茨城県常総市の鬼怒川沿いに、白い塔が立っている。
高さはおよそ四十八メートル。
田と畑の平らな土地に、そこだけ縦の線が伸びている。
鬼怒砂丘慰霊塔。

ビルマの仏塔を模した形で、遠目にも工場の煙突とも給水塔とも違う輪郭がすぐ分かる。
鬼怒川がこの辺りで運んだ砂が、堤の内に小さな砂丘を作っている。
塔はその砂の上に建った。
周りに高い建物はなく、田の緑と河畔林の暗さの中で、白がひとつだけ浮いている。
由来は調べればはっきり出てくる。
建てたのは稲葉茂という人だ。
昭和十八年、二十一歳でインパール作戦の要員として入隊し、第三十三師団、通称弓部隊の一員としてビルマの戦線へ送られた。
従軍した兵の大半が死んだ作戦から、生きて帰った。
地元の石下の町からこの作戦に送られたのは百三十五名。
帰国できたのは二十五名だったと記録にある。
百十名が帰らなかった。

稲葉さんは帰国後、毎年ビルマへ巡礼を続け、古戦場に慰霊碑を建てた。
戦友が恋しがったという味噌汁と日本茶と酒と煙草と牛肉を、戦後は一切口にしなかったと伝わる。
その供養の集大成として、平成元年にこの塔を建てた。
最上階から見下ろす鬼怒川を、戦地のイラワジ河に見立てたのだという。
毎年五月には慰霊祭が営まれ、ミャンマーの大使も列席する。
仏舎利も納められている。
ここは今も現役の供養の場だ。
その上で、噂も並べておく。全てネットで確認できる範囲のものになる。
夜、塔の前で泣きながら祈る老婆の霊を見た。
破れた戦闘服の若い男が塔の周りを歩いている。
包帯を全身に巻いた姿。腕のない姿。火の玉。
集団で佇む兵士たち。
鬼怒川の周辺を列になって徘徊する影。
背後からついてくる気配。写真に写る白い影。
戦地に関わる場所の噂は型が似る。
似た型が集まること自体は珍しくない。
一つだけ引っかかった噂がある。列だ。
単体の目撃談に混ざって、列で歩くという証言が繰り返し出てくる。
ひとりの霊なら見間違いで片づく。
列は、見間違いの形として不自然だ。
列の証言には共通点がある。
夜であること。場所が堤防の上であること。向きが上流であること。
別々の投稿者が、揃って同じ向きを書いている。
友人Tの話をしておく。
Tとは猟友会で一緒だった。
私が罠をやめた年に向こうも銃を返した、そのくらいの付き合いだ。
慰霊塔の名前を出すと、Tは湯呑みを置いた。
「行列に会ったら、端に寄れ」
二十歳の頃だという。
仲間の車で夜の河川敷へ行った。
目当ては塔ではなく、買い置きの花火を使い切るだけの、行き先のない夜だった。
車を堤防下の空き地に入れ、袋を提げて土手を上がる。
そこで全員の足が止まったという。
堤防の上に、列。

街灯はない。
月明かりを背にして、人の形が上流へ向かって一列に歩いていた。
十人ではきかない長さだった。
手ぶらに見える者、肩に何か担いだ者。
間隔が全員等しかった。
足音がなかった。
砂利の堤防で、あれだけの人数の音がしない。
仲間がヘッドライトを点けた。
光の中には刈られた草の堤防だけがあった。
消すと、列はまだ歩いている。

光の中にだけ、いない。
花火の袋は誰も開けなかった。
車に戻る短い距離を、四人とも走ったそうだ。
閉めたドアの内側で、火薬とは別の、線香に似た匂いがしばらく残っていたという。
車で逃げたそうだ。
Tだけが最後に振り返った。
列の先頭が堤防を降り、塔の方へ折れるのが見えたという。
「行進なんだよ、あれは。散歩の速さじゃなかった」
Tはそれから毎年五月、慰霊祭のあとの静かな日を選んで手を合わせに行っている。
列の話は誰にもしない。
私に話したのは、行くと言ったからだ。
端に寄れ、の意味を聞いた。
「猟と同じだ。獣道を塞ぐな。通り道に立つな。それだけだよ」
罠をやっていた人間には通じる言い方だ。
獣道は獣の生活の線で、そこを踏み荒らせば山の全部に伝わる。
人の都合で線を塞いだ罠は、掛からないだけでは済まず、山の警戒を上げる。
通り道への敬意は、あの世界では技術のうちだった。
七月半ばの平日に出た。

千葉の自宅から下道で二時間半。
利根川を渡り、坂東の畑の中を北へ抜ける。
道は果てまで平らで、空が広い。
刈り入れ前の畑の色と水田の緑が交互に流れ、風は乾いた土の匂いをしていた。
鬼怒川の堤防が右手に寄り添い始めると、常総は近い。
水田の先にあの白い縦線が見えた。
案内標識より先に、塔が自分で場所を教えてくる。
塔への進入路は細い。
竹の枝が両側から張り出し、カブのミラーを何度か叩いた。
四輪ならボディを擦る幅だ。
二、三百メートルで開けた駐車場に出る。
先客はいない。
周りは畑と河畔林で、民家は視界にない。
駐車場の端に看板が立っていた。
狩猟に関する注意書きで、文言の締めにこうある。
あなたを見ています。
密猟や違反を牽制する定型の文句だ。
罠をやっていた頃、似た看板は何度も見た。
知識として知っている文言が、この場所ではこちらへ向けて読めた。
誰が、誰を、とは書かれていない。
参道の木々の間に、蜘蛛の巣が幾つも張っていた。
夏の、人の少ない道の普通の顔だ。
枝を一本拾い、顔の高さのものだけ払いながら塔まで歩いた。

