祖父の縁側に、赤い紐を結んだのは私だった。踏むと沈む板が一枚あり、そこへ足を出さないよう印を付けた。祖父は板を換えるつもりでいたが、親戚の集まる日までには間に合わなかった。
柱から柱へ、膝くらいの高さに渡した。紐は納戸で見つけた。古い風呂敷と一緒に箱へ入っていて、少し色が褪せていた。新品を探すほどのことでもない。私は結び目を締め、板へ体重をかけてみた。
祖父が庭から戻り、その紐を見た。
「何に使った」
転ばないようにしたと答えると、祖父は黙った。道具を取りに戻るのかと思ったが、庭の端へ立ち、家全体を見上げた。背の高い人なので、軒がずいぶん低く見えた。
私がその家へ通うのは、もう年に一、二度だった。働き始めてから休日が合わなくなった。集まりも面倒だったが、その年は祖父が一人で暮らすのをやめる話があり、私も荷物を整理しに来ていた。
祖父は私の世話になるつもりだと思われるのを嫌った。父と叔母が住む場所を相談していても、自分で決めると言った。私は口を出さない代わりに、古い家具を運んだ。手を動かしていれば、妙な相談に加わらずに済んだ。
集まりの前、叔母に言われて奥の小部屋を開けた。古い家の人たちへ挨拶するための場所だった。決まった日に、親戚だけで入る。私は子供のころからやっていたが、何のためかをきちんと聞いたことはなかった。
床の間には、文字の消えた掛軸があった。その前へ手をつくと、後ろから叔母が、ちゃんと言いなさい、と言った。私は適当な挨拶で済ませようとしたが、祖父の住み替えのことを思い出し、もう少しだけこの家にいてください、と付け加えた。
誰に向けて言ったかは、自分でも分からなかった。先祖なのか、家を守っている何かなのか。祖父が荷物を運び終えるまで、家を保たせてほしい。それだけのつもりだった。叔母は満足そうにうなずき、戸を閉めた。
昼前には親戚が集まった。土産の箱と上着で玄関がいっぱいになった。子供たちは縁側から庭へ出たがり、私は赤い紐を指して、そこは駄目と止めた。紐は結んだときより高く、子供の胸の位置にあった。
午後、最初に帰ろうとしたのは叔母夫婦だった。叔母は玄関で長く挨拶し、靴を履いた。それから忘れ物をしたと言って居間へ戻った。何を忘れたのか聞くと、何だろうね、と笑った。夫のほうも、一緒に靴を脱いでいた。
次に父が車へ荷物を運ぼうとした。玄関まで行ったのに、縁側から入ってきた。庭を回ったのかと聞くと、父は驚いた顔をした。車の扉を開けたつもりだったという。手には土産の箱を持ったままだった。
私は外へ出てみた。玄関の敷居を越え、踏み石へ足を置いた。次の瞬間、足の下が畳になった。靴で居間へ入ったと思い、慌てて足を上げた。祖父が私を見ていた。彼だけは驚いていなかった。
「紐をほどけ」
祖父は言った。私は縁側へ行った。結び目はほどける程度に締めたはずなのに、指が入らなかった。赤い繊維が湿っている。爪を入れると、奥の部屋で人が咳をした。
紐を引いた。庭の土が持ち上がった。私は軒が沈んだと思って上を見たが、柱と床の位置は変わらなかった。敷石や植木鉢だけが、縁側へ近づいた。紐を緩めると土も下がった。
祖父は私の肩を押した。
「力でやるな」
叔母がはさみを持ってきた。祖父はそれを受け取ったが、刃を紐へ当てなかった。片側の持ち手に古い毛糸を巻いた、祖母のはさみだった。祖父は毛糸を指で押さえ、台の上へ置いた。
親戚はまだ笑っていた。お茶を飲み直し、天気が変だとか、道路が混むとか話していた。帰れないことは分かっているはずなのに、誰も声を荒げない。父が私へ、座れ、と言った。帰り支度をした上着の袖が、畳の中へ伸びていた。
私は父の袖を引いた。布は畳の隙間から抜け、長い根が一本付いてきた。根は赤かった。紐と同じ色だった。父は袖を見て、汚したな、と言った。自分の腕がまだ袖の中にあるのか、確かめなかった。
私は祖父へ謝った。家の物を勝手に使ったことだった。祖父は、何を言った、と聞いた。板の印に使うと言っただけだと答えると、そうじゃない、と声が強くなった。奥で言ったことだ、と。
小部屋の挨拶を話した。祖父は長く黙り、それから、誰にも帰れと言えなくなった、と言った。私には意味が分からなかった。家にいてほしいと頼んだのは、今ここで茶を飲んでいる親戚ではない。
「それを、向こうが分けてくれると思うな」
祖父は縁側の先を指した。赤い紐の向こうに人がいた。庭に立っているのではない。地面の中へ肩まで入り、顔だけを縁側の高さへ向けていた。
親戚に似た顔がいくつもあった。生きている人も、死んだ人もいた。私が知らない顔が一番多かった。みんな口を閉じ、こちらが挨拶を終えるのを待っている。帰りたい人の顔ではなかった。
