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まだ見ている

奈緒は、絵より先に喫茶室の献立を見た。
志津が入場券を買っている間に、もう窓際の席まで確かめていた。栗のケーキがある、と戻ってきて言ったので、志津は財布を閉じながら、先に食べていてもいいよ、と答えた。
「一緒に来たのに?」
「待つの嫌いでしょう」
「お姉ちゃんの、一枚が長いんだもん」
二人分の券を渡すと、奈緒は礼を言い、半券を自分の鞄へ入れた。志津の分まで持っていくのは、昔からだった。

町立の美術館は、以前は銀行だったという建物だった。床の石はそのまま残り、受付の横に、使われていない分厚い扉があった。地元の画家が描いた人物画の展覧会をしている。志津は駅でポスターを見た時から来たかった。描かれていたのは、台所の椅子へ腰掛けた女の人だった。帽子も花も持たず、片方の靴下だけを脱いでいる。その姿を、ゆっくり見てみたかった。

志津は四十六、奈緒は四つ下だった。別々に暮らすようになってからは、会うたびに何か用事を済ませていた。母の冬物を出すとか、壊れた掃除機を買いに行くとか。今日は奈緒の方から、暇ならどこかへ行こうと電話してきた。美術館、と答えると、また長いやつ、と笑ったが、迎えの時間を聞いてくれた。

展示室は二つあった。最初の部屋には大きな油絵が並び、奥の部屋には、腰ほどの高さの仕切りと、裏も表も灰色の移動式の壁が立っていた。絵はそれぞれ二枚ずつ掛かっていた。人が多い時は順路が分かるのだろうが、その日は空いていて、どちらへ歩いてもよさそうだった。最初の部屋との間は広く開き、移動式の壁の両側から行き来できた。

「喫茶室、三時半までだって」
奈緒が時計を見せた。まだ一時間近くあった。
「分かってる」
「忘れるから言ってるの」
奈緒は先へ行った。志津は返事の代わりに、目の前の説明板へ顔を寄せた。制作年を読んだが、すぐに忘れた。言われる前から時間を気にしていたことを、妹に知られたくなかった。

ポスターの女は、奥の部屋にいた。
思っていたより小さい絵だった。膝の上へ置いた手の甲が赤く、後ろの流し台に洗った鍋が伏せてある。片方だけ脱いだ靴下は、椅子の横木に引っ掛かっていた。志津は入口で見た印刷物と比べようとして、女がこちらを向いていないことに気づいた。

顔を横へ背けていた。頬の一部と耳だけが見えた。ポスターでは確か、正面を向いていたはずだった。志津は二歩離れ、また近づいた。女の視線の先には何も描かれていない。台所の壁が、茶色く塗られているだけだった。

「その辺、通れないよ」
長椅子に座っていた男が言った。薄い上着を膝へ載せた年配の客だった。足を前へ投げ出し、志津が通ろうとした所を塞いでいた。
「すみません」
志津は絵へ近づくため、反対側へ回った。男が、そこも、と言った。
何なのだろう。志津が顔を向けると、男は目を合わせず、展示用の壁の端を指した。灰色の布に、縦の皺が一本できていた。男は靴を引き、立ち上がった。
「離れて見た方がいい」
言い方が気になった。絵の見方まで決められる筋合いはない。志津は黙って頭を下げ、男が通り過ぎるのを待った。

女の手が、椅子の座面へ移っていた。
膝の上には何もなかった。右の肩が少し下がり、座ったまま体を横へずらそうとしている。志津は瞬きした。女の脱いだ靴下が、床に落ちた。茶色い絵の具の上を、小さな白い塊が滑り、椅子の脚の陰で止まった。

絵の表面には、乾いた筆の跡が見えていた。流し台の白い部分が、ところどころ盛り上がっている。女の肘がその前を横切っても、白い盛り上がりは削れなかった。肘が通った後には、同じ線が残っていた。
志津は奈緒を呼んだ。大きな声は出さなかった。妹にふざけていると思われるのも、知らない人に振り返られるのも嫌だった。

