真帆は、運転席へ座ると先に私のシートベルトを見た。
「締めたよ」
私が引っ張ってみせると、そこで初めてエンジンをかけた。昨日から車に乗り始めた人みたいだったが、免許を取ったのは二十年以上前だ。ずっと運転していた夫と別れて、一人で動かせるようになりたいと言い出した。空いている所で付き合ってくれる人が、私しか思いつかなかったらしい。
私たちは同じ弁当屋で働いていた。パートの女の人は六人いて、私と真帆だけ歳が同じだった。今は二人とも別の仕事をしているが、安くて量の多い店を見つけると連絡を取り合う。真帆は道を決めるのを私に任せ、私は注文を決めるのを真帆に任せた。店へ入る時にも、食べて出る時にも、どちらが先に立つかを考えたことはなかった。
練習するのは、市民会館の駐車場だった。午前の催しが終わると西側が空く。前の日に受付へ相談したら、端の二列なら短い時間使ってよいと言われた。ほかの車が来たらすぐにやめる約束だった。真帆は許可をもらった話より、受付まで私が電話したことの方に恐縮した。
「そういうの、私がやればよかったね」
「たまたま昼休みに思い出したから」
私はそう答えた。本当は、真帆に任せると来週になると思っていた。
小さな灰色の車は、真帆が結婚前から乗っていたものだった。私は助手席へ何度も乗ったことがある。後ろのバンパーに白い擦り傷があり、真帆は、これは自分が付けた、と先に言った。夫のせいにはしないのだと思って黙ったが、その後で、若い頃あんたも隣にいたでしょ、と言われた。
車止めへぶつけた時の傷だった。私は、忘れてた、と答えた。真帆は少し笑った。
一度目は、ひどく斜めに入った。線を見ながらゆっくり戻すつもりが、私は途中で右と言い、真帆がハンドルを右へ回すと、そうじゃなくて車のお尻、と言った。
「今、どっちの右?」
そう訊かれると、説明する方も分からなくなった。いったん出よう、と言うと、真帆は唇を舐めてから前へ動かした。私が大丈夫と繰り返すほど、肩が上がっていく。
そこで助手席を降りた。車の外から見た方が、どれくらい寄っているか分かる。私が運転する時、横から口を出されると腹が立つくせに、その時は降りれば親切になると思っていた。真帆は窓を下げ、私を見た。
「後ろには立たないでよ」
「分かってる」
私は空いた隣の枠へ入り、運転席の窓が見える所に立った。
二度目はうまくいった。少し左へ寄ったものの、両方の線の中に収まった。真帆は窓から顔を出し、そっち、出られる、と私に訊いた。私は助手席のドアを半分ほど開けてみせた。
「余裕。線も踏んでないよ」
真帆はエンジンを止めずに笑った。もう一回だけやって、昼を食べようということになった。
車が前へ出てから、向こうの列に同じ灰色の車が停まっているのに気づいた。二本向こうの列で、お尻をこちらへ向けていた。よくある車だった。今も道で同じ形を見かける。それでも、その車のバンパーに白い線があったので、つい見た。傷の途中に、細く枝分かれしたところがあった。真帆の車の傷も、そこだけ二つに分かれていた。
真帆は私の前で止まり、窓から、今のところへ戻ればいい、と訊いた。私は頷いた。灰色の車は動かなかった。運転席に誰かがいるようには見えず、窓には会館の白い壁が映っていた。入ってきた音は聞かなかったが、練習ばかり見ていたので、見落としたのだと思った。
三度目の後退が始まって、私はその車をもう一度見た。真帆の車の前輪と同じ向きに、向こうの後輪が曲がっていた。前輪だと思い直したが、赤いランプと番号のついた側がこちらを向いていた。後ろのタイヤが、外へ向いている。私が眉を寄せたところで、真帆が、これ以上、と声をかけた。
「まだ。あと少し」
反射で答えた。真帆の車は線へ斜めに入ってきていた。
鈍い音がした。
車止めまでは一メートル以上あった。けれど真帆はすぐに足を止め、体ごとこちらを向いた。
「今、当たった?」
私は車の後ろへ回らず、横から下を覗いた。タイヤと車止めの間には、日が当たった地面が見えている。バンパーにも何も触れていなかった。
「何もないよ。石、踏んだんじゃない」
真帆は自分で降りて確かめたかったらしい。エンジンを止め、私のいる側へ来た。後ろの傷をしゃがんで撫で、新しくなったところはないと言った。私も横で見た。車止めには何もついていない。二人が同じ車を囲んでいる間に、隣の列でドアの閉まる音がした。
あの灰色の車が、すぐ隣へ来ていた。
一本の白線を挟んで停まっていた。動くところは、どちらも見ていない。真帆が立ち、私より先に車の後ろを見た。
「同じ傷だね」
言い方がまだのんびりしていた。私たちの車の傷と、向こうの傷を交互に指した。それから、自分の指をポケットへ入れた。
向こうの車の後部座席に、青い袋があった。端に赤い字で弁当と書いてある、昔の店の保冷袋だった。私が勤めを辞める日に真帆が惣菜を詰めてくれた。それから長く使い、底が破れたので去年捨てた。赤い字の横に、洗っても落ちなかった茶色い染みが見えた。袋は後部座席に立ててあり、口に挟んだ洗濯ばさみまで見覚えがあった。
「私の袋がある」
真帆は、何、と窓へ近づいた。私は袖を引いたが、その手をすぐ放した。真帆は腰をかがめ、車内を覗いた。運転席にも助手席にも、誰もいなかった。後部座席の袋を見て、ああ、と言いかけて黙った。私たちの車には、真帆の買物袋と、小さな箱のティッシュしか載っていない。
背後で、またドアが閉まった。
