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午前四時の洗濯物

母は、洗濯物に名前を書く人だった。靴下にも肌着にも、油性ペンで大きく書いた。介護施設から持ち帰った母の服を整理するとき、自分の下着にまで旧姓を見つけて、私は少し笑った。まだ実家にいたころ、母が勝手に書いたものだろうと思った。

その下着は捨てた。母の服と一緒の袋に入れた。それだけは、いまでもよく覚えている。

母が死ぬ三年前、私は小さなアパートに住んでいた。病院の調理補助をしていて、早番の日は四時半に家を出た。部屋に洗濯機を置けない代わりに、裏の物干し場に二台あって、百円で使えた。大家の滝沢さんが電気をつけ、雨の降りそうな日は住人の洗濯物を庇の下へ入れてくれた。

入居して半月ほどの朝、その滝沢さんに声をかけられた。
「悪いけど、そこ、ちょっと押さえて」
大きな洗濯ネットの口が閉まらないのだという。中身は濡れた寝具らしかった。私は鞄を足の間にはさみ、両手で押した。滝沢さんはファスナーを引きながら何度も礼を言った。

「いつもこんな早くに?」
「起きちゃうからね。あとで届けるの」

一階の奥に寝たきりのご主人がいる、と別の住人から聞いていた。昼間に顔を合わせたことがないのも、そのせいだと思った。私は洗濯ネットから手を離すと、濡れた指をスカートで拭いた。何か言い忘れたような気がして立ち止まったが、電車の時刻が迫っていた。

翌朝も、滝沢さんは同じものを洗っていた。洗濯機の脇に白いシャツが落ちていて、拾うと、襟に「たきざわしげる」と書いてあった。首の後ろが擦り切れた、薄い生地だった。
「旦那さんの、落ちてました」
そう言ったとき、滝沢さんが片手を洗濯槽に突っ込んだ。何かをつかまえようとするような、急な動きだった。

「名前は読まなくていいの」
叱る口調ではなかった。私は余計なことをしたらしく、シャツを渡して仕事に出た。

それから何日かして、部屋のインターホンが鳴った。午前四時前だった。寝坊したと思って起き上がり、受話器を取ると、女の人が「できあがりました」と言った。
「何がですか」
「洗濯物です」
まだ頭が働かず、私は「ありがとうございます」と答えた。下へ行ってみると、洗濯機はどちらも空で、物干し竿にも何もなかった。

帰宅したあと滝沢さんに聞いた。頼んでいない洗濯物を勝手に洗ってもらったのかもしれず、その場合、どこまでお礼をするべきか迷っていた。
「うちのは玄関で鳴るだけでしょう」
滝沢さんは私の部屋のほうを見た。

部屋の前には押しボタンしかなかった。受話器はついているのに、訪問者が話すための穴がない。引っ越してきた日に確認しておくようなことでもなく、私はそのとき初めて気づいた。前の設備を残してあるだけだと滝沢さんは言った。
「昔、下で洗濯屋をしてたの。受け渡しを知らせるのにね」

あの場所はかつて店舗で、ご主人がやめたあと、一階を住居にしたらしかった。古い配線が混じっているのだろうという話になった。私が不安そうな顔をしていたのか、滝沢さんは電気屋に聞いておくと言い、夕方には大根の煮物を持ってきた。器を返すついでに、ご主人はお加減が悪いんですかと尋ねた。
「そうね。もう長いね」
奥ではテレビがついていた。音が大きく、誰かがリモコンを探しているらしい気配がした。

そのころ母からの電話が増えていた。出てもたいした用はなく、庭の草を抜いたとか、近所の店が閉まったとか、同じ話を繰り返した。夜勤明けに眠りを起こされて腹が立ち、一度、用事がなければかけないでと言った。母はしばらく黙り、冷蔵庫にきゅうりが三本あるのだと答えた。

母の家へ行ってみると、きゅうりは十本以上あった。牛乳も、まだ封を切っていないものがいくつもあった。私は休日に通って冷蔵庫の中を整理するようになり、洗濯物も持ち帰るようになった。母の家の洗濯機は壊れていると言われたが、どこが壊れているのか、母の説明では分からなかった。

最初に持ち帰った袋に、父のシャツが入っていた。父は私が高校生のときに死んでいる。ほかの物に混じって押し入れから出てきたのだろう。黄ばんだ襟を見て、捨てる前に一度洗っておこうと考えた。

その翌日の早朝、インターホンから男の人の声がした。
「まだかね」
私は受話器を持ったまま、壁の時計を見た。四時十二分。早番ではない日だった。
「どなたですか」
「まだ乾かんかね」
父の声ではなかった。舌が歯に引っかかるような、知らない老人の声だった。切ったあとも、私はパジャマの膝を両手で押さえて座っていた。洗濯物が乾いたかどうか、母の家から持ってきた物のことを、誰が知っているのだろう。

午前中に電気屋が来た。顔見知りらしく、滝沢さんとは庭の柿の話をしていた。受話器を外した裏側を私に見せて、「これじゃ鳴りません」と言った。呼び鈴は別の線で、受話器のほうにはつながっていない。
「線、つけときます?」
私は外したままにしてくださいと頼んだ。

その夜はよく眠れた。次の夜も鳴らなかった。週末に母のところへ行くと、洗濯物の袋が玄関に用意してあった。
「お父さんのは、もういいって」
台所から母が言った。
「何が」
「取りに来たから。昨日」

