窯を開ける朝、父は僕を家の外へ出した。
散歩でもしてこい、と言った。普段なら、手伝えと言う。焼き上がった器を一つずつ運び、底の砂を落として棚へ並べる。子供の頃から僕の仕事だった。父の腰が悪くなってからは、僕が窯の前に座り、父が器を受け取るようになっていた。
だから、その朝だけ追い出された理由が分からなかった。二十三歳の春だった。勤めていた会社を辞め、実家へ戻ったばかりだった。陶器を作って暮らすつもりはなかったが、次の仕事が決まるまで父を手伝う約束をしていた。
父は僕を弟子として扱わなかった。失敗した器を直せとも言わず、焼けたものの値段も教えなかった。手伝った日の夕方にだけ、千円札を二枚、作業台へ置いた。家に置いてもらっているのだから要らないと言うと、それとこれは別だ、と返された。
金を受け取るたび、次の仕事を早く探さなければと思った。その一方で、父と同じ時間に起き、同じものを運ぶ暮らしは、会社へ通っていた頃よりずっと楽だった。窯を開ける朝には、僕のほうが先に工房の鍵を開けることもあった。
「人が来るんだ」
父はそれ以上言わなかった。
僕は煙草を買うふりをして坂を下り、裏の畑を回って工房へ戻った。裏口の前に、草履が三足あった。どれも泥が付いていなかった。雨上がりで、畑も庭もぬかるんでいた。舗装された道から来るにも、最後は泥の上を通るはずだった。
僕は窓の隙間から中を見た。父の前に、男が三人座っていた。古い背広の男、作業着の男、白いシャツの若い男。歳も格好も違った。父は窯から出した器を、それぞれの前へ置いていた。湯呑みより深い、小さな壺だった。作業着の男が壺を持ち上げ、口を下へ向けた。
中から、虫が出た。白く、長い虫だった。脚が何十本もあり、先端に小さな黒い玉が付いていた。男の掌へ乗ると、ぐるりと丸くなった。男は嬉しそうに頷いた。白いシャツの男の壺からは、魚が出た。水はなかった。乾いた机の上で尾を振り、身体を起こしていた。小さな鰭で立ち、男の袖へ入った。
背広の男だけが、壺を開けなかった。父を見て、首を振った。
「これは違う」
声が高かった。父は壺へ手を置いた。
「これ以上は、作れん」
背広の男が、父の手首を掴んだ。父の影が動いた。壁に映った頭が細く伸び、耳が尖った。背中から長い尾が出た。犬にも見えたが、僕は狐だと思った。
子供の頃、父の影を一度だけ見ていたからだ。五歳の夏、道に迷って泣いていた僕の前に、知らない若い男が座った。家を聞かれ、父の名前を言うと、男は僕の手を引いて工房まで連れてきた。父は男を家へ入れず、僕だけを後ろへ隠した。
夕陽が二人の影を道へ伸ばしていた。父の影には尾があり、若い男の影には頭がなかった。その時は、夕陽のせいだと母に言われた。父を問い詰めたことはなかった。父は普通にご飯を食べ、風呂に入り、僕の運動会で大声を出す人だった。影が一度変に見えたくらいで、その人全部を疑うことはできなかった。
工房の中で、父が顔を上げた。僕と目が合った。背広の男も窓を見た。父が立ち上がった。男の手を掴んだまま、窓の前へ来た。
「帰れと言っただろ」
僕へ言った。怒鳴らなかった。声を抑えた分だけ、普段より怖かった。
僕は家へ戻った。母は台所で菜っ葉を洗っていた。工房で見たことを話すと、手を止めた。
「見ちゃったの」
その答えで、母は知っていたのだと分かった。僕は、父は何なのか、と聞いた。母は水を止めた。
「あんたのお父さん」
「そうじゃなくて」
「それは、そうなの」
母は濡れた手を拭いた。
夫を庇うための言葉ではなかった。母自身が何度も考え、その答えしか残らなかったように聞こえた。両親が結婚した頃、父の器は売れなかった。生活が苦しくなった時、父は川で拾った丸い石を焼いた。土に混ぜたのではなく、そのまま小さな壺へ入れて窯へ入れた。
焼き上がった壺の中で、石が動いた。割ると、虫が出た。父はそれを庭へ放した。
翌日、工房に客が来た。父の器を買い、注文を残し、代金を前払いした。母は、その頃から暮らしが楽になったと言った。
「お父さんが変わったのは、いつ?」
僕が聞くと、母は首を横に振った。
「最初から、知ってる人だったみたい」
誰と、と聞く前に、工房の戸が開いた。
父が戻ってきた。左手に、白い布を巻いていた。血は付いていなかった。布の下で、指の形が時々変わった。父は僕の前へ座った。
「ここを継がなくていい」
