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欠勤者の声

森さんは、その日、休みだった。朝礼で班長がそう言ったし、更衣室の靴もなかった。それなのに、包装室から「次、流して」と聞こえたとき、誰も手を止めなかった。

私も止めなかった。声はよく通った。森さんの、少し鼻にかかった、語尾だけ短くなる声だった。言われるまま空箱を載せてから、今日は休みじゃなかったか、と思った。

菓子の工場で働いていた。大きな会社ではなく、土産用の焼き菓子を何種類か作っていた。私は箱に仕切りを入れる係で、森さんは一つ先の台にいた。作業台の間に積んだ箱で、腰から上が見えないこともあった。声だけで返事をするのは、いつものことだった。

昼休みに隣の人へ聞くと、朝からいるよ、と言われた。
「でも、欠勤って」
「誰かと間違えたんじゃない」
休憩室に森さんはいなかった。喫煙所にもいなかった。彼女は煙草を吸わない人だったが、私は一応のぞいた。

午後の仕事が始まると、また声がした。
「そっち、一箱足りない」
数えると本当に足りなかった。私は補充の箱を持って森さんの台へ行った。誰もいなかった。椅子は台の下へ入れ、手袋は棚に置いてあった。
包装機の向こうで班長が機械を調整していた。私が立っていると、早く戻って、と言った。

森さんは翌日、普通に出勤した。私は更衣室で、昨日、具合が悪かったんですか、と聞いた。
「病院。定期の」
それだけ答え、上着を脱いだ。私は声の話をしようとして、やめた。工場では似た声の人もいる。思い違いなら、相手を気味悪がらせるだけだった。

昼前、森さんが箱を取りに来た。
「昨日、これ、仕様変わった?」
仕切りの向きを訊かれた。昨日から変わったと答えると、森さんは眉を寄せた。
「私、昨日これやったよね」
「休みでしたよね」
「そうなんだけど」

森さんは手袋を外し、左の人さし指を見せた。紙の縁で切った細い傷があった。昨日、私が落とした箱を拾って切ったのだという。私は箱を落としていた。午前中、台から一束落とし、隣の人に手伝ってもらった。
その人の顔を、思い出せなかった。

森さんは笑って、夢でまで仕事してるのかな、と言った。私も笑った。それで済ませたかった。
けれど、彼女が病院で支払った領収書を昼休みに見せてきたとき、私は何も言えなかった。時刻は十時半を過ぎていた。箱を落としたのと、ほとんど同じ時間だった。

次の月、私の給料が一日分少なかった。欠勤控除がついていた。私は皆勤のはずだった。事務所へ行くと、十六日は休んでいます、と言われた。
「その日は新しい箱が来た日です。私、受け取りました」
事務の人は出勤簿を出した。私の欄には斜線が引いてあった。

タイムカードを押し忘れたのではない。紙のカードには、出勤と退勤の時刻があった。それでも出勤簿は休みになっていた。事務の人は、班長に確認します、と言った。
私は戻る途中で森さんに話した。森さんは自分の明細を開いた。
「私も、前にあった」

休んだことになっていた日、森さんは班長に頼まれて残業をしていた。工場の外まで二人で歩き、帰りに弁当を買ったことも覚えていた。班長は、その日は別の人に頼んだと言ったという。
「直してもらったんですか」
森さんは明細を畳んだ。
「押し間違いって。カード」

私の分は訂正された。受領印を押した納品書が残っていたからだ。事務の人は謝り、翌月の給料で戻すと言った。班長も、悪かったな、と言った。その場で怒り続ける理由はなくなった。

ただ、十六日に私が倒れたと、パートの古川さんが言った。
「段ボールのとこで、しゃがんでたでしょう」
私は森さんがしゃがんでいるのを見たと答えた。気分が悪いのかと思い、水を持っていった。森さんは、紙の束が足に当たっただけだと言ったはずだった。
古川さんは私の顔を見て、そうだったかな、と口をつぐんだ。

私たちは三人で休憩室に集まった。仕事の話なら班長にと言われそうなので、帰りの車の相談をするふりをした。
古川さんは、私を椅子へ連れていったと言った。森さんは、私に水を貰ったと言った。私は、森さんを休ませたあと台へ戻ったと覚えていた。
三人とも、水の入っていたコップが青かったことは覚えていた。

「班長は、何て」
森さんが聞いた。
私は出勤簿の話をした。古川さんは、それで休みにしたのかな、と言った。倒れたから欠勤という意味ではなかった。誰が休んだか分からなくなり、誰か一人の欄を休みにしたのだろう、という口調だった。

私は古川さんを見た。
「それ、駄目じゃないですか」
古川さんはうなずいた。うなずいたまま、食堂の時計を見ていた。
「でも、声はしてたからね」

森さんが次に休んだ日、私は彼女の台に箱を置かなかった。班長には、手が足りないので順番を変えてください、と頼んだ。包装機の速度を落とし、隣の人と二つの作業を受け持った。
朝から何度も、森さんの声がした。
「次、流して」
誰も返事をしなかった。

