あのころ、弓野の靴は右だけ音が大きかった。
靴底が減っているせいではない。どの靴を履いてもそうなる。大学のころに足首を痛め、それから十年、少しだけ右足を外へ開いて歩いていた。本人は気にしていなかった。私も普段は忘れていた。
あの展示室で、自分より先にその足音を聞くまでは。
二人で郊外へ出掛けた日だった。行くつもりの店が臨時休業で、駅へ戻るには早すぎた。道の向こうに小さな郷土博物館があった。弓野が、涼んでいこう、と言った。
入館料は二百円だった。受付の女性は五時に閉めますと言い、壁の時計を見た。四時を少し回っていた。
私たちは常設展だけを見ることにした。
一階には昔の町の模型があった。弓野は自分の職場がある場所を探した。古い地図なので、そこは畑だった。私は模型の小さな駅が気に入り、しばらく見ていた。
二階は衣食住の展示だった。道具を並べた廊下の先に、畳敷きの部屋が再現されていた。上がることはできず、床の手前に低い柵があった。着物が一枚、衝立へ掛かっていた。
誰もいなかった。
私たちが入ると、奥で靴音がした。
とん、たん。
右側だけ、少し高い音だった。
弓野が足を止めた。私は彼女を見た。彼女は私を見て、何、と言った。
「今、歩いた?」
「そりゃ、歩いたけど」
私たちは笑った。靴音など珍しくない。展示室は響きやすかった。
奥には仕事着を並べたケースがあった。農作業の上着、商店の前掛け、古い制服。どれも胴だけの台に掛けてあった。
ケースの下に靴が一足置かれていた。説明板の字は小さく、私は屈んだ。何と書かれていたのか、今は覚えていない。
屈んだ耳のすぐ前で、右の靴が鳴った。
私は腰を起こした。
ケースの靴は動いていなかった。弓野は三歩ほど後ろにいた。片足を浮かせ、靴底を見ていた。
「石かな」
彼女が言った。
靴底の溝には何も挟まっていなかった。足を下ろす前に、奥で同じ音がした。
弓野の顔から笑いがなくなった。
「もう出ようか」
私は言った。
怖いと言うほどではなかった。ただ、聞こえ方を確かめ続けたくなかった。弓野も同意した。近くの階段へ向かうと、足音が先に階段を下りた。
手すりの向こうから、とん、たん、と響いた。
弓野は足を止めた。私も止まった。
音は下へ続き、一階の床を踏んだところで消えた。
受付の女性が顔を上げた。
「お帰りですか」
声だけが上がってきた。
私は二階の手すりから顔を出した。まだ二人とも上にいると伝えると、女性は少し黙った。
「すみません。下りていらしたと思って」
彼女にも聞こえていた。私はそれで安心しかけ、すぐ、安心できることではないと気づいた。
弓野は階段から離れた。もう一つの展示室を指した。
「向こうからも行けるよね」
順路の矢印は奥へ続いていた。私たちは入ってきた側へ戻り、別の廊下を歩いた。階段を避ければ済むとは思わなかったが、足音のあとを追うのは嫌だった。
壁に農作業の写真が掛かっていた。白黒の人々が、重い物を担いでいた。弓野は写真を見ず、床だけを見ていた。
とん、と鳴った。
彼女の右足は、まだ上がっていた。
弓野の身体が前へ傾いた。転ぶと思い、私は肘をつかんだ。彼女は左足を大きく出して持ち直した。
「今の、何」
彼女は自分の脚を見た。
右の膝が曲がったまま、戻らなかった。
私は近くの椅子へ座らせようとした。弓野は首を振った。
「自分で」
声が強かった。私は手を離した。彼女は壁へ指をつき、膝を伸ばした。伸びた。痛みはないと言った。
ただ、足を下ろす先が分からなかったそうだ。
「ここでいいのに、もう向こうに着いてるみたいで」
彼女は廊下の先を見た。
その先に、展示してあった前掛けがあった。
床から腰の高さへ、広がったまま浮いていた。縛る紐が背中の位置で結ばれ、余った端が下がっていた。人の腰につけた形だった。胴も脚もなかった。
前掛けは廊下を曲がった。
とん、たん。
音がした。
私は受付の人を呼んだ。大きな声を出すと、それが階下へ遠く響いた。
弓野は壁へ背をつけた。
「見たよね」
私はうなずいた。
「布、だけだった」
彼女はそう言い、右足を床へ押しつけた。自分の足がここにあるのを、私へ見せているようだった。靴紐の輪が震えていた。
