弟から、階段の滑り止めを買ってきてくれと頼まれた。幅は何センチだと聞くと、いつもの寸法でいいと言う。私はそのいつもの寸法を知らなかった。母が倒れて旅館へ戻ってから二週間、弟は何でも私が覚えているつもりで話した。
旅館といっても、二階建ての小さな建物だった。海水浴の家族客を相手にしていたころのまま、看板だけがホテルになっている。弟は一人で三年続けていた。私は町で事務の仕事をしており、夏のあいだだけ手伝う約束で戻った。
階段は玄関の奥にある。途中で一度折れ、踊り場に小さな窓が付いていた。窓の外は隣家の裏壁で、景色を楽しむものではない。昔、私はそこに雑誌を隠していた。母に見つかり、湿気で駄目になるでしょうと叱られた場所だった。
滑り止めは十四本で足りるはずだった。古い帯を剥がして貼り直すだけなのに、最後に一本余った。数を間違えたのかと思って下から見直したが、段は十三しかなかった。上り下りしているうち、弟が、飯の用意を、と呼んだ。
その夜の客は五人だった。港の工事へ来ている男三人と、釣り客の二人連れ。泊まるのはもう四日目で、靴の並べ方まで見慣れていた。私は食堂へ煮魚を運んだ。釣り客の一人が、今日はよく引くな、と窓の外へ言った。
潮のことだった。海までは道を渡って百メートルほどある。食堂からは堤防しか見えないが、潮が下がると海藻の匂いが強くなった。その晩は、腐った木を割ったような匂いも混じっていた。
工事の人が箸を持ったまま、弟を呼んだ。
「まだ、降りられない?」
玄関は開いているし、車を動かす用事もなさそうだった。弟は聞き返した。男は少しきょとんとして、いや、風呂、と言い直した。ほかの二人は笑わなかった。
食事のあと階段へ行くと、段が十六あった。余った一本を貼ったところで二本足りない。自分の数え方がおかしくなった気がして、弟を呼んだ。弟は下から上へ目を動かし、黙って踊り場へ上がった。
「窓の向こう、見ないほうがいい」
彼はそれだけ言った。私が隣の壁なら知っていると答えると、知ってるのと違う、と返した。昔から怖がらせるのがうまい弟だった。私は下に立ったまま、笑うつもりで口を開いた。
踊り場で、誰かが手を振った。弟の後ろ、窓の向こうだった。隣の壁まで二十センチもない。そこへ肩から上を押し込んだ女が、両手を広げていた。弟は気づかず、こちらへ下りてきた。
外へ回って確かめると、壁は普段のままだった。細い隙間に落ち葉と空き缶が挟まっている。人どころか猫も通れそうにない。私が戻ると、弟は二階へ続く廊下の戸を開け、客を全員呼んでいた。
「すみません。下で少しお待ちいただけますか」
工事の人たちは素直に出てきた。ところが釣り客は、一人が寝ているからと動かなかった。私は部屋へ入り、布団の上の男へ声をかけた。目は開いていた。天井を見ながら、小さく顎を揺らしていた。
肩に触れると、その男の体が横へ傾いた。畳も布団も動いていないのに、男だけが何かに揺すられている。私は背中を支えた。服の下で、水の入った袋を持つような重さが移った。
連れの男が笑った。
「船、苦手なんだよ」
釣り船は翌朝の予定だった。私は、ここは旅館ですよ、と言った。男は私を見て、それは分かってる、と答えた。答えた口元から、乾いた砂がこぼれた。
弟が二人の荷物を持った。先に階段へ出ようとすると、肩の鞄が柱へ引っかかった。来た時の釣り道具の袋ではなかった。太い縄で縛った包みが、弟の肩から下がっていた。本人も気づき、手を離しかけた。
「落とすな」
寝ていた男が起き上がった。初めて聞く声だった。弟は包みを両手で抱えた。畳に垂れた縄の先が、部屋の外へゆっくり這っていった。私たちはその後を追うように、二人を部屋から出した。
廊下から玄関は見えた。けれど階段が長かった。壁の途中に踊り場の窓が三つ並び、どの窓からも違う明るさが漏れていた。弟は包みを抱えたまま、姉ちゃん、下にいて、と言った。
私は先に下りた。手すりを離すと膝が震えた。木の踏み板が湿り、貼ったばかりの帯の端が浮いていた。下りても下りても、二階の廊下は頭のすぐ上にあった。玄関にいた三人が、こちらを見上げていた。
長靴を履いた男が手を伸ばした。工事の人だった。私はその手をつかみ、最後の一段を下りた。そのとき初めて、玄関に潮風が入っていることに気づいた。硝子戸の向こうに、堤防ではなく真っ暗な海があった。
玄関の敷石が、水に浮いていた。左右には舗道がなく、下へ目を向けると、木の板が斜めに差し込まれている。波が引くたび、板の先が濡れた砂へ届きかけた。工事の男は、もう少しだ、と言った。
私は外の助けを呼ぼうと携帯を出した。電波は入った。近所の食料品店へかけると、女将さんが出た。玄関へ来てもらいたいと頼んだが、今、前にいるよ、と言われた。電話の向こうで風の音がしていた。
