池の底で、伯父が帽子を脱いだ。首の汗を拭いているのだろうと思ったら、帽子を逆さにして、何かをすくう格好をした。
「まだ、いるな」
何が、と私が聞くと、伯父は帽子の中を見せた。水が少し入っていた。小さなものが二つ、光って動いた。
池には、そのとき、水がなかった。
祖父の家の裏山に、小さな溜め池があった。子供のころは近寄るなと言われたが、実際に行ってみると拍子抜けするほど小さかった。山の斜面を削って作ったもので、反対側は低い土手になっていた。水を抜くと底まで歩ける。深いところでも、せいぜい大人の背丈ほどだと伯父は言った。
その年、取水口の周りを直すことになった。田へ水を入れる時期を外して、数軒で作業をする。私は仕事を辞めたばかりで、暇なら手伝えと伯父に呼ばれた。日当は出なかったが、伯父のところで飯を食べさせてもらっていたので断れなかった。
朝、池に着くと、底は黒い泥になっていた。足を置けば沈むが、水溜まりは隅に少し残るだけだった。伯父と近所の二人が先に下り、腐った枝を集めていた。
「上は乾いて見えても、下は柔らかいから」
そう教えられ、私は土手の際を歩いた。長靴を抜くたび、泥が空気を吸う音がした。
帽子の中で光ったものは、伯父が指を入れると見えなくなった。小魚なのか虫なのか、私には分からなかった。
「どこですくったの」
「ここ」
伯父は自分の足元を指した。泥の上だった。
帽子の縁から、水が落ちた。雫は泥に当たる前に、伯父の膝くらいの高さで広がった。薄い輪がひとつでき、すぐ消えた。
私は目を擦った。伯父は何も気にせず帽子をかぶり直し、枝を拾い始めた。
「反対側へ行くなよ。まだ水、残ってるから」
反対側にも、乾いた枝と泥があった。
十時の休憩で土手に上がると、ほかの二人は普通にお茶を飲んでいた。私が水のことを聞くと、一人は、ああ、抜けきらんな、と言った。もう一人は、どこに、と聞き返した。
二人で池をのぞき、東の隅だとか、そこは影だとか言い合った。伯父は煙草を吸いながら、日が当たれば分かる、と笑った。
午後になっても分からなかった。むしろ、日が当たるほど変に見えた。池の底に置いた白いバケツの、取っ手だけが揺れていた。風はなかった。近づくと、伯父の膝の高さに、淡い光がいくつも浮いていた。
それが目の前を横切ったとき、私は思わず手で払った。
指先が濡れた。
服に拭くと、小さな泥の粒が残った。もう一度、同じ高さへ手を伸ばした。何も触れなかった。
伯父が、何してる、と聞いた。
「水が」
私は途中でやめた。自分でも何を説明したいのか分からなかった。
作業を終えて道具を引き上げた。池の底に、石が一つ残った。人の頭ほどの丸い石で、取水口を直すのに邪魔になる。伯父が明日でいいと言ったので、そのままにした。
翌朝行くと、石は胸の高さにあった。
浮いているのではなかった。下に、昨日は見えなかった細長い胴があった。泥に埋まっていた石柱が、一晩で出てきたように見えた。周りの泥の高さは変わっていない。昨日置いた枝の束も、同じ場所にあった。
私は伯父を呼んだ。
伯父は土手から見下ろし、何だ、まだそこまであるのか、と言った。
石のことを言っているのだと思ったら、水のことだった。
「昨日より上がったんですか」
「そんなはずはないんだけどな」
伯父は一度も、石が伸びたとは言わなかった。
昼前に、近所の須藤さんが息子を連れてきた。高校を出たばかりの子で、夏までは部活をしていたという。名前は健太だった。よく働き、私が引きずっていた枝を二束まとめて運んだ。
丸い石を見て、あれも動かすんですか、と聞いた。
「どう見える?」
私が訊き返すと、健太は困った顔をした。
「普通に、石ですけど」
「高さ」
健太は手で、膝より少し下を示した。
私は土手の杭に目印をつけた。自分が見ている石の頭と同じ高さに、紐を巻いた。健太にも自分の見える高さに印をつけてもらった。二つの紐の間は、ずいぶん離れていた。
須藤さんに見せると、見る場所が違うからだろうと言われた。同じ場所に立っても違うと説明したが、忙しいからあとにしろと叱られた。
健太は気にしていないようだった。池の底に戻ると、石の周りの泥をスコップで除けた。私は土手から道具を下ろしていた。健太の頭が、少しずつ低くなった。腰をかがめ、石の下へ手を入れているのだと思った。
やがて膝をついた。顔が石に近づいた。
「そこ、深いぞ」
伯父が言った。
健太は顔を上げず、はい、と返事をした。声が少しこもっていた。私は土手を下りた。
健太の口元から、泡が上がった。
泥の上、何もない空間を、小さな泡が二つ、ゆっくり上がった。健太は石に両手をかけ、目を開けていた。頬が膨らみ、髪がふわりと持ち上がった。
私は首の後ろをつかんだ。
「何ですか」
健太が顔を上げた。濡れていなかった。嫌そうに肩をすくめた。
