母が寝るときに土をかぶるようになったのは、四月の初めだった。
父から電話が来たので、私は日曜に実家へ行った。園芸を仕事にしている人間なら何とかできると思ったらしい。私は鉢や庭木を扱うのであって、土をかぶって眠る人の世話をしているわけではない。父にもそう言った。父は、だから見てくれればいいんだ、と、昔からの言い方をした。
母は普通に出迎えた。家の前を掃き、私の車を停めるため植木鉢を寄せた。足取りは以前より軽く見えた。近所の喫茶店で昼を食べたときも、いつもの母だった。注文を迷い、私が選んだものを見て、そっちにすればよかったと言った。
父の電話のことを話すと、母は笑った。
「布団の上にね。直接じゃないよ」
それならいいという問題ではない。どのくらいと聞くと、薄く、と答えた。家へ帰って見せてもらうと、布団の上に防水シートを広げ、土を十センチほど盛っていた。園芸用の培養土ではなかった。黒く粘り、握ると水が染み出した。
母は、これを掛けるとよく眠れる、と言った。冬の間、膝が痛くて目を覚ますことが多かったのに、今は朝まで一度も起きない。父もそれは認めた。私がシートを持ち上げようとすると、母は慌てて端を押さえた。
「昼は日に当てるの。まだ干してないから、触らないで」
土の匂いはしなかった。
雨上がりの庭や、袋を開けた培養土の匂いなら慣れている。その土からは、暖房を長く使った部屋の、乾いた髪の毛のような匂いがした。布団の湿気が移ったのだろうと思いたかった。指先に付着した黒いものは、石鹸で洗ってもなかなか落ちなかった。
母が眠れるようになったのは、床下を直してからだという。二月に水道の管が漏れ、台所の床を一部開けた。父が工事を頼み、腐った木を替えてもらった。そのとき業者が、床の下に植物が生えていると言ったらしい。父は雑草なら取ってくれと答えたが、奥まで手が届かず、一部は残った。
私は床下の点検口を開けた。
暗い中に、薄い緑色の葉が見えた。光の届かない場所で育ったにしては色が濃かった。丸い葉が二枚ずつ、同じ高さで開いていた。茎はなく、土から直接出ているようだった。葉の縁に水滴がついていたが、床下は乾いていた。
父は長い棒を持ってきた。先に熊手がついていた。近いところだけ掻き出そうとしたのだという。熊手の歯が一本曲がっていた。
「石に当たったんだよ」
そう言って、私へ棒を渡した。
点検口へ顔を近づけると、暖かい空気が上がってきた。台所より、床の下のほうが暖かかった。葉の間に、薄桃色の丸いものがあった。初めは球根かと思った。懐中電灯を当てると透け、その内側で、細い脚のあるものが動いた。
石だった。
手前に落ちていた同じ形のものを、私は軍手で拾った。表面は硬く、土を払うと縞が見えた。どこかで磨いたらしい小石だった。内部に虫のようなものがいた。光を当てたときには右を向き、少ししてもう一度見ると、逆を向いていた。脚が何本あるのか分からない。節のところで別の脚が重なっていた。
「それ、庭にあったやつだ」
父が言った。母がどこかでもらい、植木鉢の縁に並べていた石だという。何年も前のことだった。私は母を呼んだ。母は石を見ると、まだ小さいね、と言った。
何が小さいのか、聞いても答えなかった。
私はその晩、実家に泊まった。母が眠るところを見て、翌日に病院へ相談するつもりだった。父は大袈裟だと言った。電話で私を呼んだくせに、母が機嫌よくしていると、すぐそう言う。私は腹が立ち、土の始末だけを頼みたいなら業者を呼んでと言った。父は黙ってテレビをつけた。
母は九時になると布団へ入った。
自分の体にシートを掛け、父を呼んだ。父がスコップで土を載せ始めたので、私は止めた。父は、急にやめると眠れなくなる、と言った。母も布団の中から、少しだけでいいの、と頼んだ。
私は二人を見た。電話では、母が勝手にしていることのように聞こえた。けれど、土を運んでいたのは父だった。寝ている母の体に合わせ、胸の上を低く、膝の上を厚く盛っていた。何度もしてきた手つきだった。
母は目を閉じた。土の下で、胸がゆっくり上下した。
夜中、私が目を覚ますと、廊下に土が落ちていた。
点検口から母の寝室まで、足跡のように続いていた。靴や裸足の跡ではなかった。細いものを何本も束ね、地面へ押しつけた跡だった。私は照明をつけ、寝室の戸を開けた。
母は眠っていた。
シートも土も掛かっていなかった。代わりに、布団の周囲の床板の隙間から、細い白い根が伸びていた。根は母の体へ這い、寝間着のボタンの間に入りこんでいた。母の首筋から、緑色の葉が二枚出ていた。点検口の下で見たものと同じ葉だった。
私は母の肩を揺すった。目を開けた母は、どうしたの、と聞いた。
葉が閉じた。母の首へ触れると、葉は皮膚の内側へ引っ込んだ。傷口はなかった。母は私の手を外し、寒いから戸を閉めてと言った。
父を起こした。
