見学の人は、私より早く会社へ来ていた。
門の前に学生服の少年が立っていた。学校の先生も保護者もいない。私が社員証を出すと、少年は会釈をした。背は私の肩くらいまでで、中学生にも、顔つきの幼い高校生にも見えた。
「約束、してますか」
「はい。今日でいいそうです」
少年はそう答えた。
町外れで建築模型を作る会社だった。展示用の街並みや、住宅の販売所へ置く模型が主な仕事で、観光客が来るような工場ではない。私は入社して半年だった。前の仕事を辞め、手を動かす仕事に就きたくて転職したが、思っていたほど向いていなかった。まっすぐな線を切ることすら、先輩に直してもらっていた。
工場長に少年のことを伝えると、事務へ問い合わせてくれた。
「昨日、電話があったらしい。学校の名前、聞きそびれたって」
工場長は納品の準備で忙しかった。機械の近くへ寄せず、入口側だけ見せるように、と私へ頼んだ。新人には見学案内も仕事のうちなのだろう。私は少年に上履きを渡し、名前を訊いた。
「野瀬です」
上履きを床へ置くと、少年はしばらく見ていた。
「履き替えるんだよ」
言うと、靴を脱いだ。片方だけ脱いで、私の足を見た。それからもう片方を脱いだ。
見せるのは、ほとんど完成した模型を並べている部屋だった。学校、駅、団地。窓の大きさに合わせて顔を近づけると、中に置いた小さな机まで見える。少年は驚かなかった。団地の前で立ち止まり、駐車場に植えた木を見ていた。
「誰が、終わったって決めるんですか」
「注文した人と、工場長かな」
「中の人は」
模型に人は置いていなかった。私は、あとで人形を置くこともある、と説明した。
隣の作業台で、古参の角田さんが窓枠を揃えていた。私が紹介すると、少年は深く頭を下げた。
「長い間、お疲れさまでした」
角田さんは手を止めた。
「まだ辞めないよ」
少年は顔を上げ、相手の表情を眺めた。角田さんが笑うと、少し遅れて同じくらい口を開けた。私も笑った。引退する人への挨拶と間違えたのだろうと思った。
廊下を歩くと、少年は私の斜め後ろについて来た。曲がり角で私が道を譲ると、同じように端へ寄った。二人で止まってしまい、先にどうぞ、と言うと、彼は一歩だけ進んだ。
「初めての見学?」
「外は、初めてです」
「工場の中って意味かな」
少年は答えず、壁に掛かった上着へ目を向けた。寒かったのかもしれない。空調は強くなかったが、廊下の端で冷たい空気が足に当たっていた。
模型を見せるより、人が作業するところを見せたほうが興味を持つと思った。私は安全な距離から、植え込みを作る作業台を見せた。若い社員がピンセットを持ち、緑の細かい材料を置いていた。
少年の右手が動いた。何も持っていない指で、同じ動きをなぞっていた。
「細かいね」
私が言うと、彼は、細かいですね、と返した。声が少し低くなった。さっきの角田さんの声に似ていた。
休憩室で水を出した。少年は紙コップを持ち上げたが、飲まなかった。私が自分の水を飲むと、同じように傾けた。喉は動かなかった。水が唇から顎へ流れた。
私はティッシュを渡した。彼は紙を持ち、私の顔を見た。
「口、拭いて」
彼は顎へ紙を当てた。白い紙に、水の跡がついた。その真ん中に、黒い点がいくつも滲んでいた。模型に使う細かい土の材料に似ていたが、少年は何も触っていないはずだった。
何か事情のある子なのかもしれない。私はそれを本人の前で勝手に決めたくなかった。困っていることがあるか訊いた。少年は、まだよく分からない、と答えた。
「帰りは誰か来るの?」
「一人で帰ります」
「家、遠い?」
「帰ってから、分かると思います」
言い間違いだと思おうとした。彼は言葉を選んでいるようでも、ふざけているようでもなかった。
工場長へ、学校か連絡先を確認したいと伝えに行った。少年は休憩室で待たせた。事務に残っていた電話のメモには、氏名も学校名もなかった。「見学、一名」とだけ書いてあった。誰が書いたのか、事務の二人とも覚えていなかった。
「電話は、受けた気がするんだけど」
一人が言った。
工場長は少年に来てもらおうと席を立った。私は先に休憩室へ戻った。
