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口笛を吹く畑

口笛のうまい人だった、と宮地は聞いていた。

借りた梨畑を以前に作っていた人のことだ。名前は梶田。病気で作業が難しくなり、遠方に住む姪の仁科へ土地を貸していた。仁科は町から通っていたが、一人では果樹を扱いきれず、農業を教える施設から宮地が週に二度通うことになった。農家で育っただけの宮地に、何でも分かるわけではない。それでも仁科は手帳へ細かく書き、教わった順に作業をした。

鳥に実を食われるようになったのは、袋を掛ける前だった。剪定が遅れて葉が込み合い、枝の内側が見えにくかった。宮地が葉を分けると、小さな梨に何箇所も穴が開いていた。嘴の跡にしては深かったが、仁科は朝に大きな鳥を見たと言った。

「梶田さんは、何で追ってたんです」
「笛を吹くと来なくなるって。でも、どんなのかは」
仁科は携帯を出した。叔父に電話してよいかと尋ねるので、宮地はそこまではいいと止めた。先にネットを確認し、破れを塞ぐ方が確かだった。

作業をしていると、畑の奥で短い口笛がした。宮地が口の中だけで吹いていた節と、よく似ていた。子供のころ覚えた曲で、題名は知らない。先へ続くところで、向こうも同じように途切れた。仁科は奥の枝を見て、まただと言った。
「梶田さん?」
「入院してます」
二人で確かめたが、葉が揺れているだけだった。

宮地は試しに違う節を吹いた。少し遅れて、林の端から同じ音が返ってきた。鳥の声真似だろうと思った。面白くなってもう一度吹こうとすると、先に続きを吹かれた。宮地は唇を閉じた。偶然かもしれない。聞き慣れた曲だから、誰が吹いても続きは似る。

その日、梨の傷は増えなかった。仁科は久しぶりにゆっくり作業ができたと喜んだ。宮地が帰るとき、畑の端の杉に鳥が何羽も止まっていた。どれも畑へ腹を向けず、山の方を見ていた。呼びかけると、一斉に頭だけがこちらを向いた。見られたのは宮地の顔ではなく、口だった。

次に行った日、仁科は小さなスピーカーを持っていた。宮地の口笛に鳥が逃げたから、自分で吹いて録音したという。電話から流れる音は細かった。宮地ほど強く鳴らせないと彼女は笑った。再生を止めたあとも、同じ音が続いた。スピーカーからではない。木の上からでもない。まだ口を閉じている仁科の喉から聞こえた。

仁科は咳をした。音が止まり、唾を飲み込んだ。気管に入ったみたい、と言った。
「何が」
宮地に聞かれると彼女は不思議そうにした。息、と答え、笑い直した。宮地は録音を使わない方がよいと話した。何の音で鳥が逃げたか分からない。馴れてしまえば効かなくなる。いつも人に話している説明だった。それだけを心配したわけではなかった。

午前中、宮地はネットの上へ上がった。支柱をつないだ横棒へ足を掛け、破れた場所を探した。鳥が出入りできそうな隙間はなかった。下では仁科が枝を束ねていた。
「そこ、危ないよ」
声がした。仁科の声だった。宮地は足を止めた。
「どこが?」
仁科は顔を上げ、何も言ってないです、と答えた。そのあとで同じ方を見た。横棒の継ぎ目が錆び、留め金が半分抜けていた。

宮地は静かに下りた。礼を言う相手はいなかった。仁科は、私たちの声みたいなのが時々すると言った。最初に言ったら、気味の悪い畑を借りたと笑われそうで黙っていたのだそうだ。
「叔父さんに聞きました?」
「電話では、よく分からないって」
「病気のことじゃなくて」
「畑のことです」
仁科は少し怒った声になった。宮地も、聞き方が悪かったと謝った。

二人は昼飯を車で食べた。宮地が食べ終えて袋を畳むと、畑から同じ袋の音がした。すぐには気づかなかった。仁科が自分の弁当箱を閉めると、木の下で蓋が鳴った。二人ともそれ以上物を動かさずに待った。音は止んだ。
「真似してるんですかね」
仁科が小さく言った。その声は返らなかった。代わりに、畑のもっと深いところで、誰かが笑った。男とも女ともつかなかった。人が何人も、狭いところで顔を寄せて笑っているように聞こえた。

