奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

肖像の席

その人を描いた紙だけが、画板から剝がれなかった。

海沿いの商業施設で、週末に似顔絵を描いていた頃のことだ。観覧車があり、冬には客より鳩のほうが多くなる。私は施設の二階へ続く外階段の下に場所を借りていた。
似顔絵一枚千五百円。二人なら二千五百円。
それだけで暮らせるはずもなく、平日は額縁屋で働いた。もともとは絵を描いて生きるつもりだったので、人に仕事を聞かれると額縁屋のことは後から付け足した。

男が来たのは、二月の、妙に暖かい土曜日だった。薄い灰色の背広に、靴下だけ派手な黄色。六十を少し過ぎたくらいに見えた。私の見本を順に眺め、椅子には座らず、海のほうを見ていた。
「船も入りますか」
客船を一緒に描いてくれという注文はよくある。どの船です、と振り返ったが、港には作業用の小船しか見えなかった。

「ああ、まだか」
男は椅子を引いた。私は顔の輪郭から取った。丸い顎、薄い唇。目尻を下げると優しい顔になりすぎたので、消して描き直した。その間、男は一言も喋らなかった。十数分で色まで入れた。見せるために画板から紙を外そうとすると、端が浮かなかった。上のクリップは外してある。指の腹で下から押しても、紙と板との間に隙間ができない。

「少しお待ちください。湿ってるのかな」
男は絵を見る前に、私の手を見た。
「もう少し座っていますよ」
紙の端を爪で掻くのも、客の前ではみっともない。私は白い余白に背景を足すことにした。青いクレヨンで海を引き、向こう岸の倉庫を四角く描いた。

その線の上に、船の先端が出た。自分で描いた記憶が飛んだのかと思った。細長い黒い線が余白を横切っている。消しゴムを当てると青だけが薄くなり、黒い線は残った。顔を上げると、海に船がいた。さっきまで空いていた場所を、白い船体が塞いでいた。音も曳き波もなかった。甲板は岸壁より高く、舷側に窓が一つもない。

「これですか」
男は頷いた。遠くで子供が叫んでいた。その声が、あー、と伸びたところで止まった。消えたのではなかった。母音の途中だけが、耳の奥に薄く残っていた。階段を下りてきた女の子の靴が、私の頭の斜め上にあった。段から十センチほど浮いている。

隣のワゴンでクレープを焼く小宮さんも止まっていた。右手に持った鉄のへら、その先から落ちるはずの生地まで、細い筋を作ったままだった。

私は立ち上がった。男が私の画板を指した。
「それを置くと、席がなくなる」
その言い方で、かえって怒りが出た。
「何の話ですか。これ、どうなってるんですか」
「私にも分からないことはある」
男は両膝に手を置いていた。黄色い靴下が、さっきよりずいぶん上まで見えていた。ズボンの裾が短くなったのではない。椅子から床までの距離が伸びている。

私は画板を抱え、クレープ屋へ行った。小宮さんの頬に触れた。体温がなかった。冷たくもなかった。柔らかい皮膚を押しているのに、指先が何も受け取らない。小宮さんがよく着る、洗いすぎて白けた紺の上着を引くと、私の指のほうが滑った。

電話の画面は暗かった。時計も動かなかった。男はまだこちらを向いていた。離れたせいか、顔が少しぼやけて見えた。
「戻って。あなたが見えなくなったら困る」
私は小宮さんの腕にしがみついた。動いて、と声を掛けた。返事のない人間を一人で支えているつもりだったが、腕を回した私の身体が宙に浮きそうになった。小宮さんは店の柱より動かなかった。

画板を取り落としかけ、慌てて抱え直した。紙の上の男の顔が、知らない顔になっていた。顎に肉が付き、鼻が平たくなっている。目尻の皺も消えていた。背景の船には黒い縦筋が何本も増え、私が描いた倉庫は下半分が塗り潰されていた。

私は椅子に戻った。男は、絵と同じ顔をしていた。
「あなた、いくつなんですか」
「ここへ来た時は五十七」
「今は」
「誰に聞けばいいんでしょうね」
男は私の鉛筆を見た。
「髭を足してもらえますか。元は、ここに少しあったんです」
私は背広の胸から顎へ目を移した。口の下に、確かに薄い髭があった気がする。何度思い出そうとしても、最初に見た顔が固まらなかった。

言われた場所を茶色で擦ると、男の顎に髭が生えた。紙を離してみた。目の前の男の髭は消えなかった。怖さより先に、描き直せる、という考えが浮かんだ。顔を元に戻せば何か変わるかもしれない。私にもやれることがある。普段の仕事では滅多に感じない種類の確かさだった。

