透は、父親の鼻を少し高く切った。
「こっちのほうが似てるよ」
安西が横から見ると、紙の中の自分は、額から鼻へ真っすぐな線を下ろした、知らない立派な男になっていた。実物の鼻には途中で小さな窪みがある。中学のころ、野球の硬球を顔に受けてできたものだった。
やり直さなくていい、と言ったのは安西だ。土曜日の夕方だった。八歳の息子は夏休みの工作をまだ終えておらず、明日は母親の家へ送り届ける約束になっていた。宿題まで安西が見るという取り決めではなかったが、そのことで電話をすると、透が聞いているところで言い合いになる。もう一度そんな週末にしたくなかった。
影絵は安西が思いついた。押入れに、黒い紙が残っていた。駅前の古道具市で買った額に入っていたもので、紙の裏には、横顔の切り抜きが十数枚貼られていた。大小の顔が同じ方向を向いていた。額だけ欲しくて買ったのに、紙まで捨てずにいたのは、額の大きさに切った台紙として使えると思ったからだ。
厚い黒紙の手触りを、透は気に入った。普通の色画用紙より柔らかく、折っても筋がつきにくい。古い横顔は端に寄せて貼ってあり、真ん中は大きく空いていた。安西は裏返して壁へ留め、卓上灯を横から当てた。椅子に座った安西の顔が紙に落ちる。それを透が鉛筆でなぞった。
鼻を高くしたのは、鉛筆の線が見づらかったせいだという。紙を切るとき、透は顔をはさみに近づけすぎた。安西は危ない、と一度言い、それきりは何も言わなかった。息子のやり方を見ていると、口を出さずにはいられない。そういう自分を嫌っていた。
できた横顔を白い紙に載せると、なかなかよかった。透は耳をつけたがった。影に耳はない、と安西が言うと、「あるよ、ここ」と自分の耳を引っ張った。二人で笑った。安西は久しぶりに、母親へ送るためではない息子の写真を撮った。
次は透の番だった。まだ余っている黒紙を壁へ貼り直し、椅子に座らせた。透は顎を上げたり、口を開けたりした。安西が静かに、と言うたび、口の隙間から舌が覗いた。夕飯に買った鶏肉を冷蔵庫へ入れていないことを思い出し、安西は輪郭だけを急いでなぞった。
切り終えてから、顎の下に小さな出っ張りがあるのに気づいた。透のシャツの襟だった。顔の形としておかしい。はさみでそこを落としたとき、息子が咳をした。
一度の咳が止まらなくなった。透は口を開け、首を押さえた。安西は椅子を回して背中を叩いた。何か飲みこんだのかと聞いても、透は首を振る。唇の内側が青くなっていた。安西が電話を取ろうとしたところで、透の喉が大きく鳴り、ようやく空気を吸った。
首の横に、薄い傷があった。血は出ていない。肌がそこだけ一枚、爪で削り取られたようになっていた。安西は、はさみが当たったのだと思った。紙を切っていた机と椅子は離れていたが、それ以外に考えようがなかった。透もそう思ったらしく、「気をつけてよ」と、涙の溜まった目で安西を睨んだ。
安西は謝った。水を飲ませ、服を緩め、しばらく隣に座った。透はもう痛くないと言ったが、工作を続けたがらなかった。夕飯を先にしようと決めた。切り抜いた横顔と周囲の紙を、安西はまとめて机の端へ寄せた。
夕飯のあいだ、透は唐揚げの衣ばかり剥がしていた。大きく口を開けるのが怖いのだろう。安西は小さく切ってやり、明日は早めに帰ろうかと言った。透は、まだいい、と答えた。安西には、その返事が一日でいちばん嬉しかった。
片づけをしていると、透が台所へ来た。
「僕、さっきより笑ってる」
見せられた切り抜きには、口があった。横顔の唇のところから、頬へ向けて細い切れ目が入っていた。鉛筆の下書きにはなかった線だった。
安西は、切るときに刃が滑ったのだろうと言った。透は納得せず、自分の顔の紙を窓に向けた。頬のところに、目の形をした小さな穴が見えた。黒紙の向こうの夕焼けがそこだけ光った。安西は息子から紙を受け取り、指で穴を隠した。
指先に、まつ毛が触れた。
反射的に紙を離した。軽い紙なのに、床へ落ちるまでに、何かが畳を踏むような音がした。透が後ろへ下がった。安西の足元で、黒い横顔が上を向いていた。目の穴が閉じ、また開いた。紙の厚さしかないはずのところに、濡れた白目が覗いた。
透は泣かなかった。机の上へ戻して、と頼んだ。安西は紙の端をつまんだ。息子の首の傷が気になった。落ちた拍子についたのか、紙の首にも小さな裂け目ができていた。試しにとは思わなかった。そんなことをしたくなかった。ただ、持ち上げる指に力が入った瞬間、透が喉へ手を当てたのを見た。
安西は紙を平らに置き、透明なテープを取り出した。傷のある首の裏へ短く貼った。透が息を吐いた。首を見ると、白く削れたようだった箇所が、赤い筋になっていた。安西はテープを何枚も重ねた。最後の一枚を貼るころには、透が苦しいと言い出したので、そこでやめた。
