荷物を載せていない籠が、重そうに下りてきた。
山田は柱の横へ立ち、吊られた籠の底を見た。みかんの箱を六つほど運べる、大きな鉄の籠だった。中は空で、側面の格子から向こうの斜面まで透けている。それでも索は深く垂れ、動力の小屋ではモーターが低く唸っていた。
「下りだけ、こうなるんです」
畑の持主の真壁が言った。三十代の女だった。動きがおかしくなったので見てほしいと、修理を頼んできた。山田は鉄工所に勤め、農家の荷運び設備を直すこともあった。ただ、谷を渡すこの古い索道を見るのは初めてだった。
索道は山腹の畑と、麓の小屋をつないでいた。畑へ上がる道はあるが、細く曲がっている。収穫した箱を背負って下りるのは骨が折れるので、真壁の祖父が作らせたという。設備の資料は小屋の壁へ袋に入れて掛けてあった。山田はそれを外し、傷んだ部品から順に確かめた。
真壁は籠を着地点へ止めた。下へ脚立を置き、底板を見るよう山田へ言った。何かが当たる音がするときがあるらしい。山田はまず電源を切り、動かない状態を確かめた。真壁は少し離れ、両手で自分の肘を抱えていた。
籠の下へ入ると、草の匂いがした。
みかんの匂いでも機械油でもない。暑い畑で、人が踏んだ草の匂いだった。山田が顔を上げると、底板へ浅い凹みが幾つもあった。上から箱を落とした跡かと思ったが、凹みは外側へ膨らんでいるのではなく、籠の内側へ押されていた。下から持ち上げた跡だった。
「何か、ぶつけました?」
真壁は首を振った。
「通る人もいないです。この下」
谷には、斜面へ倒れかかった木と茂みがあった。人が歩ける道には見えなかった。
底板に耳を近づけると、砂を踏む音がした。山田は頭を下げ、足元を見た。自分は脚立の同じ段に立っていた。音は板の奥から続いていた。右足、左足と、ゆっくり進んでいる。
彼が脚立を下りると、音も止まった。
動力側では制動の部品が傷んでいた。交換が必要だった。山田は写真を撮り、部品を取り寄せるあいだ使わないよう伝えた。真壁は畑を見上げた。もう収穫してしまった箱が、上の小屋に積んであるという。傷ませる前に下ろしたかった。
「一回だけ、下ろせませんか」
「止まらなくなる方が怖いので」
山田が答えると、真壁は分かりましたと言った。
三日後、部品を持って行った。籠は同じ位置へ止まっていたが、小屋の前にはみかんの箱が積んであった。使ったのかと聞くと、真壁は弟と担いで下ろしたと答えた。弟は畑の方にいると言った。山田は上を見た。遠くの屋根の下へ、何人かの人影が動いていた。
「手伝いを頼んだんですね」
真壁は曖昧に頷いた。
修理のあいだ、彼女は箱を開けて選別していた。時々、傷んだ実を別の籠へ放る。音は柔らかかった。山田が古い部品を外すと、その音が頭のすぐ上でした。みかんが落ちたのだと思い、振り返った。何もなかった。小屋の屋根の下へ、薄い泥が一筋ついていた。
真壁が、また上から来た、と言った。泥の筋は屋根の端へ続き、山田の頭の真上で止まっていた。
「弟さんが、歩いたんじゃ」
山田は自分で言ってから、その高さを見た。地面から三メートル近くある。真壁は作業を見ていた。
「上から下りてくるんです。実も、足音も」
「籠を止めてても?」
真壁は頷いた。
山田は手を止めた。上の畑を見せてもらうことにした。真壁は案内せず、道を教えた。弟に声を掛けるよう言われ、山田は道具を小屋へ置いて上がった。
畑には誰もいなかった。みかんの木が何段にも並び、取り残した実が葉の陰へ見えた。上の小屋は開いており、中には空の箱しかなかった。籠の来る位置へ、軍手が一双揃えてあった。土を払ったばかりのように、細かな葉が周囲へ散っていた。
山田が真壁を呼ぶと、下から返事があった。それより近いところで、別の声も返った。畑の土の中からだった。山田が足を止めると、畝の間で枯れ枝が折れた。誰かがすぐ後ろへ立ったのかと思ったが、木の影しかなかった。
「まだ上へいる?」
真壁が下から呼んだ。山田は、いる、と答えた。土の下で同じ返事が重なった。
