのか、もう一曲と言っているのか、結人には分からなかった。
おじさんが撥を拾った。
結人はその手を押さえた。太鼓を片づける台車が来るまで、押さえ続けた。皮の向こうの手は、最後まで、こちらへ手のひらを向けていた。


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