私は袋を開けた。母の服だけだった。前の週に持ち帰った父のシャツは、洗って、乾かして、アパートの押し入れに入れてある。そのことを説明しても、母は昨日の来客が置いていったという饅頭を探すばかりだった。食器棚から出てきたのは、空になった海苔の缶だった。

アパートへ帰ると、干しておいた母のタオルがきれいに畳まれていた。洗濯籠の上に載っていた。私は滝沢さんに礼を言いに行き、ついでに、ここの洗濯物を誰かが取りに来ることはあるかと聞いた。
「ああ、お母さんの」
滝沢さんは、私が持っている袋に目を落とした。
「名前、消してから洗ったほうがいいよ」

最初にシャツを拾った朝のことを思い出した。私は、どうしてですか、と聞いたつもりだったが、声が小さかった。滝沢さんは聞き返さず、私の手からタオルを一枚取った。端に縫いつけた白い布に、母の名前があった。
「これ、ほどけるから」

滝沢さんの指が器用に糸を抜いた。私はそれを見ながら、母がいつ布を縫いつけたのか考えた。服には昔から直接書いていたのに。母の家には同じ白い布がたくさんあった。買い物の袋の口を留めたり、鍵に結んだりしていた。

「ご主人の名前も、消したんですか」
滝沢さんの指が止まった。
「消したよ」
「でも、この間」
「あれは書くの」

奥から、足を引きずる音が聞こえた。畳の上を、一歩ずつ近づいてきた。私は顔を上げたが、滝沢さんはタオルを畳み直していた。
「返してあげて。お母さん、探すでしょう」

翌朝、出勤前に物干し場を通った。滝沢さんは洗濯機の前の丸椅子に座り、シャツに名前を書いていた。老眼鏡をずらし、ペン先を何度も襟に押しつけている。そばに濡れたシャツが三枚あった。どれも同じところに、同じ名前が書いてあった。

私は見ないふりで通りすぎようとした。その背中へ、洗濯機の中から、昨日の足を引きずる音が聞こえた。水をかき回す音ではなく、畳を踏んで、擦って、また踏む音だった。立ち止まると、滝沢さんが顔を上げた。
「いってらっしゃい」
いつもの声で言った。その一言に押されて、私は門を出た。

職場で包丁を落とし、主任に帰れと言われた。代わりの人がいないので、昼まで座って皮むきをした。帰りの電車で母に電話をかけた。声を聞いたら少し落ち着くだろうと思った。
「お母さんの名前、服に書かないで」
「書かないと分からなくなる」
「誰が」
「誰だったかしらねえ」
母は笑ってから、私の名を呼んだ。幼いころの、短い呼び方だった。私は車内で泣いた。何を説明しても、母にはもう覚えておいてもらえない。そのことが、あの洗濯機よりつらかった。

部屋へ戻ると、外して壁にかけたままの受話器が、かすかに鳴っていた。大きなベルではない。耳に当てる側から、金属を爪で弾くような音がした。
私はコードの切れた端を見た。床にも壁にも触れていなかった。

受話器を取ったのは、母の声がしたからだ。
「できあがったよ」
私は答えなかった。
「取りにおいで」
「何を」
「あなたの」

それきり静かになった。受話器を台所の流しに置き、水を出そうとしてやめた。私は下へ走った。

私の白いブラウスが、洗濯槽の縁にかけてあった。昨日着て脱いだものではない。胸のボタンを別の色でつけ直した、まだ高校生だったころの物だった。襟の内側に、母の字で私の名前があった。洗濯槽の中をのぞかないようにして、それをつかんだ。布の向こうからも誰かがつかんでいた。

引っ張り合ったのはほんの少しだったと思う。こちらが手を離さないと知ると、向こうはゆっくり緩めた。その指の動きを、私は布越しに感じた。洗濯物を受け渡すときの、相手がきちんと持つまで放さない手つきだった。

滝沢さんは一階の窓から見ていた。私はブラウスを抱えたまま、「お母さんは生きてます」と言った。もう一度言った。滝沢さんは窓を開けずに、うなずいた。

その月のうちに、私は母の家へ戻った。母の洗濯機は壊れていなかった。ただ、脱水の途中で時々止まり、蓋を開けて洗濯物をほぐす必要があった。私は洗濯が終わるまで台所にいた。母が手を出そうとすると、私がやるから、と引き受けた。

施設に入ったあとの母は、私を姉の名前で呼ぶようになった。洗濯物はもう施設で洗ってくれた。それでも面会に行くたび、持って帰るものはないかと聞いた。母は首を振り、空の膝を両手で撫でた。

死ぬ二日前、珍しく私の名前を間違えなかった。
「まだ、取りに来ないね」
何のことか聞くと、母は私の袖をつまんだ。ほつれでも見つけたのかと思って腕を寄せると、手首をしっかり握られた。弱った母に、こんな力が残っていたことが驚きだった。
「ここにいなさい」
私は椅子を近づけて、はい、と返事をした。

母の服を袋に詰めたのは、そのひと月後だった。私の下着にあった名前は、幼いころの短い呼び方ではなかった。旧姓まで、きちんと書いてあった。ペンのインクがまだ濃かった。

収集の朝、袋を出す時間になっても、私はなかなか玄関から動けなかった。四時を少し過ぎた台所で、洗濯機が終了を知らせた。洗濯をしたのは前の晩で、蓋も開けてあった。短い音が一度して、それから、もう一度した。

私は玄関で靴を履いた。袋の口を結び直しているあいだ、呼ばれても返事をしないように、自分の名前を小さな声で言い続けていた。

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