電話をしなければならなかった。病院にも、息子の母親にも。けれど、黒い紙にテープを貼ると子供が息をできる、と、誰にどう言えばよかったのか。安西は救急相談の番号を検索し、画面を開いたまま机に置いた。電話の隣で、黒紙の目がこちらを見ていた。
その目は透の目ではなかった。息子は奥二重で、笑うと上の瞼が深く折れる。紙の目は大きく、開いたままなかなか閉じなかった。頬には小さな鼻の穴までできていた。横顔を切ったはずなのに、いつのまにか顔全体がこちらを向こうとしていた。
「お父さん、そこ、押さえてて」
透が押入れから空の額を運んできた。紙を元へ戻せばいいと思ったらしい。安西もそれに縋った。残った黒紙を白い台紙に広げ、透の顔を切った穴へ収めた。端に貼られていた古い横顔は、買ったときには乾いた葉のように丸まっていた。今はどれも平らで、細い目の穴から二人を見ていた。
安西はその上へ雑誌を載せた。一枚ずつ目が消えるあいだ、透は安西のシャツを握っていた。最後まで見えていた、いちばん小さな横顔だけが、唇を突き出した。音はしなかった。だが、透が耳を塞いだので、何かは言ったのだと思う。
額を伏せると、透の頬に細い線ができた。口の横から耳へ向かう線だった。傷ではなかった。顎がずれ、下の歯が横へ並び始めていた。透は両手で口を押さえた。安西は額を起こし、ガラスを外した。
紙に戻された顔は、さっきよりも正面を向いていた。右の目の穴もできていた。実際の透は、顔を横から潰されたようになっていた。安西は、元へ戻す場所を間違えたのだと分かった。紙へ顔を戻しても、息子の影が戻るわけではなかった。
卓上灯をつけ、透を椅子へ座らせた。壁には椅子の影だけが映った。息子の頭のあるところは白かった。安西が間へ入ると、自分の影はちゃんとあった。卓上灯の光で、自分の額の汗まで熱くなった。
白い紙に載せてあった、安西の横顔が目に入った。透が鼻を高く切った、あの顔だった。安西はそれを取り、息子の紙へ重ねた。大人の顔のほうが大きかった。黒紙の目が見えなくなると、透は少しだけ口を動かせた。
「水」
その一言で、安西は重ねた紙から手を離せなくなった。
透にコップを取らせた。二つの切り抜きを強く押さえ、首のところをテープでつないだ。透が水を飲む音を聞きながら、壁へ紙を戻した。卓上灯の位置をずらし、息子の体の上に紙の顔が来るようにした。何をしているか、自分でも筋道は立っていなかった。ただ、息子の顔を戻すために、自分の形ならいくらでも使っていいと思っていた。
透の頬の線が薄くなった。安西は、自分の鼻の奥で何かが裂けるのを感じた。痛みの前に、右の目から涙が出た。息子がこちらを見た。その目が大きく開いたので、安西は、自分の顔に何が起きたかを知らないままでいようとした。
紙から安西の横顔を剥がすことはできなかった。テープで貼っていない額や顎のところも、下の顔とくっついていた。二枚を重ねたはずなのに、一枚の薄さになっていた。高く切られた鼻の先から、赤い雫が落ちた。安西はタオルを敷いた。自分の鼻を拭いても、タオルには何もつかなかった。
透の母親へ電話した。今すぐ来てほしい、それだけは伝えられた。相手が何度も聞き返した。安西は自分の声が聞き取りにくくなっていることを知った。歯は舌に当たる。唇も指に触れる。それなのに、息を前へ出すと、机の上の紙が震えた。
透は安西の腕に触れ、「こっち向いて」と言った。安西は首を回したつもりだった。透の指が頬を押し、初めて息子のほうを向けた。首を動かした感触と、見える場所が合っていなかった。壁の影は、安西が動くより一呼吸早く、椅子へ腰を下ろしていた。
玄関が開いたとき、透は泣き始めた。母親は息子を抱き、そのまま安西を見て、すぐには近づかなかった。安西はタオルごと紙を持ち上げた。相手の目が、紙と安西の顔を往復した。
「切らないで」
透が母親の腹に顔を押しつけたまま言った。
「それ、お父さんだから」
救急車を待つあいだ、安西は机に肘をついていた。母親が話しかけるたび、透が安西の顔を手でそちらへ向けた。安西には、二人が見ている自分の顔がどんな形か、最後まで聞けなかった。鼻の古傷に触れようとすると、指が何もないところを通った。
机の上には工作用の白いペンがあった。透がそれを取り、紙へ手を伸ばした。安西の目と口を描き足すつもりだったらしい。母親が止めるより早く、ペン先が黒紙の頬へ小さな点を打った。
安西の視界の右端に、天井が一つ増えた。
透の手首をつかんだ。強くつかみすぎ、息子が痛いと言った。それでも離せなかった。余分に見える天井の真ん中に、煙感知器があった。自分は顔を下へ向けているのに、そこだけ上が見えた。点を消そうとした透の指を、今度は母親が押さえた。
三人で、救急車の音を待った。
卓上灯は点けたままだった。机の上の紙の鼻は、息子が切ったとおりに高く、頬の白い点は、こちらより先に瞬きを覚えようとしていた。


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