畑から降りると、真壁が弟へ電話していた。帰ったら見に来てほしい、と言っていた。弟は町で別の仕事をしていて、今日は最初から来ていなかった。
「さっき、いるって言いましたよね」
山田が聞くと、彼女は電話を切り、長く黙った。
「一人だと言うと、やってもらえないと思って」
「何を」
「使えるようにしてもらうのを」
真壁は上の畑で収穫しているあいだ、誰かに手伝われていたという。姿は見ない。箱が少し遠くへあっても、次に手を伸ばすと近くへ来ている。脚立を移そうとすると、もう隣の木へ向いている。初めは祖父の使っていた場所に、自分が慣れていないだけだと考えた。やがて片づけた箱が小屋へ並ぶようになった。
祖父が亡くなった日に始まったのかと山田が聞くと、前からだと言った。祖父は畑へ行くと誰もいない場所へ声を掛けていた。ただ数を数えているのか、誰かを呼んでいるのか、子供だった真壁には分からなかった。
「止まったら、下へ来るんです」
籠が動かなくなってから、小屋の屋根へ泥がついた。何もない場所で実が転がり、真壁の肩へ触れたという。
山田は修理をやめると即答できなかった。止めたままなら安心だと、三日前に自分が言った。今聞かされている話では、その間に何かが下へ来ている。だが、動かせばよくなるとも言えなかった。真壁は彼の答えを待っていた。
部品の交換だけは済ませた。人を下へ入れず、空の籠を動かして状態を見る。山田が説明すると、真壁は小屋の外へ立ち、運転のスイッチへ手を置いた。下りはやはり重かった。上へ返すと、軽い音で動いた。最初の着地点の近くへ来るたび、底板の下から、靴で土を踏む音がした。
山田は籠の下を見た。籠は人の背より高く、地面とのあいだに脚が見えた。ズボンの膝から下だけだった。何人もが籠の底へ肩を入れ、歩いているように見えた。山田は真壁へ止めるよう手を上げた。籠が止まると、脚も止まった。
一人が足を踏み替えた。靴の底へ、赤い糸が絡んでいた。山田が三日前に履いていた作業靴にも、同じ色の紐を結んでいた。踵の取っ手が裂け、応急に付けた紐だった。今日も履いている。彼は自分の足へ目を落とした。紐はあった。籠の下にも、同じようにあった。
山田は小屋から離れた。真壁はスイッチから手を離し、追いかけてきた。
「これで使えるんですか」
彼女は切迫した声で聞いた。山田は答えなかった。籠の下の脚は見えなくなっていた。動力が止まっているのに、草を踏む音だけが道まで続いてきた。
二人で畑を出た。弟が車で来るまで道路で待った。山田は見たものを順番に話し、真壁は頷いた。弟は姉を車へ乗せ、こちらへ頭を下げた。修理代については後日連絡すると言った。山田は、そのことではないと答えたが、何を頼めばよいのか分からなかった。
索道は使われなくなった。壊したのではなく、動力を切ったままだった。山田が鉄工所へ戻って相談すると、ほかの者で一度見に行こうという話になった。彼は止めなかった。一人で見たことを自分だけの問題として片づけられる方が、怖かった。
後日行った二人には、異常は分からなかった。部品の交換も問題ないという。畑の作業は別の業者へ頼み、箱は道から運び出したと聞いた。真壁から礼状が届いたが、山田は返信していない。
工場で働いていると、誰もいない位置から道具が近くへ寄ることがある。山田は触らず、隣の者へ頼んで取ってもらう。その人には普通の場所にあるので、不思議な顔をされる。説明はそのたびに変わった。腰が痛い、手が汚れている、そこが届かない。以前はそんなことを人に頼む方ではなかった。
冬の朝、出勤前に玄関で靴を履いていると、台所にいる妻が言った。
「きょう、何人で行くの」
一人だと答えた。妻は廊下まで出て、玄関の上がり框を見た。靴は山田の一足しか出ていなかった。
「みんな、先に出たの?」
彼女が戸へ手を掛けたので、山田は引き止めた。
戸の向こうで、誰かがしゃがんだ。山田は靴紐を結ぶ手を止めた。これから玄関を出る自分の足の裏へ、もう、硬い肩が入っていた。


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