言われなくても、そのつもりだった。だが、その朝までの僕は、父の仕事から逃げたことを責められると思っていた。そう言われると、かえって離れられなくなった。
「何を作ってるの」
父は自分の左手を見た。
「入れ物」
「器だろ」
父は頷いた。
「向こうで、身体を使い切ったものが来る。しばらく入れるものを欲しがる」
僕は工房の壺を思い出した。白い虫も、魚も、あれから何かになるのだろうか。父は説明しなかった。
「さっきの人は?」
「人の形を欲しがってる」
母が顔を背けた。僕は父を見た。
「作れるの」
父は答えなかった。その沈黙が、一番嫌だった。
夕方、工房へ行った。窯の前に、壊れた器が並べてあった。焼きが歪んだもの、底が割れたもの。いつもなら庭の隅へ捨てる品だった。その中に、人の耳があった。土で作って焼いたものだった。薄い茶色で、耳の穴が深く開いていた。僕が近づくと、耳が少し動いた。
父の左耳も、同じ時に動いた。僕は触らなかった。
「これ、父さんの?」
父は頷いた。
「昔、作った」
壁の影には、長い耳があった。僕は初めて、父がどちらの形を隠しているのか分からなくなった。人間が狐の影を持っているのか。狐が人間の耳を付けているのか。
父は、どちらでも同じように茶を飲んでいた。
その夜、背広の男が来た。玄関の呼び鈴を鳴らした。母が出ようとすると、父が止めた。僕も工房にいる父を呼びに行く必要がなかった。父は音が鳴る前から玄関を見ていた。男は僕を見た。
「似てるね」
笑った。歯が細かすぎた。口の中に、米粒のような歯が何列も並んでいた。
父が戸を閉めようとした。男の靴が隙間へ入った。
「型だけでも」
僕は一歩下がった。父の影が、玄関の壁で大きくなった。男は目を細めた。
「息子は人のほうでしょう」
母が父の隣へ立った。
「帰ってください」
男は母を見た。
「あなたも、知ってて暮らしたんでしょう」
母は動かなかった。
「帰ってください」
二度目は、声が低かった。男の靴が、土間へ落ちた。靴だけだった。脚はその上にあったが、踝から先は細い虫の脚になっていた。何本も束になり、土間を探っていた。父が男の胸を押した。二人は庭へ出た。母が僕の腕を掴んだ。
工房の中で、器が一斉に鳴った。父は男を窯のほうへ引いていた。窯には、翌日の焼成のために作品を詰めてあった。火は入っていなかった。父が入口を開けた。男は抵抗しなかった。むしろ喜んだように、身を屈めた。その肩から、細い脚が何本も出た。背広が脱げ、長い黒い身体が窯へ入った。
父も続いた。僕は母の手を振りほどいた。窯の中の父へ手を伸ばした。父は、来るな、と言った。顔は父のままだった。左耳だけが落ちた。その下に、尖った耳があった。僕は立ち止まった。父は自分で窯口の板を引いた。閉まる直前、黒い脚が隙間から出てきた。
僕は外に積んであった煉瓦を持ち上げた。脚を叩くつもりだった。だが煉瓦が触れたのは、父の手だった。父が内側から脚を押さえていた。僕は煉瓦を下ろした。父はもう一度、来るな、と言った。母が僕を引いた。窯口が閉じた。火は点かなかった。
温度計の針も動かなかった。それなのに工房の中は、焼成の夜と同じ熱になった。僕たちは庭へ出て、明け方まで戸を開けておいた。中で、土を叩く音がした。父が粘土を練る時の音だった。とん、とん、と、同じ速さで続いた。途中で別の音が混じった。
人が、口で何かを噛む音だった。母は耳を塞がなかった。工房の入口に座り、父の湯呑みを両手で持っていた。
朝、窯口の板が倒れた。父が出てきた。服を着ていなかった。左の肩から胸まで、土の色をしていた。皮膚の境目が、焼き物の継ぎ目のように細く光っていた。母が上着を掛けた。僕は父の顔を見た。目も、鼻も、声も、父だった。左耳は、なかった。
窯の中に、背広の男の姿はなかった。小さな壺が一つ、奥へ置かれていた。口には蓋がしてあった。父は、その壺を出すなと言った。僕は頷いた。
窯を壊すことになった。父は、もう焼かない、と言った。僕は解体の人が来る前に、中の作品を一つずつ出した。奥の壺だけは残した。近づくと、僕の声がした。父さん、と呼んだ。自分が子供の頃に使っていた、少し甘えた呼び方だった。
僕は返事をしなかった。父が工房の外から、何か言ったか、と聞いた。僕は、何でもない、と答えた。奥へ戻ると、壺の蓋に細い隙間ができていた。
隙間の向こうに、父の左耳が見えた。
こちらの話を、静かに聞いていた。


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