階段を上がってくる足音がした。弓野の音とは違った。かかとの低い靴で、小さく速く歩く音だった。
受付の女性が来た。私は前掛けの行った方向を指した。
彼女は一度そこを見て、弓野へ顔を戻した。
「座れますか」
私と同じことを言った。
弓野は今度はうなずいた。
女性が壁際の椅子を持ってきた。展示物ではなく、普通のパイプ椅子だった。弓野は両手で座面を押さえ、ゆっくり座った。
奥の展示室でも椅子の音がした。
畳敷きの部屋のほうだった。私は入口へ少し寄った。衝立の着物が、さっきとは違う場所にあった。裾を畳へつけ、袖を前へ揃えていた。床へ座った人のようだった。
受付の女性も見た。
私たちは何も言わなかった。彼女は展示室の灯りを消そうとはせず、廊下の明かりを増やした。
着物は動かなかった。
弓野が右足を組もうとすると、袖が少し浮いた。
彼女は途中でやめた。踵を床へ戻した。
私は弓野の前へしゃがんだ。
「痛くない?」
「痛くない。それが嫌」
彼女は私の肩をつかんだ。指の力が強かった。
「歩けるんだよ。でも、私がやった感じがしない」
私は右の靴の先へ手を当てた。靴は温かかった。彼女は足の指を動かした。その小さな動きだけは、布の向こうでちゃんと伝わった。
受付の女性が電話を掛けに行った。裏の事務室に別の職員がいるらしかった。呼ぶ声が壁の向こうから聞こえた。
弓野は私の肩を離さなかった。
「おんぶは無理だよね」
私は、やってみる、と答えた。
「いや、いい。言っただけ」
彼女は笑おうとした。私たちは大学で一度、酔った弓野を二人掛かりで運んだことがある。今ここでその話をすれば、少し楽になるかもしれなかった。私は話さなかった。彼女の重みを冗談にしたくなかった。
年配の男性職員が来た。車椅子を押していた。
弓野は、それなら、と言って移った。座面へ腰が載ると、畳のほうで布が擦れた。
男の人がそちらを見た。受付の女性が首を振った。私はその仕草の意味を尋ねなかった。知っている人がいたとしても、今は弓野を下へ連れていってほしかった。
事務室の奥に昇降機があった。職員が二人で開け、車椅子を入れた。私も一緒に乗った。
戸が閉じると、音が小さくなった。
弓野は目を閉じた。私は足元を見ていた。両足が台へ載っていた。右の靴だけ、少し外へ向いていた。
その形を見て、私は泣きそうになった。
一階へ着くと、閉館の放送が流れた。
私たちは受付の脇でしばらく待った。弓野は自分で立ってみると言った。私は止めなかった。職員が椅子を後ろへつけたまま、彼女の動きを見た。
右足が床へ下りた。
とん、と音がした。
今度は同時だった。
弓野は三歩歩いた。左、右、左。私のいるところまで来て止まった。足首を回し、首を傾げた。
「平気」
その声で、やっと身体の力が抜けた。
職員には近くで診てもらえる場所も調べてもらったが、弓野はひとまず外へ出たいと言った。入口まで車椅子を借り、そこからは自分で歩いた。私たちは何度も礼を言った。
外はまだ明るかった。閉館の札を掛ける女性へ、弓野が頭を下げた。
二階の窓から、靴音がした。
とん、たん。
右側だけ少し高い、私が十年聞いてきた音だった。
弓野は窓を見なかった。私の腕へ手を掛けたが、重みは預けなかった。
駅へ歩く途中、私は彼女の足元を何度も見た。
右足が、外へ開いていなかった。
左右がほとんど同じ向きで下りていた。靴音も同じ大きさだった。
良くなったんじゃない、と言いかけ、私は口を閉じた。弓野も何も言わなかった。
その後、彼女は足首を診てもらった。古い怪我以外に異常はなかったという。
私たちは今もたまに会う。待ち合わせの店で、私は振り向くまで彼女が来たと分からない。前は入口で足音がすれば、鞄をどけて席を空けていた。
先月、弓野がそれに気づいた。
「呼ばないと分からない?」
私は、うん、と答えた。
彼女は少し考えてから、私の名前を呼んだ。私は顔を上げた。彼女は席へ座り、右足を両手で静かに内側へ揃えた。


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