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朝の抜き打ち

避難訓練の日には、梶原さんが一番嫌そうな顔をする。
二階分の階段を下りるだけなのに、仕事を止めるのが惜しいのだという。年に一度、外へ集まり、話を聞いて戻る。私も以前はそう思っていた。だが入社したばかりの小野が訓練の日をカレンダーへ書き込むのを見ると、面倒だとは言えなかった。

駅近くの貸しビルで広告を作る会社だった。社員は十数人。私が経理と庶務を兼ね、梶原さんが制作をまとめていた。小野は二十二歳で、何かに参加する時には、言われる前からメモを取った。私はその真面目さが羨ましくもあり、少し心配でもあった。
「逃げる時まで、書かなくていいからね」
そう言うと、彼は笑って手帳を閉じた。

本来の訓練は金曜日だった。火曜日の朝、館内放送が鳴った。
「これは訓練です」
低い女の声だった。机で朝の予定を確認していた社員が、何人か顔を上げた。梶原さんは画面を見たまま、抜き打ちか、と言った。
私は管理室へ電話をかけた。出なかった。放送はもう一度、避難を始めるよう告げた。

小野はすぐに立った。ほかの社員は、私か梶原さんが動くのを待っていた。私は金庫を閉め、鞄を置いたまま上着を取った。
「一度、下へ出ましょう」
梶原さんは、保存だけ、と言い、私に先へ行くよう手を振った。

廊下には同じ階の会社の人も出ていた。隣の事務所の女性が、今日じゃないですよね、と声をかけてきた。私もそう答えた。階段の扉を開くと、上の階から足音が続けて聞こえた。皆が動いている。それで、抜き打ちの訓練があるのだろうと思った。
煙の臭いはしなかった。非常灯もいつもと同じ緑だった。小野は私の後ろで、黙って手すりを見ていた。

一階下まで降りた時、足音が止まった。上の人たちも下の人たちも、一斉に立ち止まったようだった。
踊り場に、男が一人立っていた。白いシャツを着て、両手を背中で組んでいた。社員証も誘導の腕章もない。
「お疲れさまです。こちらでお待ちください」
私たちへ、そう言った。
下へ降りる階段の前を塞いでいた。私は後ろの人が詰まるので、と伝えた。男は笑ったまま動かなかった。

小野が小声で、担当の方ですか、と訊いた。男は彼を見た。笑顔のまま、首を少し傾けた。
「まだ、練習の途中です」
隣の会社の女性が、実際には火が出ていないんですよね、と訊いた。男は頷かなかった。
上の階で、ドアが閉まる音がした。足音が私たちのほうへ下り始めた。私は男の横を通ろうとした。彼が片手を出した。手のひらが、ひどく白かった。

梶原さんが後ろから来た。
「何で止まってんの」
事情を説明すると、彼は男へ、このままだと人が詰まると言った。男は同じ言葉を繰り返した。
梶原さんはため息をつき、私たちへ振り向いた。
「下、行こう」
男へ触らず、手すり側を通った。私も続いた。男は止めなかった。小野が横を通る時だけ、顔を近づけた。
「早いですね」
褒めるような口調だった。

一階の通用口を開くと、外には大勢の人がいた。全員がビルへ向かって立っていた。隣の会社の社員かと思ったが、誰も話していない。服は普段着で、鞄も持っていなかった。
私たちが出ると、人々は左右へ分かれた。道を空けてもらったのだと思い、私は会釈した。誰も頭を下げなかった。

歩道の端に管理室の人がいた。見覚えのある中年の男性だった。私は今日の訓練のことを尋ねた。
「訓練?」
彼はビルを見上げた。放送が鳴ったと話すと、首を振った。
「今、設備の業者と地下にいましたけど。何も」
隣の会社の女性も聞いたと言った。管理の人は、待っていてください、と建物へ向かった。周囲の人々が、一斉に彼へ顔を向けた。
私は彼の腕を止めた。

階段で見た男が通用口から出てきた。まだ笑っていた。白いシャツの胸元には、薄い灰色の粉がついていた。男が右手を上げると、歩道の人々が少しずつ入口へ進んだ。
管理の人が、どちらの会社ですか、と声をかけた。誰も答えなかった。人々は私たちの間を通り、ビルへ入っていった。