振り返ると、私たちの車を挟んで反対側にも灰色の車があった。その向こうにもう一台、奥の列に二台。向きはばらばらだった。会館側を向いた車も、通路へ鼻先を出した車もあった。後ろをこちらへ見せている車には、同じ白い傷がついていた。後ろを向けた一台の、斜めになった後輪がゆっくり真っ直ぐへ戻った。
真帆が鍵のボタンを押した。目の前にある私たちの車が光った。同時に、隣の車も光った。少し遅れて、奥の二台も黄色いランプを点滅させた。
「押さないで」
私が言うと、真帆は鍵を握り込んだ。私たちの車のランプは消えたが、隣の車はもう一度光った。奥では、まだ点滅していた。
駐車場の入口を見た。入ってくる車はいなかった。受付のある建物までは、五十メートルほど歩けばよかった。私はそっちへ行こうと言った。真帆は頷いたが、運転席へ戻った。
「鞄、取る」
ドアを開けて上体を入れた時、向こうの車のドアも開いた。誰も降りてこなかった。どの車からも、空いた運転席だけが見えた。
真帆が座ってしまったので、私はまた声を上げた。
「もう動かさなくていいよ」
「足元に置いたから、届かないの」
その返事のあとで、車が後ろへ動いた。エンジンは止まったままだった。真帆の片足は外へ出ていた。私は運転席のドアへ寄り、止めて、と言った。真帆は足を中へ戻し、何かを強く踏んだ。車は止まったが、後ろから、紙を何枚も一度に破くような音がした。
後部座席が前へ動いていた。
座席を畳んだのではない。後ろの窓も、両側のドアも、座席と一緒に近づいていた。白い天井が縦に折れ、そこから灰色の粉が落ちた。私は一歩下がり、車の側面へ目を戻した。車の長さは変わっていなかった。外のバンパーは、車止めに届かない位置のままだった。
「出て」
私が叫ぶと、真帆はドアの縁をつかんだ。立ち上がりかけた肩へ、後ろから運転席の背もたれが当たった。シートが前へ押され、真帆の膝が下へ曲がった。背もたれの隙間から、後部座席の赤い縫い目が見えた。本当にすぐ後ろまで来ていた。
私はドアから離れた。
手を伸ばしたわけでも、何かを探したわけでもない。後ずさりして、隣の車へ背中をぶつけた。真帆の肩が見えた。こちらへ伸ばした手も見えた。つかめばよかったと思うのは今だからで、その時の私は、自分まで中へ入ることしか考えられなかった。
隣の車が、私の背を押した。車体が動いたのではなかった。閉まっていた窓が外へ膨らみ、私の肩甲骨の下へ当たった。私は横へ逃げた。靴を脱ぐような格好で片足を引き、白線をまたいだ。さっきまで背中のあった窓には、細いひびが一面に走っていた。
真帆は運転席の下へかがんでいた。頭をドアの外へ出し、肩をひねり、片方の膝を地面へついた。私は名前を呼んだ。真帆は答えず、両手で地面を押して立ち上がった。鞄は持っていなかった。右足の靴が脱げ、車の敷居に横向きに残っていた。
二人で建物の方へ走った。真帆の歩幅がおかしかったが、私は振り返るのをやめられなかった。並んだ車の窓が、一台ずつ白く曇っていった。内側で押された天井が、ガラスに当たるほど下がっていた。運転席のドアを開けた車から、青い保冷袋がゆっくり落ちた。底が破れ、中から弁当の容器ではない、錆びた金具がこぼれた。
受付へ入ると、真帆が先に事情を話した。私が車とだけ言って口を止めている間に、駐車場で動けなくなったこと、車内で足を挟みかけたこと、誰か来てほしいということを順に話した。受付の男性は真帆を椅子へ座らせた。私は立ったまま、自分の背中を服の上から触っていた。指に細かなガラスがついた。
男性が窓のそばへ行き、こちらを振り返った。駐車場には灰色の車が何台も残っていた。遠くからだと、ただの車の集まりに見えた。私たちの車がどれかと訊かれ、真帆は、ドアが開いているものです、と答えた。開いたドアは一つではなかった。男性は指を上げかけて下ろし、ほかの職員を呼んだ。
私は真帆の前へしゃがんだ。右の靴下に血がにじんでいた。擦りむいたらしい足の甲へ、受付で借りたタオルを当てていた。
「引っ張ればよかった」
私が言うと、真帆は顔を上げた。
「何を」
「手。私、見てたのに」
真帆はしばらく私を見て、それからタオルへ目を戻した。大丈夫とも、気にしないでとも言わなかった。言ってもらうつもりでしゃがんだことが、急に恥ずかしくなった。
職員が二人、外へ出た。私たちは窓のそばに並んだ。灰色の車の一台から、クラクションが鳴った。続いて少し離れた一台も鳴った。最初の車はやまなかった。途中で窓の内側から白い粉が噴き、音がひどく低くなった。外の二人が足を止め、建物の方へ戻ってきた。
真帆が窓から離れた。私も後についていった。
「真帆」
呼ぶと、真帆は玄関の椅子で立ち止まった。右足を床から上げ、左の靴の紐をほどいていた。靴を片方借りられるか訊いたが、まだ見つからないのだと教えてくれた。私は鞄から財布を出した。近くで履物を買ってくる、と言うつもりだった。
玄関の前で、黄色いランプが光った。灰色の車が、ガラス戸から二メートルほどの所に停まっていた。真帆は鍵を持っていなかった。鍵は受付の机へ、金具を伸ばしたまま置いてあった。車の運転席のドアが、こちらへ開いた。敷居には真帆の靴が、履く人を待つ向きで揃えてあった。さっき脱げた右だけでなく、まだ真帆の手にある左も、その隣にあった。


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