「大丈夫か」
「何がですか」
須藤さんが土手から、おい、遊んでるな、と言った。私は手を離した。健太は耳を掻き、泥が入ったみたい、と言った。
私は作業をやめようと伯父に話した。水が見えないだけで、あそこにはある。そう言うと、伯父はしばらく私の長靴を見た。
「お前には、ないのか」
初めて聞くような声だった。
「池、空ですよね」
伯父は返事をしなかった。健太と須藤さんが、枝の束を引き上げる声がした。
伯父は昔、この池で魚を捕ったという。水を落とし、残った溜まりから拾う。誰もが同じところに魚を見つけるわけではなかった。泥を探す人も、水に手を入れる人もいた。
「そういう池なんだと思ってた」
伯父は言った。
私は腹が立った。
「危ないってことじゃないですか」
「何が危ないか、分からんかったんだよ」
午後の作業は中止にした。須藤さんは不満そうだったが、伯父がそう言うならと引き下がった。道具を片づけるとき、健太がバケツを取りに下りた。石の向こうに置いてあったので、少し回りこんだ。
私は土手から、そっちへ行くなと声をかけた。
健太は足を止めた。池の底に立ち、片手を上げた。指を一本立てていた。あと一個、と言いたいのだと思った。
それから、帽子を脱いだ。
私には彼の腰から下しか見えなくなった。上半身が、水面の向こうへ折れて見えた。透明な板を斜めに通して見ているように、顔の位置がずれていた。
須藤さんが駆け下りた。私はその後ろから下り、健太の腕をつかもうとした。見えているところへ手を伸ばしても触れなかった。少し右側で、袖に触れた。布は冷たく濡れていた。
健太は息を吐いていた。吐くたび、何もない空間に泡が散った。
伯父が私たちへ棒を差し出した。須藤さんがつかみ、私は健太を引いた。脚は泥に埋まっていなかった。普通に立っていた。それなのに、こちらへ動かすには、重い水を割って引くような力が必要だった。
土手へ上がると、健太は咳きこんだ。口から水が出た。シャツの肩から上だけがびしょ濡れだった。須藤さんは息子を横向きにし、伯父に救急車を呼ぶよう言った。
私は震える手で電話をかけた。池で溺れた、と説明すると、水から上げましたかと聞かれた。はい、と答えた。見下ろした池は、黒い泥だけだった。
健太は病院へ運ばれ、その日のうちに呼吸は落ち着いた。念のため一晩泊まり、翌日には家へ帰れた。須藤さんは見舞いに行った私たちを、責めなかった。それがかえって怖かった。私の顔を見ず、息子のことだけを話した。
健太は、石の上に立っていたと言った。
「足、濡らしたくなかったから」
泥の底を歩いていたはずだと言うと、足場を飛んでいたんです、と説明した。本人には、小さな石がいくつも水面から出ているように見えたらしい。
「最後のだけ、沈んだんです」
私が見た丸い石のことではなかった。健太には、あの石はずっと水の下にあったという。
池の工事は業者に頼むことになった。伯父たちは事情を話したが、話を聞いた人が何と思ったかは知らない。機械を入れる道を作り、土手の上から作業をした。私も手伝いには行かなかった。
石柱のように見えたものは、古いコンクリートの管だった。写真を見せてもらった。泥に横倒しになり、片側の縁だけが出ていた。長さは私の見た高さほどあったが、立ってはいなかった。
伯父は写真を見て、こんなものだったのか、と言った。須藤さんは何も言わなかった。
取水口は直り、池にはまた水を入れた。満ちた水面を見ると、どこに何があるか分からないことが、むしろ普通に思えた。私は土手の杭に巻いた紐を外した。自分の印も、健太の印も、どちらも水面より下にあった。
そのあとで、伯父がつけた印を見つけた。私の背より上にあった。いつつけたのか聞くと、健太が運ばれた日の午後だと言った。
「そんなに、あったの」
伯父は池を見た。
「お前らの顔、出てなかったからな」
私は笑いかけて、やめた。伯父は冗談を言う顔ではなかった。
「俺が下りたら、引き上げるやつがいなくなると思って」
棒を差し出したとき、伯父には私たち三人が、頭まで水に沈んでいるように見えていたという。
今は帰省しても池へ行かない。伯父は変わらず田へ出ている。健太は町の会社に勤め、一度会ったときには、あの話を笑ってしていた。私が笑わないので、途中から別の話に変えてくれた。
去年、伯父から写真が届いた。池の土手に獣除けの柵を立てたから、もう心配しなくていいという。写真には、柵と、夕方の水面と、向こうの竹林が写っていた。
柵のいちばん上の針金に、小さな光がいくつも並んでいた。
伯父に聞くと、そんなものは写っていないと言った。私は写真を大きくした。光の列は、池の上を通り、柵を越えて、手前まで続いていた。
伯父が立って撮った場所の、少し上だった。


コメント