少年は窓に向かって立っていた。額をガラスへ寄せ、駐車場を見下ろしていた。彼の右手が、窓枠に沿ってゆっくり動いていた。曲がるはずのないところで、人差し指が曲がった。関節と関節の間に、細い折れ目ができた。
私は声を出せなかった。
少年は振り返り、私と同じように口を少し開けた。さっき私がしていた顔だった。
工場長が来ると、少年は普通に挨拶をした。学校の名を訊かれ、もう卒業したと答えた。年齢を訊かれ、工場長の顔を眺めた。
「そちらは、いつまでですか」
工場長は笑わなかった。少し困ったように、見学は今日はここまでにしよう、と言った。少年は礼を言った。私が上履きを出した時とは違って、自分で靴を履き替えられた。
ただ、しゃがむ時の息の吐き方が、角田さんとそっくりだった。
門まで送った。少年は外へ出るところで止まった。工場の敷地と歩道の間には、小さな段差があった。
私は横から先に一歩降りた。少年は足元を見て、同じように降りた。
「もう分かる?」
彼は頷いた。何が分かるのか、私自身にも曖昧な訊き方だった。
帰る方向が決まらないらしく、少年は左右を見ていた。駅ならこちらだと伝えると、一緒に歩いてもらえますか、と頼まれた。工場長へ断り、駅までの十分ほどを歩くことにした。道端に犬を連れた女がいた。少年は犬を見て、私の顔を見た。私は何も言わなかった。どういう反応を見せるべきなのか、分からなくなっていた。
信号で止まると、彼は私の足を見た。青になり、私は歩き出した。少年もついて来た。渡り終えたところで、後ろから車の警笛が鳴った。少年が肩をすくめ、首を前へ出した。
その動きは、私のものではなかった。道路の反対側で、犬を連れた女がしていた動きだった。
彼は私だけを見ていたわけではなかった。
駅前に着くと、少年は人の流れへ顔を向けた。学生、会社員、買い物の袋を持つ老人。その誰かの動きが、一つずつ彼の体へ混ざった。顎を掻き、鞄を持っていないのに肩を上げ、片足へ体重を預けた。
私は、駅まで連れて来てよかったのか分からなくなった。
「切符、買える?」
少年は返事をしなかった。駅の入口に立つ人を見ていた。灰色の上着を着た男が、ベンチの前で膝へ両手をつき、息を整えていた。
少年も膝へ手をついた。次に、ゆっくり片膝を地面へ下ろした。私は肩へ触れた。肩の形はあった。服の下で何かが逃げるように動いた。
少年は私の手を見て、初めて不快そうな顔をした。口の端が上がったまま、目だけがこちらを向いた。
「まだ、見てます」
私は手を離した。
灰色の上着の男が座り込んだ。駅員が走ってきた。私はそちらへ向かいかけ、少年を振り返った。彼はもう立っていた。掌を胸へ当て、何かを確かめるようにゆっくり指を動かしていた。
「やめて」
私は言った。
彼はすぐに手を下ろした。それから、駅員の真剣な顔を真似た。人を心配する時の、眉の寄せ方だった。
私は駅員へ男の様子を伝えた。救急の手配が始まった。少年のことも気になったが、困っている人を前にして、あの子は何かがおかしいと言うことができなかった。人垣の向こうへ戻ると、少年はもういなかった。どちらへ歩いたか、誰も見ていなかった。
会社へ帰り、工場長へ話した。少年が身元を話さずに立ち去ったこと、駅で人が倒れたこと。指の折れ目や、触れた肩のことは、話の途中で喉につかえた。
角田さんは黙って聞いていた。
「あの子、何て言ったっけ」
私が訊くと、彼は顔を上げた。
「長い間、お疲れさまでした、だよ」
角田さんは自分の作業台へ戻った。椅子へ座る前に、私のほうを見た。
「外まで、教えたのか」
私はその言い方が怖かった。角田さんに何を知っているのか訊いても、何も、としか答えなかった。工場長は翌日、事務に身元不明の見学を受けないよう伝えた。私が案内をしたのは、それが最後になった。
今も駅で、学生服の後ろ姿を見ると足が止まる。
一度だけ、同じ少年を見たことがある。改札の前で、泣いている幼い子のそばに立っていた。少年は膝を折り、子供と顔の高さを揃えた。優しい声をかけているように見えた。
だが、泣いているのは少年のほうだった。
子供は、泣き方を忘れたような顔で、その涙を見ていた。


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