私たちの会社の人間を数えると、一人足りなかった。篠原さんだった。まだ来ていないのかと思い、携帯へ電話した。呼出音が鳴った。
小野が私の袖を引いた。
三階の窓で、篠原さんが手を振っていた。顔が窓へ近すぎて、額が白く潰れて見えた。ほかの窓にも人がいた。口を大きく動かしていたが、外までは何も聞こえなかった。
篠原さんは、自分の背後を何度も指した。

梶原さんはもう通用口へ向かっていた。私も走った。入口へ進む人の列は、歩いているのに足音がしなかった。すれ違うと、冷房の風に似た冷たさが袖を通った。顔を見られなかった。私はその人たちの肩を避け、階段へ入った。

一階上へ上がると、小野もついて来ていた。
「外で待って」
私は言った。彼は返事をせず、私の先の段を見た。
白い手が、手すりの下から出ていた。人が転んだのかと思った。ところが手首の続きは、壁と段の隙間に入っていた。私の足首より下の狭さだった。指が何度か閉じ、引っ込んだ。
私たちは中央を通って、三階まで上がった。

事務所の入口は開いていた。篠原さんが床に座っていた。書類の入った袋が足に絡まり、片方の靴が脱げていた。
「立とうとすると、引かれる」
彼女は泣きそうな声で言った。梶原さんが袋を取り、椅子を押し退けた。私と小野で両側から支えると、篠原さんは立てた。小野は足元に落ちていた片方の靴を拾い、自分の上着のポケットへ入れた。
ただ、一歩目に踏み出す足を、本人が選べないようだった。右も左も、同じくらい持ち上がりかけ、すぐに床へ戻った。

私は膝を低くし、篠原さんの肩を自分へ預けた。梶原さんが反対側へ入り、小野が前で道を空けた。
事務所では誰も作業していないのに、あちこちで椅子が鳴った。電話の受話器が持ち上がる音がした。キーボードの短い音。窓の外で、何人もの顔がこちらを見ていた。三階の窓なのに、歩道にいた人々が、外側から覗き込んでいた。
梶原さんは見なかった。篠原さんの足だけを見て、ゆっくり下ろせばいい、と言った。

階段を下りる間、篠原さんは何度も礼を言った。謝るのと交互だった。私は、話さなくていいから息をして、と言った。
踊り場で、白いシャツの男が待っていた。
「まだ、残っている方がいます」
私は振り向きそうになった。梶原さんが、全員来た、と言った。男は彼を見て、また笑った。
「では、終了です」

通用口を出ると、道路には普通の車が走っていた。私たちの社員と隣の会社の人が待っていた。管理の男性は外で業者と話していた。大勢の人影は、もうなかった。
篠原さんを椅子へ座らせると、自分で足を動かせた。靴を履き直し、もう大丈夫と言った。誰も、そのまま仕事へ戻ろうとは言わなかった。梶原さんも、今日は外で連絡を取ろう、と言った。

設備の点検では、放送装置が勝手に作動した記録はなかったと聞いた。白いシャツの男を見た人は何人もいたが、業者にも管理会社にも該当する人はいなかった。
会社は一日休業し、翌日から少しずつ元へ戻った。篠原さんの机には、椅子の脚の間に入っていた袋が置かれていた。私は彼女が自分で捨てるまで触らなかった。袋は普通の紙袋で、書類も普段のものだった。

金曜日の本来の訓練は延期になった。梶原さんは、次から外へ出る時には一緒に行こう、と私に言った。小野はカレンダーの印を消した。
「早かったですね、僕」
彼がふと言った。
「何が」
「あの人に、そう言われたから」
私は、早く出られてよかった、と答えた。小野は首を傾げ、そうですね、と言った。

ひと月後、管理室で落とし物の確認を頼まれた。火曜日に事務所の前の廊下で拾ったという、社員証の紐だった。何本も重なり、青いものと黒いものがあった。会社の名前はない。名札の部分は全部空だった。
私は知っているものがないと伝えた。

帰りにビルの前へ立つと、三階の自分たちの窓が見えた。梶原さんが窓際で電話をしていた。私に気づき、空いた手を小さく上げた。
その後ろから、もう一つ手が上がった。
白い手が、梶原さんの肩越しに、ゆっくりと開いた。

私は携帯を取り出した。梶原さんへ、窓から離れて、と送った。
既読がついた。彼は何も訊かず、その場を離れた。
白い手だけが、窓に残った。

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