奈緒は隣の通路から顔を出した。
「そろそろ?」
「こっち来て」
女は椅子から立っていた。靴下を拾わず、流し台と壁の間へ入ろうとしていた。膝を曲げ、顔を腕で覆っている。逃げている、と志津は思った。こちらから見えるところを少しでも減らそうとしている。

奈緒は初め、額の横の説明板を見た。志津が絵を指すと、今度は女を見た。その目の前で、女の足が椅子を蹴った。椅子が横倒しになり、細い脚が絵の下の縁へぶつかった。
「動画?」
奈緒が額の裏を覗こうとした。
「触らない方が」
志津はそう言い、妹の袖へ手を出した。奈緒は自分で手を引いた。二人の後ろで、長椅子が石の床を擦った。

男はもういなかった。長椅子には誰も座っていなかった。
革の座面が、端から順に沈んでいた。一人が座った時の窪みより細い。膝をついて這っているように、右側が深くへこむと、少し離れた左側がへこんだ。その間、長椅子の脚が床を滑った。奈緒が志津の鞄をつかんだ。
「出よう」
志津は頷いた。女の絵は見なかった。

隣の通路へ回ると、青い服の少年が描かれていた。さっき奈緒が見ていた絵だった。少年は立っておらず、机の下で片膝をついていた。机の天板より顔を出さないようにして、志津たちの方を見ていた。
二人が通り過ぎる間に、少年は机の反対側へ這った。志津が足を止めると、少年も止まった。彼の視線は志津の顔より高かった。背後の上の方を、追っていた。

志津は振り返った。
灰色の壁の角が見えた。頭上に照明があり、その下には何もなかった。けれど壁の布が、向こうから押されるように膨らんでいた。肩幅よりも大きな丸い膨らみが、表から裏へ抜けるのではなく、角を曲がってこちら側へ移ってきた。そこに掛かった絵が持ち上がった。額の下端が、壁から離れていた。

奈緒が走り出した。志津もその後を追った。奥の部屋から最初の展示室へ抜ける入口は見えていた。奈緒はそこへ真っすぐ向かったが、急に肩を引いて止まった。志津は妹の背へぶつかりかけた。
「何かいる」
奈緒は右へ回ろうとして、また止まった。片手を前へ出し、すぐに引いた。
「こっちにも」
志津には空いた通路にしか見えなかった。自分も手を出しかけ、妹の手首が赤くなっているのを見て下ろした。

後ろで、額が床へ落ちた。
少年の絵だった。表を上にして、移動式の壁の足元に倒れている。落ちた弾みでガラスが割れたような音はしなかった。少年は机の下から這い出し、絵の上の方へ逃げていた。額は動いていないのに、その中の机だけが引きずられ、少年との間が開いていく。

「係の人」
奈緒が呼んだ。声は普通に部屋へ響いた。返事はなかった。入口の向こうで、二人連れが大きな絵の前に立っていた。その片方がこちらを見た。奈緒は手を振ったが、今は近づいてほしくないと思ったのか、手のひらを前へ向け直した。
「こっち来ないで。何か倒れてるから」
志津は妹の横顔を見た。何が倒れたかだけなら、ちゃんと人に伝えられる。そのことに、少しだけ足元が確かになった。

奈緒は足元の額を起こし、壁へ表を向けて立て掛けた。
「見たくない」
それから志津を見た。
「まだ見てるの?」
志津は答えられなかった。机の下を逃げる少年を、助けられるとは思っていない。ただ、何も見えない場所へ足を出す方が怖かった。
「どこにいるか、あれなら」
途中まで言うと、奈緒は首を振った。
「絵の中の人のこと、今はいい」

裏向きになった額が、壁へ一度ぶつかった。裏板の中央が丸く張り、留め金が一つ浮いた。奈緒は額から離れた。見えなくしたからといって、何も終わらなかった。
志津はポスターの女がいる側へ顔を向けた。移動式の壁の下には隙間があり、その向こうに椅子の脚が見えた。床に固定されている壁ではない。下の小さな車輪が、ゆっくり回っていた。

