勤務が終わると、駅へ向かう前に交差点の角で珈琲を買っていた。
ホテルの夜勤明けで、家まで起きているためだった。六時に開く店の前へ五分早く着く。店員が看板を出すのを見ながら、信号が青になるのを待つ。私には慌ただしくない、好きな時間だった。
その朝、信号を待つ男が口笛を吹いていた。
何の曲か分からなかった。長い音と短い音が交互に続き、ときどき息が漏れた。上手ではなかった。背中に小さな鞄を背負い、作業着のズボンを履いていた。
交差点にはほかに四、五人いた。みんな眠そうに立っていた。私は制服の上へ羽織ったカーディガンの袖を引き、手を隠した。
赤信号は長かった。
男が口笛を一度やめ、唇を湿らせた。靴底が道路を擦った。彼は歩道の縁に立っていたはずだったのに、車道へ半歩出ていた。
私は危ないなと思った。
交差点へ近づいてきたタクシーが、一台、手前の路肩で止まった。運転席の男が窓を開け、こちらを見た。
口笛がまた始まった。
私は左の肩が寒くなった。風が通っていた。隣にあった街路樹が遠ざかっていた。自分では一歩も動いていなかった。
足元を見ると、横断歩道の白い線を踏んでいた。
歩道の縁は、かかとの後ろにあった。
前の男へ声を掛けようとした。男は私よりずっと先にいた。中央に近い場所で、口笛を吹き続けていた。
ほかの人も車道へ出ていた。腕組みをした女、携帯を覗く学生、自転車のハンドルを握る人。誰も歩いていなかった。信号が変わるのを待つ姿勢のまま、ばらばらの距離へ出ていた。
私は後ろへ下がった。縁石へ踵がぶつかった。そこで初めて、自分の靴が動いた感触がした。
タクシーの運転手が手を上げた。
私を呼んでいた。交差点から二十メートルほど戻った路肩だった。私は彼のほうへ歩いた。
「今、渡った?」
窓から尋ねられた。
私は首を振った。
「出たんだね、勝手に」
運転手はそう言い、ハンドルの上で手を開いた。いま確かめたことを自分へ言っているようだった。
車の前輪が、車道の中央に近い白線へ掛かっていた。
タクシーは縁石へ寄せて停まっていたはずだった。私は近づくまで、車が車道の奥へずれていることに気づかなかった。
運転手はブレーキから足を離していないと言った。
「踏んでた。ずっと」
私は、そうなんですね、としか言えなかった。
交差点の口笛は、ここでも聞こえた。
その続きに、別の低い音が重なった。車のエンジンが吹き上がる音だった。近くの車はどれも止まっていた。幹線道路の向こう側でも、信号に従って列ができていた。
口笛の男の頬が膨らんだ。
エンジンの音が高くなった。
私は運転手の肩越しに道路を見た。
中央に立つ女の人が、電話を耳へ当てていた。口元は笑っていたが、聞こえるのはバックする車の警告音だった。隣の学生は携帯を見たまま、唇を細かく震わせていた。そこからタイヤが水を切る音が出ていた。道路は乾いていた。
運転手が窓を閉めた。
音が少し遠くなっただけだった。
後ろのドアが開いた。乗って、と手で示された。私は首を振った。車も勝手にずれているのを見たばかりだった。
彼はうなずき、後部のドアを閉めた。それから自分のドアを開けた。
足が道路へ下りるまで、ひどく長かった。
男は靴で路面を一度叩いた。確かめてから降りてきた。
私たちは車から離れた。彼は車体の前を回らず、後ろを通った。私はそのあとを歩いた。いつも買う珈琲店の扉が開いていた。店員が看板を抱えたまま、交差点を見ていた。
「中へ入ってもいいですか」
私が言うと、店員は看板を脇へ置いた。
店の中にはパンの焼ける匂いがした。
その匂いで、ようやく声が出た。私は信号を待っていたことから話した。運転手は何度もうなずいた。ブレーキから足は離していない、と付け加えた。
店員は私たちを交互に見た。嘘だと思った顔ではなかった。
「さっき、看板を出すところだったんです」
彼は入口を指した。
看板はすぐ外に置いたはずなのに、持ち直したとき道路の中央にいたという。
私は警察へ電話した。
事故は起きていない。人と車が車道で止まっている。交差点の名前と、店の名前を伝えた。夜勤中には具合の悪い宿泊客のために電話をしたこともある。そのときよりずっと、何を言えばいいか分からなかった。
