三枝は、古い服の直しを受けるとき、まず持ち主に着てもらった。服だけ預かっても、どこが合わないかは分からない。痩せたから詰めたいという人でも、実際に見れば、肩の位置を少し変えるだけで済むことがあった。
灰色のワンピースを持ってきた女は、着るのは娘です、と言った。娘は入口に立ち、店の床を見ていた。三十くらいだろうか。薄いシャツと紺のズボンを着ていた。
「お母様のですか」
三枝が聞くと、女は一度うなずき、それから首を傾げた。
「そうね。母のでもあったけど」
娘は、服を見なかった。女が紙袋から出し、作業台に広げても、入口から動かなかった。三枝は本人にも話を聞きたくて、どんなふうに着たいですか、と尋ねた。
娘が口を開きかけると、女が先に答えた。
「写真と同じに」
古い白黒写真だった。庭で、ワンピースを着た女性が椅子に腰かけていた。裾の線がきれいに広がっていた。写真は端が切られ、女性の横に伸びた手が、手首のところで途切れていた。
「丈を少し短くして、肩を合わせるんですね」
三枝が言うと、女は満足そうに笑った。
寸法を測るため、娘に奥へ入ってもらった。名前は葉子といった。母親は、ここで見ていていいでしょう、と椅子を引いた。三枝は、カーテンの外でお待ちください、と頼んだ。仕事の決まりだった。服を脱ぐときに母親がいて平気な人ばかりではない。
葉子はワンピースを着る前に、小さく息を吐いた。
「これ、着るんですよね」
「肩を見るだけですから。無理なら、体の寸法だけでも」
葉子は首を振り、服へ腕を通した。背中のファスナーを上げると、顎を少し引いた。体に比べて服は大きく、特に腰のあたりが余った。
それなのに、葉子は苦しいと言った。
三枝がファスナーを少し下ろすと、母親が外から声をかけた。
「背中、丸めてるんじゃない?」
三枝はカーテンを見た。向こうからこちらは見えないはずだった。
葉子は背を伸ばした。両手が膝の前で重なった。さっきまでズボンのポケットに手を入れていた人が、急に別の座り方を覚えたようだった。
採寸を終え、葉子が服を脱ぐと、左の脇腹に赤い筋が三本ついていた。縫い代が当たったのかと思い、三枝は服の内側を調べた。その部分に縫い目はなかった。
「肌、弱いんです」
葉子はすぐにシャツを下ろした。
直し代を伝えると、母親は財布から倍近い額を出した。急がせる分です、と言ったが、仮縫いは一週間後でいいという。三枝は余分を返した。母親は受け取らず、足りなかったら言ってください、と笑った。
娘の葉子は、三枝ではなく、作業台の写真を見ていた。
二人が帰ったあと、三枝は裏地をほどいた。表の布はしっかりしていたが、裏地は何度も替えたらしかった。縫い糸の色が違い、手縫いの跡とミシンの跡が重なっていた。
肩の内側に、名前を書いた細い布があった。今の服のタグとは違う、端を細かくかがった布だった。
文字は「富美」。その下からもう一枚出てきた。「和枝」。さらに下に、字がかすれた一枚があった。三枝は剥がさず、重なりを元へ戻した。持ち主が代わるたび縫いつけたのだろう。ただ、普通なら、前の名前は外す。
腰を詰めるためにしつけ糸をかけると、布がねじれた。左右を合わせ直しても、片側が余った。裁ち方が特殊なのかと写真を見た。座った女性の膝の上には、何もなかった。けれど、片方の手は、そこに誰かがいるように少し浮いていた。
三枝は紙に型を写し、元の縫い目を確かめた。腰の脇だけ、過去に幅を出した跡があった。色の似た別の布を細長く継ぎ足していた。こんな直し方をするなら、全体を作り替えたほうが早い。そう思い、継ぎ目をほどきかけたとき、店の奥で子供が鼻を啜った。
三枝は手を止めた。孫は来ていなかった。通りを歩く子の声かもしれない。窓を見てから、作業へ戻った。
糸を一本抜くと、また鼻を啜った。今度はすぐ近くだった。三枝は椅子を引き、服を机に置いた。
布の下で何かが動いたわけではない。服は平らなままだった。それなのに、自分の膝に、小さな肘を載せられた感触があった。重くはなく、長く座っていて片足が痺れるときのように、そこだけ圧迫された。
三枝が立つと、感触は消えた。
夜、店を閉めてから葉子から電話が来た。母には言わないで、と最初に頼まれた。
「裏に、名前があると思うんです」
三枝はあると答えた。
「取ってもらえますか」
「古いものも全部?」
「全部。できれば、服を直す前に」
三枝は理由を聞いた。葉子は長く黙り、母親が来月引っ越すことを話した。長く住んだ家を売り、葉子の近くで暮らす予定だった。家の中を片づけていたら、この服が出てきた。
「それから、母が、私にこれを着せたがって」
「記念に?」
「最初は、そうだと思いました」
葉子は、母親から家族写真を貰ったという。子供のころの写真をアルバムから外し、封筒に入れて渡された。
全部、母親のところだけが切り取られていた。
「私の顔は、そのままなんです。父も、祖母も。でも母だけいない」
三枝は机の写真を見た。端で切れた手は、椅子に座った女性へ伸ばされていた。