声は段々いらついた調子になった。遅い、とまでは言わなかった。けれど、森さんが本当に忙しいときと同じように、語尾が短くなった。私は間違えないよう箱を見ていた。森さんの台を見ると、仕事をさぼって困らせている気持ちになった。

昼休みになっても、声は止まらなかった。包装機の電源を切り、部屋の灯りを半分落としたあとも、「次」と聞こえた。
古川さんが入口で立ち止まった。
「もう、お昼だから」
言ってしまってから、私を見た。

奥で椅子が鳴った。台の下から引き出される音だった。
古川さんは扉を閉めた。二人で廊下を歩いていると、後ろから足音がついてきた。白い長靴の、床に吸いつくような音だった。私は振り向かなかった。古川さんは振り向いて、それから私の腕をつかんだ。

食堂にはいつも通りの人がいた。私たちは空いている席へ座った。弁当を開けても食べられなかった。古川さんの隣の椅子が、少しずつ後ろへ動いた。誰も触れていなかった。
向かいの人が、そこ誰か来るの、と聞いた。
古川さんは頷いた。

その日の午後、森さんから私に電話があった。仕事中なので出られず、休憩でかけ直した。
「今日、そっちで、何か言った?」
私は声のことを話した。昼休みだと言ったらついてきた、と言うと、森さんは長く黙った。
「今、うちの台所にいる」
「誰が」
「私、玄関から出られないの」

森さんは病院から戻ったところだった。鍵を開ける前に、中で水道が出ている音がした。台所の窓から見たら、自分が弁当箱を洗っていたという。
「こっち向かないんだよ。呼んでも」
私は電話を持つ手を変えた。食堂のほうで椅子を引く音がした。
森さんが小さく、今、休んでいいって言ったら、と続けた。
「手、止めた」

彼女はその日、妹の家へ泊まった。翌日、家へ戻ると誰もいなかった。弁当箱は乾いて、布巾の上に伏せてあった。入れていないはずの箸が、二膳並んでいた。
私は、工場へ来ないでください、と言った。森さんは、分かってる、と答えた。代わりに、給料だけはちゃんともらいたい、と言った。

私は事務所で事情を話した。声のことを言うと話が終わりそうだったので、まず勤務記録の食い違いを出した。森さんの同意をもらい、過去の明細とカードを見比べた。同じように休みとされた日が、ほかにもあった。
班長は、その場で初めて知ったような顔をした。古川さんは机の端を見ていた。

記録を直し、足りなかった分を払うことになった。いつから間違っていたか、全部を確かめることはできなかった。古いカードは残っていなかった。
「これで、戻るんですかね」
事務の人にそう言われた。
私は給料の話だと思って、はい、と答えた。事務の人は、森さんの席のほうを見ていた。事務所から包装室は見えない。それなのに、誰かのいる位置を確かめるように見た。

森さんは退職した。挨拶に来た日、工場の中へは入らず、玄関で皆に菓子を配った。自分たちが作っているものとは違う、柔らかい饅頭だった。私は初めて、森さんに小さな孫がいることを知った。休む日は病院のあと、その子のところへ行っていた。
「お迎え、頼まれててね」
森さんは少しうれしそうに言った。

私も年末に辞めた。工場が怖いからだけではなかった。ほかに働けるところが見つかったし、働いた日を働いたと説明するのに疲れていた。
最後の日、古川さんが弁当を一緒に食べようと言った。空いている椅子を一つ、机の下へ押しこんでから、私を隣へ座らせた。

「私、あのとき、誰を連れてきたんだろう」
古川さんは卵焼きを箸で切りながら言った。
私は分かりませんと答えた。
「ここで休んでな、って、言ったんだよ」
古川さんの箸が止まった。
「戻っていいとは、言ってないんだよね」

今も古川さんから、たまに電話が来る。仕事の愚痴が多い。機械が替わったことや、新しく入った人のことを話す。私が黙って聞いていると、まだ起きてる、と確かめる。
起きてますよ、と答えると、よかった、と言う。

一度、夜遅くに電話が鳴った。古川さんの番号だった。出ると、工場の機械の音がした。
「今日、お休みでしたよね」
知らない女の人が聞いた。
私は、もう辞めています、と答えた。

電話の向こうで紙をめくる音がした。機械の音が少し小さくなった。
「でも、お声がしてるので」
私は何も言わなかった。
「一度、来てもらえませんか。ご本人から、休んでいいって」

断って電話を切った。すぐに古川さんへかけ直したが、出なかった。
翌朝かかってきた電話では、何も聞かず、まず、今どこにいますか、と訊いた。古川さんは自宅だと答えた。私は、朝ご飯は食べましたか、と続けた。

「食べたよ」
古川さんは笑った。
私は、何を食べたかまで聞いた。ご飯と、昨日の煮物と、納豆。その話を、途中で遮らずに聞いた。電話の向こうに包み紙の擦れる音がしないことを、ずっと確かめていた。

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