相手が今いる場所を尋ねた。
私は店の中だと答え、ガラスから離れた。
運転手は店の時計を見た。
「これ、動いてるよね」
秒針は動いていた。
彼も、確かなものを一つずつ探していた。私は自分の携帯の時刻を見せた。どちらも六時三分だった。
いつもなら、二度は青になる長さだった。
信号が青になった。
店員が、変わった、と言った。
誰も渡らなかった。
中央の人たちは同じ姿勢で止まっていた。運転席にいる人たちも車を出さなかった。口笛の男だけが、ゆっくり首を上げた。
口は大きく開いていた。
そこから、大きな車が何台も坂を上ってくる音がした。
音の向きがおかしかった。
男は交差点の中央にいるのに、音は店の背後から近づいた。店員が奥を見た。冷蔵庫と作業台のある、狭い調理場だった。
私は振り返らなかった。
運転手は両手で耳を塞いだ。塞いだあと、すぐ外した。
「あっちも、聞こえる」
彼が何を聞いたのかは分からなかった。私は尋ねなかった。
道路の人々が、一人ずつ口を開いた。
大きい口ばかりではなかった。唇をほんの少し開ける人もいた。笑った形、舌を噛む形、歯を合わせたままの人もいた。
そこから違う道の音がした。
踏切の警報、雨の下を走る車、遠くの工事。ある人の口からは、誰かが自転車を止めて、チェーンを触っている音まで聞こえた。
私はカウンターの縁をつかんだ。
足元の床が、少し斜めになった気がした。傾いてはいなかった。並んだ椅子も、棚のカップも動いていなかった。
けれど私は片足を少し前へ出した。坂に立つときの姿勢だった。
運転手も片膝を曲げていた。店員は入口の取っ手を握ったまま、爪先立ちになっていた。
珈琲を淹れる機械が鳴った。
店員が肩を震わせた。彼は手を離し、奥へ戻った。何をするのかと見ると、機械の前で湯を止めていた。
たったそれだけの仕事だった。
運転手が椅子へ座った。私も座った。脚を曲げると、床の傾きは分からなくなった。何も直ってはいなかったが、自分の足を支えなくてよくなった。
電話が鳴った。警察からだった。
近くに向かわせているが、現場はどちら側か、と尋ねられた。私は店の窓のそばへ行き、店員が書いた住所を読んだ。
そのとき、白い配送車が交差点へ入ってきた。
私は息を呑んだ。
人がいた。その進む先に、男も女も立っていた。
車は速度を落とした。運転手が窓の向こうで左右を見ていた。
そのまま進んだ。
車の鼻先が男の胸へ入り、白い側面が女の顔を隠した。誰も倒れなかった。車が通り抜けると、後ろに同じ人たちが残っていた。
口だけが、配送車の進む方向へ引かれていた。
顔の真ん中から、唇が少しずつ外へ伸びていた。
店員がガラスへ背を向けた。
私は電話の相手へ、今、車が通りました、と言った。声が震えていた。
白い車の後ろに、歩行者が一人ついてきた。普通の人だった。中央の女の身体を、何もないところのように歩き抜けた。
足音は一つしかなかった。
青信号が点滅した。
口笛の男が最後の音を出した。
途中で音程がなくなり、息だけになった。ほかの人たちの音も、少しずつ細くなった。口元が元の場所へ戻った。
赤になったとき、交差点は空いていた。
路肩のタクシーは、元の位置に停まっていた。車体と縁石の間は、人が通れないほど狭かった。
警察官が来たのは、そのあとだった。
私たちは三人で話した。同じ話にならないところがいくつもあった。私は口笛の男を作業着だと言い、運転手は薄い背広だったと言った。店員は男など見ず、最初から道路に大勢立っていたと言った。
ただ、自分で歩かずに道路へ出ていたことだけは、三人とも同じだった。
その日、私は珈琲を買わずに帰った。
翌週、同じ時間に店へ行くと、あの店員はいた。私に気づき、小さく会釈した。私はいつもと同じものを頼んだ。店の時計は六時を回ったところだった。
外で口笛がした。
私たちは顔を見合わせなかった。店員はカップに蓋をつけ、私はお金を払った。
外を確かめる役を、相手にさせたくなかった。


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