「お母さんに聞いた?」
「もう、いらないって。自分のは」
葉子はそこで声を詰まらせた。
「私、小さいとき、祖母が嫌いだったんです」
三枝は黙って聞いた。
「母にくっついてると、離れなさいって怒るから。母の膝、私の場所じゃないって」
仮縫いの日、母親は一人で先に来た。三枝の椅子へ座り、直しが難しかったかと聞いた。三枝は、腰の継ぎ足しを外すか相談したいと言った。
母親は椅子から腰を浮かせた。
「そこは、残して」
「娘さんには余ります」
「余っていいんです」
三枝は服を広げた。母親は脇の布を撫でた。指が震えていた。三枝には、寒い日に誰かを慰める手つきに見えた。
「お母様も、これを着ていたんですよね」
母親はうなずいた。
「ええ。私も、同じくらいの年で」
「着たくて?」
母親は三枝を見た。笑いかけたが、口元だけが動いた。
葉子が来ると、母親はすぐに立ち上がった。服を渡し、奥で着てきなさいと言った。三枝は母親と葉子の間に立った。
「今日は、名前の布を外してからにします」
母親の手が服から離れた。
「それ、娘が言ったの?」
葉子はうなずいた。母親は娘の顔を見ず、服のほうを見た。
「駄目よ」
強い口調ではなかった。小さい子へ熱い鍋を触らせないときのような声だった。
葉子が、誰に言ってるの、と聞いた。
店の奥で椅子が鳴った。カーテンの内側に、誰かが座ったようだった。三枝は葉子の手を取った。母親は、ああ、と短く声を漏らした。
「仮縫いだから」
母親は奥に向かって言った。
「まだ、決まってないの」
葉子が帰ろうとした。三枝が扉を開けると、母親が服を抱えて追った。
「これだけ持っていって」
葉子は受け取らなかった。
「お母さんの物でしょう」
母親の顔が歪んだ。
「私のじゃない」
三枝は二人を店に戻した。通りで争わせたくなかったし、服をどちらかへ押しつければ済むとは思えなかった。母親は椅子へ座り、裾を膝に広げた。布が床へ垂れた。
葉子はその向かいに立った。三枝が椅子を勧めても座らなかった。
母親は、自分がこの服を着た日を、仮縫いの日だったと言った。祖母に似合うと褒められ、写真を撮った。それから、祖母は自分の写った写真を片づけ始めた。母親の前で、丁寧に切った。
「何かあるんだって、分かってた。でも、私にも分からないの」
母親は膝の布を押さえた。
「いつも、誰かがここにいるの。立っても、歩いても」
葉子は、だから私に渡すの、と言った。母親はうなずいた。それから、違う、と首を振った。
「これを着たら、分かってくれると思った」
「分かりたくない」
葉子が言った。大きな声だった。母親は目を閉じた。
三枝ははさみを出した。母親が息を呑んだ。
「切るの?」
「名前だけ、外します。娘さんの分は、つけません」
母親は服を強く抱いた。三枝は無理に取らず、手を下ろした。決めるのは持ち主だ。長くこの仕事をしてきて、そこを越えたことはなかった。
葉子が母親の隣に座った。膝の布へ触れず、母親の手を取った。
「私は、いらない」
ゆっくり言った。
母親は娘の手を握り返さなかった。しばらくして、服を三枝へ差し出した。
三枝は肩の糸を切った。名前の布を一枚ずつ外し、小皿へ置いた。富美、和枝。その下のかすれた名前は読めなかった。最後の布の下に、縫い糸だけが残っていた。ほどくと、糸は予想より長く、するすると出てきた。
奥の椅子が、もう一度鳴った。
母親が膝を押さえた。葉子がその手に手を重ねた。三枝は二人の顔を見ず、糸を抜き終えるまで作業を続けた。
服は、同じ灰色の服だった。腰の脇の継ぎ足しだけが、机の上で小さく膨らんでいた。
直しは取りやめになった。代金を返そうとすると、母親は受け取らなかった。三枝は作業した分だけを残し、封筒に入れて葉子へ渡した。
服と名前の布は、母親が持ち帰った。三枝は捨て方を教えられなかったし、何が解決したとも言わなかった。
それから葉子は、何度か自分の服を持ってきた。ズボンの裾や上着の袖だった。母親の話はしなかった。三枝も聞かなかった。話さなければ保てる距離があるのだと、年を取ってから知った。
一年ほどたった冬、葉子がコートを着て来た。受け取りに来ただけなのに、奥の椅子へ座っていいかと聞いた。
三枝は暖房を強くした。葉子は手袋を外し、両手を膝の前で重ねた。
その座り方を見て、三枝は針を置いた。
葉子はすぐに足を組み替えた。三枝の視線に気づいていた。
「母の真似って、残るものですね」
笑って言ったが、笑い終わる前に、片手で自分の脇腹を押さえた。
三枝は椅子を隣へ運び、コートを見せてもらった。灰色ではない、よくある紺色のコートだった。内側の名札入れは空だった。
葉子が、何もつけていません、と言った。
三枝はうなずいた。それでも手を離せず、葉子が立ち上がるまで、コートの脇の縫い目を指で押さえていた。


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