宮地は畑の土を踏み、笑い声のした木へ向かった。袋掛けの途中だった小さな実が、風もないのに揺れていた。足元に梨が一つ落ちていた。傷の穴へ、草の茎が入り込んでいる。引くと、ずるりと抜けた。茎の先から息のような温かいものが漏れ、宮地の指へかかった。

彼は手を離した。梨は音を立てずに落ちた。仁科が拾おうとするので、やめるよう言った。切ってみなければ分からない、と彼女は答えた。果物の病気なら木へも広がるかもしれない。宮地は断る理由を探せず、一緒に小屋へ持っていった。

仁科が包丁を入れた。硬い小さな実に刃を進めると、畑から低い声がした。宮地の声だった。今やっている作業とは関係のない、昨日の晩に知人へ話した言葉を、一つずつ区切って言っていた。
「もう、辞めたいんですよ」
仁科の手が止まった。宮地は包丁の背へ手を載せた。彼女は手を離し、宮地の顔を見た。

施設の仕事に不満があった。相談に来る人に、自分の経験以上の答えを要求される。梨の畑が特別嫌だったわけではない。そう説明しかけて、宮地はやめた。畑にその続きを言われたら、自分の声と区別できなくなる気がした。
「これ、捨てましょう」
宮地が言うと、仁科は黙って包丁を抜いた。刃の進んだところに果汁はなく、白い種が一つ見えた。種の先へ、赤い糸のようなものが絡んでいた。

次の週、宮地が行くとスピーカーが鳴っていた。注意したのに、と言いかけたが、再生しているのは仁科の録音ではなかった。鳥を追うために売られている、甲高い警戒の鳴き声だった。
「鳥が戻ってきたんです」
仁科は宮地を見なかった。穴の開いた実を落とすと、残った実まで齧られ始めたという。宮地がネットを直しても効果がなかった。今度の音を使うようになってから被害が止まった。彼女にとって、それは止める理由より強かった。

音が鳴った。間があいて、林の中で人が悲鳴を上げた。女の声だった。宮地はスピーカーを切り、山へ向かった。仁科が追ってきた。
「誰かいる」
「あっちは人が通れません」
通れないのは道がないからか、人が入れないようになっているからか。宮地はそんなことを考えながら藪を抜けた。

杉林の手前で、何人もがしゃがんでいた。皆こちらに背を向け、両手で頭を抱えていた。服の肩や背中へ、細い枝が何本も食い込んでいる。宮地が呼ぶと、一人が振り向きかけた。仁科が彼のシャツを引いた。その人の顔が見えるより先に、林の中から二人の声がした。
「鳥が戻ってきたんです」
「誰かいる」
同じ調子で、いくつもの口から重なった。

宮地は後退した。人のいたあたりから鳥が飛び立った。大きな羽音だったのに、木の上へ行った姿は小さかった。仁科は地面を見ていた。人が座っていたはずの土には、細い爪の跡が残っていた。

「私たちが、追ってるのかな」
仁科はそう言った。宮地は答えられなかった。逃げたものが鳥だったのか、人だったのか、それさえ二人で確かめていなかった。

宮地は施設に畑の担当を替えてほしいと頼んだ。体調の問題にした。理由を書かせる用紙には睡眠不足と書いた。仁科へは前もって電話したが、分かりました、と言われただけだった。病気の梨の写真も渡した。穴が開いていることしか写っていなかった。

代わりに入った若い職員は、ネットの修理が役に立ったと言った。今は被害もないらしい。宮地がスピーカーのことを訊くと、あれはもう使っていない、と答えた。よかった、とは言えなかった。では何を鳴らしているのか、聞かずに済ませた。

秋に仁科が梨を持ってきた。宮地は外出していたので会わなかった。施設で切り分け、休憩のときに皆が食べた。甘い梨だった。宮地は一切れを皿に置いたまま、種の残る芯を見た。虫食いも赤い糸もなかった。

夕方、机に向かっていると、横で同僚が口笛を吹いた。あの曲の、宮地が知らない続きを吹いていた。どこで覚えたのか尋ねると、同僚は笑った。
「いま、宮地さんが吹いてたじゃない」
彼の口はもう閉じていた。それでも音は、二人の間にある梨の皿から細く続いていた。

宮地は皿を持ち、流しへ運んだ。廊下で窓が風に鳴った。外の植込みに鳥が降りた。網など掛かっていない場所なのに、羽を畳んだまま地面へ伏せ、こちらを見ないようにしていた。皿の上で誰かが息を吸ったので、宮地は自分も息を止めた。

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