父は母の首を見て、もう出たか、と言った。驚いていなかった。私が叫ぶと、近所に聞こえると叱った。何で知っているのか聞いても、母が眠れるようになったんだからいいじゃないか、と同じことを繰り返した。
「お父さんにもあるの」
私は聞いた。
父は寝間着の襟をつかんだ。答える代わりにそうしたので、私は父の手を払い、肩を見た。鎖骨の下に、薄桃色の丸いものがあった。皮膚の奥で、脚のある黒いものがゆっくり動いていた。
私は二人を車へ乗せようとした。
父は拒み、母は朝になってからと言った。携帯で救急の相談をしたが、呼吸は普通で意識もあり、本人が外出を嫌がっていると説明すると、まず落ち着いて話をするよう言われた。私は、植物が生えている、と言えなかった。言えば電話の向こうで、私のことを心配されると思った。
朝まで起きていた。
夜が明けるころ、台所から甘い匂いがした。熟した果物の匂いではない。動物の腹の内側を日向へ出したらこんな匂いがするのではないか、と思う匂いだった。吐き気がして、私は窓を開けた。
庭に猫が三匹いた。うちで飼っている猫ではなかった。塀の上にも一匹いた。どれも台所の窓を見ていた。私が近づいても逃げず、ただ、揃って一歩下がった。床下から細いものが窓へ伸びたとたん、四匹ともいなくなった。
私は点検口を開けた。
床下の葉は増えていた。奥のほうは、土の表面が見えなかった。薄桃色の石がいくつも転がり、中の脚が、光を避けるように一斉に動いた。葉の下から、あの匂いが上がった。父が後ろへ来て、閉めなさい、と言った。
私は父を台所から出し、戸を閉めた。
外へ回り、庭へ置いてあった剪定鋏を持った。植物を切ればどうなるか、分からなかった。枯らせば二人が戻る、そんな保証もなかった。けれど、これ以上床下へ広がるのを見ていることはできなかった。
窓から腕を入れ、点検口の手前へ伸びた根を切った。
父が廊下で声を上げた。私の名前を呼んだのではなかった。痛いとも言わなかった。低く長い、動物の鳴き声のような声だった。私は鋏を離しかけた。
切った根の断面から、白い液が出た。台所の床へ落ちる前に、丸く固まった。小さな石になった。
これでは増えるだけだ、と分かった。
私は庭の隅から大きな鉢を運んだ。割れた鉢底を塞ぐため、厚い板を下に敷いた。点検口の中へ腕を伸ばし、手前の土を一塊だけすくった。根を切らず、土ごと持ち上げる。普段仕事でしていることを、今度はゆっくり繰り返した。
鉢へ移すと、葉がこちらを向いた。
日光のほうではなかった。私の顔へ向けて、二枚ずつ開いた。薄桃色の石が土の中で転がり、鉢の縁に当たった。私は鉢へ布を掛け、庭の端まで運んだ。家の中で、父の足音がした。母の足音も続いた。
二人とも庭へ出てきた。
私を見ず、鉢を見ていた。母は裸足だった。父は片足だけ靴を履いていた。二人が鉢の前へしゃがむと、台所の窓へ伸びていた根が、少しずつ下がった。床の隙間に残ったものも、同じように縮んでいった。
私は二人を起こし、家へ戻そうとした。
母が腕を振り払った。今まで見たことのない強さだった。父は鉢の布へ手を伸ばし、私が押さえると、どけ、と言った。二人ともひどく怒っていた。私は、土から離せば助けられると思っていた自分の考えが、間違っていたのだと知った。
鉢を庭へ移したことで、二人も外へ移しただけだった。
昼になっても、二人はそこにいた。
私は近所の人を呼んだ。事情は話せず、両親の様子がおかしいとだけ言った。隣の奥さんは庭へ来て、暖かいですねと母へ挨拶した。母は、そうねえ、と普通に答えた。父は鉢の周りの土をならし、雑草を抜いていた。誰の目にも、仲のいい夫婦の庭仕事だった。
奥さんが帰ると、母が私を呼んだ。
「あなたの分も、空けてあるよ」
鉢の横に、小さな穴が掘ってあった。足を入れるのにちょうどよさそうな、二つの穴だった。私は庭から出た。父は追いかけなかった。母も呼び止めなかった。
その日の夕方、実家の窓という窓に網を張ったのは父だ。虫除けの網ではなかった。細い根を這わせるための園芸用の網だった。私は門の外から見ていた。母が下を持ち、父が脚立へ上った。二人の息が合っていて、何十年も一緒に暮らした夫婦だと思った。
庭の鉢には、布が掛けられたままだった。
その下で、何かが鉢の縁へ脚を掛けた。布が持ち上がり、下がった。父も母も振り向かなかった。私は門の鍵を持っていたが、開けなかった。
翌週、父から写真が届いた。
母が庭に座り、膝に小さな鉢を載せていた。葉が二枚、指の間から出ていた。写真の端には、私が置いた大きな鉢があった。土だけで、何も生えていなかった。鉢の外へ、白い空の殻が一つ落ちていた。
私は写真を拡大しなかった。
父への返事も、まだしていない。家へ帰ってきなさいとは書かれていなかった。短く、今年はよく育つ、とだけあった。


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