叔母が縁側へ来た。私たちの間から庭をのぞき、まあ、懐かしい、と言った。祖父が叔母を押し戻した。叔母は頬を膨らませた。その顔が、私の知る叔母よりずっと幼く見えた。
私は紐が入っていた箱を持ってきた。底へ赤い糸屑が溜まっていた。風呂敷を持ち上げると、小さな釘が何本も出た。どれも先が曲がっている。箱の裏側にまで釘の跡があったが、どこへ打って使ったものかは分からなかった。
祖父は箱を閉じた。昔は家の入口へ渡していたのだという。それ以上は話さなかった。何を入れ、何を出さないためかも。祖父自身、全部を知っているわけではなさそうだった。
親戚の挨拶が、順に繰り返され始めた。今日はどうも。遠いところを。今度はうちへ。誰かが一つ言うと、別の人が返した。会話になっているようで、誰も相手の顔を見ていなかった。声だけが居間を回っていた。
私は小部屋の戸を開けた。中は暗く、床の間の前に誰かが座っていた。祖父かと思って振り返ると、祖父は縁側にいた。部屋の人は膝へ手を置き、私の顔を見上げた。足が前ではなく、左右の壁へ伸びていた。
「もう帰ってください」
そう言うつもりで来たのに、声が出なかった。ここへいてと頼んだのは私だった。祖父を助けるつもりで、家にあるもの全部を押し付けた。それをまた、誰かの命令にして返そうとしていた。
私は手をついた。
「さっき頼んだこと、取り消します。荷物は自分たちで運びます」
部屋の人は動かなかった。よかった、と思いかけた。次の瞬間、壁へ伸びていた足が曲がり、膝が私の両肩へ触れた。
私は後ろへ下がった。掛軸の下から、赤い紐が一本ずつ出ていた。どれも家の外へ伸び、庭の土の下へ入っている。縁側の一本だけをほどけば済む話ではないと分かった。祖父が背後から、外へ来い、と言った。
縁側へ戻ると、地面が胸の高さにあった。植木鉢が浮いているのではなかった。鉢を置いた土も、敷石も、そのまま上がっている。家は沈んでいない。硝子戸の向こうへ、庭の表面だけが近づいていた。
祖父が赤い紐を持った。私が結んだ蝶結びの片方を、ゆっくり引いた。土がさらに上がり、窓を半分塞いだ。私ははさみへ手を伸ばした。祖父は首を振り、最後まで引き抜け、と言った。
ほどけた紐の先が私へ渡された。私は結び目から引き抜いた。終わる直前、庭にいた顔が一斉に上を向いた。自分たちの頭上にある家を、初めて見たようだった。縁側の板の下で、沢山の踵が床を蹴った。
私は尻餅をついた。赤い紐が手の中を走り、皮膚が擦れた。祖父が紐を踏み、私を引き起こした。その足の裏が、いつも履く草履の幅より広かった。爪先が床の向こうへ長く伸びていた。
家の中から親戚の声がした。誰かが時計を見て驚き、帰らなくちゃ、と立ち上がった。父が上着を着た。叔母は片づけを手伝うと言い、祖父に今日はいいと断られた。みんな普通の会話を始めた。
玄関の戸が開いた。何人かが靴を履いて外へ出た。私は縁側からそれを見ていた。庭の土はまだ高い。玄関から出た人たちは、私よりずっと低い所を歩いていた。同じ地面が、見る側によって違う高さにあるようだった。
祖父が、こっちから降りろ、と言った。縁側の端に、土の上がっていない狭い所があった。私は足を出したが、踏み石へ届かなかった。子供のころと同じに足をぶら下げ、情けなく祖父を見た。
祖父は私の脇の下へ手を入れた。持ち上げられる年ではない。私は体を固くした。けれど祖父は、そのまま私を外へ下ろした。腕がひどく長く伸び、足が地面へ着いてからも、彼の手は私の脇にあった。
目を上げると、祖父はいつもの縁側へ座っていた。家は高くなっていない。私も小さくなってはいない。祖父の手が離れると、赤い紐が私の肩から一本落ちた。私は踏まずに脇へ避けた。
その日、私は家へ泊まった。親戚が帰っても祖父だけにしておく気にはなれなかった。夕食に残った煮物を温めると、祖父は箸を持ち、しょっぱい、と言った。私は少し笑った。庭のことを聞くと、食べてから、と答えた。
食べ終えると、祖父は古い棚から服を出し始めた。明日はこれを持っていくと言った。どこへ、と私が聞くと、まずお前の車へ、と答えた。私たちは夜まで、残す服と持っていく服を分けた。
赤い紐は祖父が納戸へ戻した。箱を開けるところは見ていない。翌朝、縁側の傷んだ板に、裸足の跡が一つ残っていた。祖父の草履を横へ置くと、足跡の指だけがずいぶん長かった。私はそれを拭かず、荷物を車へ運んだ。
祖父は最後に家へ向かって何かを言った。私には聞こえなかった。車へ乗り込む彼を支えると、腕は普通の長さだった。ただ、私が先に手を離しても、脇の下にある指の感触は、家が見えなくなるまで残っていた。


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