女の絵を掛けた壁が、通路へ寄ってきた。
片側だけが押され、斜めになっている。壁の向こうに人の足はなかった。絵は掛かったままだったが、女は台所の隅で両手を突っ張り、こちらを向いていた。目は志津たちを見ていなかった。志津のすぐ脇、壁と壁の狭い間を見ていた。

志津はその場所から離れた。直後に、石の床が鳴った。小さな音ではなかった。台車から重い物を落とした時のような響きが、靴底を通った。奈緒も膝を曲げた。何も落ちていない床の継ぎ目から、白い粉が噴いた。

入口まで真っすぐ行く道は塞がれている。けれど、女の絵を掛けた壁が動いたため、その後ろが広く開いていた。志津はそこを見た。最初の展示室へ抜ける、もう一つの通路へつながっていた。奈緒はまだ入口を見ていた。
「こっちから回れる」
「さっき、こっちにもいた」
「さっきの所じゃない」
志津は妹を引かなかった。自分が先に壁の後ろへ入り、足を一歩ずつ置いた。床には額も椅子もなかった。背後で奈緒の靴が鳴った。

角を曲がる前に、志津は女をもう一度見た。
女は流し台の下へ、頭を入れようとしていた。両手で顔を守り、脱いでいない方の靴下だけがこちらへ向いている。目を隠したために、どこを怖がっているのか分からなくなった。志津は立ち止まった。奈緒が横へ並んだ。
「お姉ちゃん、私を見るか、歩くかにして」
志津は妹の顔を見た。奈緒は唇を噛み、そのまま角の向こうへ足を出した。

何も起こらなかった。
奈緒は三歩ほど先へ進み、振り返った。早く、と口だけで言った。志津は絵から離れた。女の目が見える位置へ戻りたくなったが、奈緒の靴音を追った。
入口の向こうの二人連れが、こちらを覗いていた。奈緒がもう一度、入らないで、と言った。今度は止まらずに通り抜けた。志津も続いた。背後で移動式の壁が回り、青い服の少年の絵の裏側が一瞬見えた。裏板は膨らんだままで、その前を、床の白い粉が細く押し分けられていった。

奈緒は最初の部屋を横切り、玄関へ向かった。出口を探している客に、奥には入らないで、ともう一度伝えた。志津は続こうとして、廊下に貼られたポスターの前で止まった。

「お姉ちゃん」
奈緒が振り返った。志津は、先に行って、と言いかけたが、声を出さなかった。妹はガラスの扉を押した。取っ手から手を離さず、志津が歩き出すのを見ていた。

女は正面を向いていた。
印刷された女は、膝に両手を置いていた。椅子の横木には靴下が掛かり、流し台に鍋が伏せてある。志津は近づかなかった。表面の光沢に、ガラスの扉と、その外にいる奈緒が映っていた。妹がこちらを向くと、ポスターの女の肩にも、妹の顔の色が重なった。

志津は印刷された女の指を数えかけた。全部、膝の上にある。次に動いたら、今度こそ、見間違いではないと言える気がした。
ガラスの扉が音を立てた。奈緒は取っ手を離し、外へ一歩進んでいた。志津には、妹の後ろ姿と、台所の女が両方見えた。

志津は外へ出た。奈緒は何も言わず、半券を二枚取り出した。
「これ、要る?」
志津は自分の分だけ受け取った。いつもなら鞄の内側へしまうのに、折って、ポケットへ入れた。
「ケーキ、別の所で食べよう」
奈緒は頷いた。志津より先に歩き出したが、石段の下で待っていた。

建物の中で、木の割れる音がした。志津は石段の上で止まった。奈緒は振り返らず、下から、どっち、と訊いた。
駅の方へ行くか、商店街へ回るかを訊いていた。志津は入口を見ずに、栗のケーキのある店を知らないかと答えた。奈緒が、あるよ、と歩き出したので、志津は段を下りた。背中の方で何かが床を擦り始めた。妹は歩幅を広げた。志津も同じ速さにした。

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