女将さんは、雨戸が閉まっているから声をかけたのだという。うちの玄関に雨戸はない。硝子越しに見えるのは海だけだった。女将さんが戸を叩く音は、電話から聞こえた。こちらの玄関では何も鳴らなかった。
弟が釣り客二人を連れて下りてきた。あの包みはもう客が持っていた。縄の結び目に爪が食い込み、指先が白くなっている。五人とも、敷石の端へ並んだ。靴を履いている者と、裸足の者がいた。
「外は海だよ」
私が止めると、弟は見えてる、と答えた。私の手を握ったが、指がぬるぬるしていた。汗ではない。階段の手すりに、魚の鱗がびっしり貼り付いていたという。弟の指の間から、一枚ずつ落ちた。
ふと、泊まっている人の顔が分からなくなった。工事の人の一人には顎に髭があったはずだ。その顎がつるりとしていた。釣り客の背の低いほうは、私より若く見えた。みんな、四日前より遠くから来た人の顔になっていた。
一番若い男が私へ頭を下げた。
「よく、泊めてくれました」
そう言われて、私は料金のことを思い出した。まだ精算していない。こんなときでも商売が先に来るのかと、自分が嫌になった。ところが弟も同じことを言った。お支払いは後で、と。
男は小さな袋を出した。弟は受け取らなかった。袋の中で硬いものが擦れた。硬貨の音にも、歯を鳴らす音にも聞こえた。男は困ったように私を見た。私は、荷物と一緒に持っていてください、と言った。
奥から水が来た。階段を流れ落ちるのではない。踏み板と踏み板の隙間から、水平に溢れていた。窓の向こうで女たちが叫び、いくつもの荷物が壁を叩いた。入口のない部屋が、階段の両側に並んでいるようだった。
弟は板の端を敷石へ引っかけた。玄関の外へ下りる渡し板だった。どこから来たかは分からない。指で押さえると、板の下から何本も手が伸びた。上の客を引くのではなく、板が外れないよう裏側を支えていた。
釣り客が一歩を出した。私も背中を支えようと近づいたが、肩へ手が届く前に、その人はずっと下へ行った。板の上を歩いているのに、体の半分が夜の中へ沈んだ。足の動きだけは最後まで、普通の人のものだった。
五人が下りると、階段からも足音が来た。二階へ客を残してはいなかった。それなのに、濡れた寝巻きの男が横を通り、私の腕へ肘を当てた。後ろから小さな女が来た。下駄を手に持ち、素足で板へ乗った。
弟は板を押さえていた。手首のところまで、何かの手に包まれていた。私はその背に回り、腰の帯をつかんだ。弟が引き込まれないよう踏ん張ると、背後で客用のスリッパが何足もぶつかった。
顔は見なかった。肩や腰が通るたび、今出た人がまた来た気がした。生臭い服の人も、石鹸の匂いの人もいた。私の首に幼い腕が掛かったときは、思わず抱き上げそうになった。腕は途中でほどけ、誰かの背へ移った。
潮が引き切ったのだろう。渡し板の先で、砂を踏む音がした。弟の手を包んでいた指が少しずつ離れた。私たちは板を戻した。最後の足音が遠ざかると、二階で、窓を閉める小さな音が続いた。
玄関の戸を閉めようとしても、海が挟まって閉まらなかった。ほんの数センチの隙間に黒い水が立っていた。弟はもう力が入らず、その場へ座り込んだ。私は戸の取っ手を持ち、向こうから誰かが叩くのを待った。
女将さんは電話を切らずにいた。こちらが何を言っても返事が来ないので、弟の名前を呼び続けたという。私の携帯は床へ落ちていた。拾い上げると、今、開けるよ、と言われた。
硝子戸の外で拳の音がした。今度はこちらにも聞こえた。女将さんがもう一度叩き、弟が這って戸へ手を掛けた。私たちが引くと、黒い水が薄くなった。隙間の向こうに、自転車の買物籠が見えた。
女将さんは、どこにいたの、と怒った。目の前の硝子戸を、さっきから何度も叩いていたのだという。弟は返事をせず、戸の下のレールを触っていた。そこに細かな砂が詰まっていた。私は女将さんの腕を借り、道路へ出た。
泊まり客の五人は、近くのバス停にいた。誰も海を歩いたとは言わなかった。部屋で揺れを感じて外へ出た。それぞれに、そう覚えていた。釣り客の手には、いつもの道具袋があった。縄で縛った包みを持つ人はいなかった。
旅館はその夜から休んだ。翌朝、階段へ上がると、滑り止めは十四本とも貼ってあった。踊り場の窓の外には隣の壁がある。弟が窓を少し開けた。壁との隙間に、大小の濡れた足跡が、地面へ続かず横一列に残っていた。
私は約束していた夏の終わりを過ぎても、弟を置いて帰れなかった。再開の話はしていない。工事の客が忘れていった充電器を取りに来た日、弟は玄関の外で渡した。男は礼を言い、ふと旅館の屋根を見上げた。
「大きな船でしたね」
すぐに言い直したが、弟は聞き返さなかった。


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