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よく選んだ

恵は、梨を自分で選べるのが楽しみだった。店では袋の底にあるものまでは見られない。持ち帰ってから傷を見つけると、得をしたつもりだった分だけ腹が立った。木になっている梨なら、ぐるりと見て選べる。二千円の参加費を払う時にも、そのことを考えていた。

誘った同僚は前の晩に来られなくなった。一人では寂しいかもしれないと思ったが、起きてから取り消すのも面倒だった。駅からバスを乗り継いで来てみると、家族連れが一組いるだけで、思ったより落ち着いていた。受付の女性が小さな籠を渡してくれた。北田と名乗り、持ち帰りの分はあとで重さを量ると説明した。

「一つ召し上がっていってね。取ったのを、あそこへ持ってきてくれれば」
北田が指した先には、畑仕事に使うような流し台があった。白いひさしの下に、丸椅子が四つ並んでいる。恵は一番大きな梨を先に食べて、小ぶりなものを家へ持って帰ろうと思った。こんなことまで同僚と相談せずに済むのが、少し楽だった。
「一人でも、ゆっくりしていって」
北田に言われ、恵は、ありがとうございます、と答えた。一人で来たことを気に掛けられるのは苦手だったが、北田はそれ以上尋ねず、流しの脇の石鹸を水のかからない方へ寄せただけだった。

低く広がった枝の下へ入ると、葉が髪に触った。実はどれも袋から出されていて、黄緑の中に、茶色がかったものもあった。色だけでは分からないですね、と言うと、北田は、こっちの列なら大丈夫、と隣を指した。恵はかがんで移り、枝の端の丸い実を両手で包んだ。表を向け、底を見てから、教わったように持ち上げた。

その時、葉の擦れる音が、妙にはっきり聞こえた。
よく選んだ、という意味だった。声ではなく、重なった葉が離れる、薄く乾いた音だった。なのに恵は、褒められたと思って笑いかけた。隣には誰もいない。北田はさっきの列で、籠に敷く紙を直していた。恵は自分の頬に手を当て、そのまま髪を耳へ掛けた。

取った梨は、表も裏も同じ黄色をしていた。枝にあった時には茶色く見えたところが、もう分からなかった。陽の当たり方が違うのだろう。籠へ入れるのは惜しくて、手で持ったまま流し台へ行った。
「いいのがありました」
北田は受け取り、少し重みを確かめてから水を流した。洗った表面は黄色く、つるりとしていた。恵が探していた梨より、きれいすぎる気がした。

北田はまな板へ載せ、包丁の刃をへたの脇へ当てた。果汁が手につくのを避けるように、袖口を一度引いた。それから真ん中まで刃を入れ、左右に割った。恵は何も言わずに、丸椅子から立った。

切り口が黒かった。傷んだ芯の黒さではなかった。皮のすぐ内側まで白い果肉があり、その中をくり抜いたように、夜の枝が見えた。手前に一本、奥に細い枝が何本も重なっている。いずれも、半分の梨の厚みには収まらない遠さにあった。北田が片方を傾けると、切り口の縁が枝の下を隠した。

「虫が入ってます?」
恵はそう聞いてしまった。北田は答えず、包丁の先を黒いところへ入れた。果肉に当たる音がしない。刃は半分ほど消え、切り口の奥で、銀色のものが枝に触れた。北田がすぐに引くと、包丁には小さな葉が一枚ついていた。濡れても汚れてもいない、本物の葉だった。

ひさしの向こうは晴れていた。親子連れが籠を見せ合い、子供が低い枝を避けて歩いていた。あちらが全部見えるところにいて、恵は、自分が暗い小屋に閉じ込められたように感じた。切り口だけに明かりが届かない。日陰でも、穴でもない。夜の木を覗く時に目の奥が痛む、あの暗さがあった。

「これは食べないで。別のにしましょう」
北田は二つの半分を合わせようとした。枝が一本、切り口からはみ出た。指ほどの太さの枝だった。反対の半分に突き当たると、細い皮に穴が開き、先が突き出した。北田が手を引いたので、梨はまな板へ落ちた。乾いた木の音がした。

枝の根元は、梨の中へ続いていた。先のほうはもう、まな板から十五センチほど出ていた。伸びる芽を早回しで見るような動きではなかった。向こうで長い枝を押し込んでいるように、同じ太さの部分がずるずる出てきた。細かい節が一つ通り過ぎると、また別の節が現れた。

葉が二枚、ひさしの光を受けた。
まだ早い。
恵にはそう聞こえた。朝まで待つつもりだったものが、急に明るくされた。その文句だった。どうしてそんなことが分かるのか、考える余裕はなかった。北田が枝をつかもうとしたので、恵は腕を押さえた。
「今、触らないほうが」
「何か見えた?」
恵は口を開いたが、北田へ説明する言葉が出なかった。触られるのを嫌がった音ではない。こちらを明るくするな、と言われている。自分でも意味がつながらず、ただ腕を放した。

北田はまな板ごと流しへ移した。梨の穴から、枝が何本もあふれた。台の縁に当たり、行き場を変えるように曲がった。そのたびに黒い切り口の中で、さらに奥の枝が揺れた。手前の一本と触れ合っているのだと分かった。小さい物が梨の中で育っているのではない。向こうには木があって、ここへ押されている。