男の目の間隔を狭くした。紙の目は狭くならなかった。黒い点が二つ、顔の外側へ移った。男の顔の両脇にも、同じ点が浮いた。私は鉛筆を止めた。
「もう描かないほうがいいですか」
男は少し考えた。
「前の人は、途中で帰りました」
顔の脇の点は、小さな人影だった。目でも染みでもなかった。遠くに人が二人立っているのが、男の顔のすぐ横に見えていた。

私は背後を見た。商業施設の壁が、半分なくなっていた。なくなった部分から空が見える。屋根を支える鉄骨が海に向かって傾いていた。なのに私たちの周りには、買い物袋を下げた親子や、ポテトを食べる若い男女が、そのままの姿勢でいた。

向こうの二人は、私の借りている場所を見ていた。頭の上まで一続きの白い服を着ている。顔のある辺りに、四角い灰色の板が付いていた。片方が腕を上げると、指の先から糸のようなものが垂れた。糸は、止まっている人々の間を抜けてきた。

海風があった。紙の上では風が描けない。だが男の髪の輪郭が細かく解け、その線が一本ずつ横へ流れていった。目の前でも同じことが起きていた。私は男の肩を掴もうとして、画板を片手に持ち替えた。
「触るなら、手を」
男が掌を上にした。

掴むと、人の手だった。汗で少し湿り、親指の付け根に硬いところがあった。その感触だけで泣きそうになった。

白い二人が近づいてきた。小宮さんのワゴンのあった場所を、その身体が通り抜けた。二人には、小宮さんが見えないのかもしれなかった。私は指を握ったまま、自分の椅子の脚を足で確かめた。灰色の板がこちらに向いた。そこには、私たちが映っていた。

私は随分痩せていた。伸びた髪が肩に掛かり、白い顎髭が胸まで垂れている。男のほうは、服を着たまま、頭がなくなっていた。男は私に顔を向けていた。目も口もある。手はまだ温かかった。白い服の一人が、私の持っている画板に指を掛けた。

声はしなかった。灰色の板に、今度は紙を持った私の姿が大きく映った。紙は黄色く変色していた。絵はほとんど消え、四隅だけが茶色かった。これはあなたのものか、と聞かれたのだと思う。私は男の手を強く握った。
「この人のです」
声がちゃんと出たか分からない。

男が私を見た。
「描き上がりましたから。お客さんのものです」
白い指が画板の縁を叩いた。私はクリップを外した。既に外したはずなのに、いつの間にか紙を押さえていた。今度は剝がれた。紙を引いた途端、階段の上で靴音がした。あー、と叫んでいた子供の声に、母親の叱る声が重なった。小宮さんが生地をひっくり返した。バターの焦げる匂いが戻った。

男の椅子は空だった。

私は両手を前へ出して座っていた。右手は誰かの手を握る形に曲がり、左手には紙を一枚持っていた。
「どうしたの。お客さん、帰った?」
小宮さんが聞いた。私が返事をしないので、ワゴンから出てきた。紙を覗き、ひどく困った顔をした。

絵の中には、椅子が二脚描かれていた。片方に灰色の背広の男、もう片方に髪の長い老人。二人とも海へ向かって座っている。男には頭があった。私はまずそれを確かめた。老人は、画板を地面に置いていた。白い二人がその後ろに立っていた。片方の手が、老人の肩に載っている。海のはずの場所には、色のない広い地面が続いていた。

私は紙を伏せた。救急車を呼んだのは小宮さんだ。私の手の震えが止まらず、椅子から立てなかったためだった。到着するまでに、私は何度も右手を開いては握った。手の中には、男の体温がまだあった。

病院では疲労と脱水だろうと言われた。土曜日で混んでいた。隣の椅子の老人が、飴を一つくれた。私はそれを握っていた。丸い飴の角が溶け、包み紙が湿ってきた。そういうことが、ひどく有り難かった。似顔絵の仕事は翌週で辞めた。額縁屋は続けている。

あの紙は捨てられず、店の平箱に入れた。折り曲げようとすると、紙の中の椅子も折れるような気がした。店主には、自分の絵だから触らないでほしい、とだけ言ってある。月に一度くらい、箱を開ける。老人の髪が少しずつ短くなっている。

最初に白いものが減り、次に顎髭が消えた。背中も、以前ほど曲がっていない。二人の座る向きは変わらず、男はずっと老人の手を握っている。私は今年、四十三になった。

絵の中の老人の年齢は、もう、五十を出たくらいにしか見えない。

近ごろは自分の後頭部を鏡で確かめる。まだ絵の男ほどは薄くない。その違いを見つけてからでないと、箱の蓋を閉められなくなった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました