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新聞を閉じない客

あの人の顔を、私は覚えていない。
毎朝同じ席にいたのだから、見たことはあるはずだ。茶色の上着の袖口が少し擦れていたことも、新聞を持つ爪が長かったことも覚えている。なのに顔の話になると、目のあった辺りが白くなる。思い出せないというより、最初からそこだけ見せてもらえなかった気がする。

仕事を辞めて、資格試験の勉強をしていたころのことだ。部屋にいると寝てしまうので、開館と同時に図書館へ行った。
雑誌の席と勉強用の机は、大きな本棚で分かれていた。私の席からは本棚の端を通して、新聞を読む人の姿が少し見えた。集中が切れるたび、そこを見ていた。勉強しない理由を、目が勝手に探していた。

男は九時にはもう座っていた。私は開館前の列に並んでいたが、前にいた人たちの中に彼がいたかどうか、覚えがなかった。
新聞を大きく広げ、肘を椅子の背へ張って読んでいた。顔は紙の上に少し出ていた。目と額だけのはずだった。
最初の一週間は、その姿を見るたび私も本を開いた。人が何かを読んでいると、自分も取り掛かりやすかった。

気になり始めたのは、隣に座る人が何度もこちらを見たからだった。
初めは若い女だった。次の日は白髪の男、その次は学生らしい二人連れ。新聞を読む男の隣に腰を下ろすと、しばらくして私を見た。
私の鉛筆の音がうるさいのだと思い、筆圧を緩めた。椅子を引く音にも気をつけた。それでも、顔を上げると誰かと目が合った。
試験が近かったので、私は余計にいらいらした。

ある朝、隣の席の女が、両目で別の方向を見ていた。
右目はこちらへ向いていた。左目は目の前の雑誌に落ちていた。斜めから見ればそう見えるのかもしれない。私は正面へ少し身体をずらした。
女は私を見て笑った。
口は動かなかった。右の目だけが細くなった。

私は本棚の陰へ戻った。
その日は席を替えた。窓辺の端で、雑誌席からは見えないところだった。問題集を開いたが、さっきの女の目が浮かんだ。あんなことを考えているから、いつまでも受からない。私は問題の下へ線を引いた。
数分して、背中のほうで紙を広げる音がした。

振り返ったが、誰もいなかった。
新聞席の男は遠くの同じ場所にいた。大きな新聞の端が見えた。窓へ映った自分の顔の後ろにも、その紙があった。
裏側が見えた。
文字がなかった。紙面いっぱいに、薄い色の顔が伏せられていた。

私は窓から離れた。椅子が鳴り、周りの人が顔を上げた。
その瞬間、紙の裏の顔もこちらを向いた。
男の顔ではなかった。今まで私を見た人の顔が、どれとも少しずつ違うまま、重なっていた。眼鏡の形も眉の太さも揃っていない。女の右目だけが、はっきりこちらへ向いた。

私は鞄を持って立った。問題集をしまう手間さえ怖かった。
貸出カウンターへ行き、新聞を読む人のことを話そうとした。担当の人が私の顔を見て、落とし物ですか、と聞いた。
「新聞のところにいる方」
私が振り返ると、男は新聞を上げた。
顔が全部隠れた。

「どの方ですか」
担当の人も同じ方向を見ていた。
その声に、私は説明を続けられなくなった。男がいないと言ったのではなかった。何人も座っているので、誰のことか分からないだけかもしれなかった。
「すみません、何でもないです」
私はそう答えた。自分の問題集が、さっきの席に開いたままなのを思い出した。

取りに戻ると、隣の机の男が本を閉じていた。イヤホンを耳から外し、鞄へ入れていた。
「これ、あなたのですか」
私の問題集を指した。私はうなずいた。
彼は小声で、席替わりますか、と言った。
私は意味が分からず、彼を見た。二十歳を少し過ぎたくらいだった。手元には辞書と、外国語の教本があった。
「見られるの、嫌ですよね」
彼は雑誌席を見なかった。

私たちは図書館の外へ出た。
男は、自分も試験があると言った。話しかけるつもりではなかったが、私が何度も後ろを見るので気になっていた。
「僕の席からだと、あなたも」
言いかけて口を閉じた。
私は続きを尋ねた。
「見てるんですよ。新聞の人を」
それはそのとおりだった。私が相手を見ている以上、向こうからも見える。そんな普通のことを、私はすっかり忘れていた。

だから気のせいだという話かと思った。
男は首を振った。
「ずっと、です」
私が本へ顔を伏せているあいだも、窓へ背中を向けているあいだも、私の目だけは新聞席を見ていた。彼にはそう見えていた。
「僕のほうも見ました」
彼は自分の右目の下を指した。
そこに細い赤い線があった。爪で掻いたような線だった。私にも似た痒さがあった。目頭のところを、何度も指で押していた。

私たちは名前を言わなかった。
顔を見合っているのが嫌になり、並んで歩いた。駅の角で別れた。私はそのまま帰り、家で鏡を見た。普通の自分だった。寝不足で、少し赤い目をしていた。
一週間、図書館へ行かなかった。家では勉強が進まなかった。気づくと新聞の男を考えていた。目を見たのか、紙の上の印刷を目だと思ったのか。確かめれば済むことのように思えた。

次に行ったのは、午後だった。
試験の申し込みに使う封筒を買った帰りで、近くまで来てしまった。図書館には入らず、外の階段から窓を見た。
新聞の男がいた。朝と同じ席で、同じ大きさに紙を広げていた。午後の陽が横から当たり、上着の胸に白い線ができていた。
男が顔を上げた。
私は目を閉じた。

閉じても、紙の裏側が見えた。
薄い顔が並んでいた。印刷の点ではなかった。一つずつ小さな毛穴があった。私が眉を寄せると、紙の中のどこかも同じように寄った。
私は階段の手すりを握った。金属が熱かった。目を開くと、ちょうど誰かが私の横を通った。
「すみません」
その人の声に、自分の身体が通り道を塞いでいると分かった。

私は目を開けたまま、手すりに沿って降りた。
相手を確かめたい。それだけで、また近くまで来ていた。気味が悪いから逃げたはずなのに、私はいつの間にか、見る用事を作っていた。
駅へ向かおうとして、図書館の入口であの若い男に会った。
彼も外から窓を見上げていた。手には何も持っていなかった。

「今日、空いてますか」
私は普通の言葉を選んだ。
彼はしばらくして、空いてると思います、と答えた。それから、ここに来るのはやめようと思ってたんです、と言った。
私も、と答えた。
二人とも、上を見なかった。

男は自分の右目を押さえていた。
「新聞、閉じればいいのかな」
彼が言った。
私は分からないと答えた。新聞を取り上げるところを考えたくなかった。向こうはずっと読んでいるだけだった。こちらが何を見ているかも、まだ分からないのだ。
私は駅前の喫茶店で勉強するつもりだと、思いつきで言った。彼も来た。席は互いの顔が正面にならない、窓際の長い机を選んだ。

その日、二人とも本を持っていなかった。
紙ナプキンを広げ、私が覚えている問題を口にした。男は全然違う分野なので答えられなかったが、質問はした。私が答えに詰まると、そこが覚えられていないのだと分かった。
彼は外国語の短い文章を言った。私は何語かも分からず、音を真似した。彼が笑った。こちらを見ずに笑った。
二時間ほどそうしていた。

帰りに図書館の前を通らなかった。遠回りをした。
それから一月、私たちはときどき同じ店で勉強した。名を知ったのは三回目だった。新聞の話は、初めのうちだけした。右目の傷は少しずつ薄くなった。
私の試験は秋にあった。結果が出る前に、彼は別の街へ引っ越した。教本を返すために最後に会ったが、もう顔を見て話せた。

翌春、図書館へ行った。
試験に受かったことが、あの場所へ行ける理由になるような気がしていた。入ってすぐ、それは関係ないと分かった。
新聞席には別の人がいた。
若い女だった。大きな新聞を広げ、肘を椅子の背へ張っていた。目と額だけが紙の上へ出ていた。
私は見続けなかった。借りたい本の棚へ行き、背表紙の字を読んだ。読めた。本を抜き、貸出へ持っていった。

図書館を出たところで、茶色の上着の男とすれ違った。
袖口が擦れていた。長い爪が鞄の持ち手をつかんでいた。
男は顔を伏せ、私に道を譲った。
私は礼を言った。
その人が誰だったかを確かめるために、顔を覗き込むことはしなかった。

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