北田は入口へ向かって、今日はもう終わりにしてください、と叫んだ。親子連れの母親が顔を上げた。北田は手を大きく振り、籠はそのままでいいと重ねた。父親が子供を抱き上げるところまで、恵にも見えた。何事かを尋ねる声がしたが、北田は返事をせず、恵にも先に外へ出るように言った。

自分の鞄は、流し台の下へ置いてあった。恵がしゃがむと、黒い影が鞄の上を横切った。流しの中から出た枝が、ひさしに届いていた。突き当たった先が割れて、二つになったのではなかった。最初から二股だったものが、狭い切り口から抜け出したのだ。枝がひさしを押す音を聞いて、恵は手を引っ込めた。

「鞄はあとで持っていくから」
北田はそう言い、脇の小屋へ入った。戸を開け放したまま、長い鋏を持って出てきた。恵はひさしの外まで下がっていた。ここからなら畑の道をまっすぐ歩けば帰れた。北田が鋏の刃を枝へ当てるのを見て、せめて道具を持つところくらいは手伝おうと戻った。

切れた枝は、流しへ落ちた。次に、切断面より太いものが出てきた。北田はそれを見て鋏を下ろした。流しの縁を越え、幹に近いところが一息にせり上がった。まな板が傾き、包丁が下へ落ちた。恵は足を引いて避けた。切るほうが追いつかない。北田が鋏を握ったまま後ずさりし、恵も一歩退いた。

ひさしが音を立ててたわんだ。留めてある端の一つが外れ、白い布が斜めに下がってきた。北田の帽子が落ちた。髪に布がかぶさり、その上を枝が押した。恵は丸椅子を横へ蹴り、北田の肩に掛かった布をつかんだ。引いても抜けない。北田は腰を曲げ、両手で顔の前を空けようとしていた。

葉擦れは、ひどく近く聞こえた。明るいほうを塞げ、という意味が、恵には分かった。次には、まだ一つ開いている、だった。そこで恵は流しを見た。枝の出ている半分は横を向き、まな板の下へ押し込まれていた。もう半分が、流しの手前で切り口を上へ向けていた。そちらの暗さには枝が少なく、向こうの空が少し見えた。

恵は梨へ手を伸ばした。やめろと言われると思った。けれど葉擦れは、近い、近い、と喜ぶように重なった。指で切り口を塞ぐのがいいのか、持ち上げるのがいいのか、まったく分からなかった。言葉が分かることと、相手が何なのか分かることは別だった。北田が布の下で片膝をつくのを見て、恵はただ、梨を横へ払った。

割れた半分は、足元に落ちた。皮を上へ向けて止まった。それでも周りの土へ、夜の色がにじんでいる。恵は靴の底で踏んだ。逃がすように実が転がり、枝が北田の背をさらに押した。恵はもう片方の足を上げ、踵を梨へ下ろした。果肉の柔らかさが、体重を掛けたところから一度に潰れた。

足の下で、大勢が一緒に立ち上がったような葉擦れがした。
恵はもう一度、踏んだ。何を怒っているのかが分かる前に、足をねじった。靴底に皮が滑り、踏ん張るために流しの縁をつかんだ。北田の肩から白い布が落ちた。幹が流しを押す音はやんでいた。枝が倒れ、上から乾いた葉が降ってきた。

恵は北田の腕を取り、ひさしの外へ連れ出した。二人とも立てた。北田の額に細い血が一本流れ、右の手の甲が赤く腫れていた。恵も指の付け根を切っていた。誰かが入口から走ってきた。さっきの父親だった。携帯電話を持ち、こちらを見ながら何か叫んでいた。

恵は振り返った。流しから突き出していた幹は、そのまま残っていた。長い一本ではなく、絡んだ細い枝が木の形に重なっている。根も葉のついた上の方もない。それがひさしを破って、空へ向いていた。流しの中の半分には、もう暗い切り口がなかった。砕けた果肉と、引きちぎられた木の皮が散っていた。

北田が恵の顔を覗いた。何か言っていた。
口の形も声も、よく知っている日本語のものだった。恵は聞き返した。自分が、え、と声を出したのは分かった。北田はゆっくり話し直し、恵の手を取った。父親が走ってきて、その手へ白いタオルを巻いた。二人の話す内容が、恵には一つも分からなかった。

耳は聞こえていた。北田の低い声と、父親の鼻に掛かった声を、聞き分けられた。靴で土を擦る音も、道路を走る車の音もした。北田がもう一度話した時、恵はその音を覚えておこうとした。さっきの葉が、どのように鳴ったのかも言い直せない。葉の音が分かった時にも気味が悪かった。人の言葉のほうが分からなくなることなど、思ってもいなかった。

父親が携帯を見せた。画面に、気分は悪いですか、と打ってあった。恵は読めた。それで泣きそうになった。声ではうまく答えられず、首を振ってから、自分の耳を指した。父親は画面を引き寄せ、また何か打った。北田は恵の背に手を添え、入口へ向かって歩き出した。

畑の道を抜ける時、葉が鳴った。来た時にくぐった、ごく普通の梨の枝だった。恵は耳を塞いだ。タオルを巻かれた手ではうまく押さえられず、北田がその手を下ろそうとした。何かを繰り返し言っていた。恵を心配しているのだとは、顔を見れば分かった。

葉の音だけが、手の内側まで届いた。
今度はこっちを見ろ、と、幾つも重なっていた。恵は北田の袖をつかみ、足元だけを見て歩いた。北田が立ち止まるたび、恵はその袖を引いた。

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