巣は一晩あれば張り直される。
だから朝の巣は、夜のあいだ誰も通らなかった印になる。
見回りの頃に覚えた読み方だ。
夕方のこの数なら、今日この道を歩いた人間は、ほぼいない。
塔は近づくほど白い。
正面に石碑が並ぶ。
亡くなった方々の名前と階級が刻まれ、三つの段に分かれて祀られている。
名前は上の段から順に読んだ。
読み終えるのに思ったより時間がかかった。
百十という数字が、彫られた行の長さになって目の前に並んでいる。

同じ姓が続く箇所が幾つもあった。
兄弟か、親子か、同じ集落か。
二十歳前後と察しのつく行が多い。
Tが河川敷で列を見た歳と、同じだ。
賽銭を納めて手を合わせた。
撮影は外観だけにすると決め、カメラは石碑に向けなかった。
階段を上がる。
途中の階に鐘が吊られている。
柵が回してあり、撞けないようになっていた。
悪ふざけを防ぐためだろう。
柵の錆は薄く、手入れの跡がある。
最上階には祭壇と仏像が安置されている。
ミャンマーから贈られた仏舎利がここに納められていると調べてあった。
線香の灰が新しい。
今も誰かが上がってきている場所だ。
窓から鬼怒川が見えた。
夕方の水面が鈍く光り、対岸の河畔林が黒い帯になっている。
稲葉さんはこの眺めをイラワジ河に見立てた。
戦友たちが最後に見た川を、故郷の川で写し取った。
その川面を見ている時だ。
階段の下から足音が上がってきた。
複数だ。
硬い床を踏む音が、規則正しく重なって近づいてくる。
参拝の人が来たのだと思い、祭壇の前を空けて壁際へ寄った。
音は最後の踊り場まで来て、止んだ。

誰も上がってこない。
覗き込むと、階段は下まで空だった。
手すりの向こうに人の頭はひとつもない。
耳に残った音の数を思い返す。
二人や三人の音ではなかった。
線香の灰には触れなかった。
窓の外はもう畑の灯りがまばらに点き始めている。
塔の中の空気は動かないまま、下の階の暗さだけが一段濃くなっていた。
端に寄れ。
Tの言葉が別の意味で立ち上がる。
道を空けるために壁際へ寄ったのは、ついさっきだ。
寄った後で、音は止んでいる。
祭壇へもう一度手を合わせ、階段を降りた。
降りていく自分の足音が、上がってきたあの音より軽い。
外に出ると日が落ちかけていた。
参道の蜘蛛の巣が、一本も残っていない。
行きに払ったのは顔の高さの数本だけだ。
低い位置のものも、脇の茂みに張っていたものも、帰りには消えていた。
糸の切れ端だけが枝先で揺れている。
私より後にこの道を通った者はいないはずだった。
幅のあるものがまとめて通れば、ああなる。
駐車場でカブに跨り、竹の進入路を抜けて堤防沿いの道に出た。
堤防の上に、列がいた。

夕闇の中、人影が上流へ向かって一列に歩いている。
十人ではきかない。間隔が等しい。
エンジン音の中にいても分かるほど、足音の気配がない。
Tの話の通り、道の端へカブを寄せて停めた。
ヘッドライトは消す。
ヘルメットを取り、頭を下げた。
顔は上げなかったので、列がどこで堤防を降りたのかは見ていない。
風が一度、川の方から土の匂いを運んできた。
それきり気配は薄れていった。
顔を上げると堤防は空だ。
常総の夜道は灯りが少ない。
国道に出るまでの畑の区間、ミラーを見る回数を意識して減らした。
コンビニの灯りが何度か流れたが、停まらなかった。
荷を降ろすまで、どこにも寄らない方がいい。
そんな感覚だけがあった。
家までの二時間半、休憩は一度も取らなかった。
庭にカブを入れ、居間の灯りを点けて、ようやく肩が下りる。
素材の確認は翌日に回した。
外観のカットに異常はない。
白い影も写り込みもない。
録音機だけが違った。
最上階で回しっぱなしにしていたファイルに、鐘の音が入っている。

低い一打。余韻が長い。
時刻は、私が川面を見ていた頃と重なる。
あの鐘には柵が回してあり、撞木には触れられない。
現地で鐘の音は聞いていない。
録音の中にだけ、ある。
波形で見ると、一打の立ち上がりは機械の雑音の形と違う。
長い減衰の尾を引いて、静かに消えている。
続く複数の足音は、数を取ろうとして波形を拡大しかけ、やめた。
数えるのは、通り道に立つのと同じ側の行為に思えた。
一打きりで、その後には私の足音と、階段を上がってくるあの複数の音が続いている。
ここから先は私の憶測になる。
百十名は帰らなかった。
塔は、帰れなかった側のために建っている。
堤防の列が向かっていたのは上流で、先頭が折れた先には塔がある。
あの川がイラワジに見立てられているのなら、列にとって塔のある岸は、こちら側ではないのかもしれない。
渡り終えた者たちが、五月の一日だけではなく、日々あの堤防を歩いて塔へ帰っている。
そう考えると、足音のなさも、列の律儀な間隔も、座りが良くなる。
稲葉さんは平成二十五年に亡くなった。
塔を建てた人がいなくなっても、五月の慰霊祭は続き、線香の灰は新しいままだ。
迎える側が絶えていないから、帰る列も絶えない。
順序はそういうことなのだと思う。
行進は続いている。
道を塞がない限り、こちらに用はないのだと思う。
録音の鐘は消していない。
あれは多分、参拝の返事だ。


