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大西さんの眼鏡

出張先で一緒だった大西さんは、眼鏡を外すと人の顔が分からなかった。
仕事中は細かい字まで読んでいたから、私は気づかなかった。風呂へ行くと決めた時、先に入っていても手を振ってくれよと言われた。
「声で分かるでしょう」
「聞き間違えたら、知らないおっさんについていくことになる」
私はそれを冗談として聞いた。知らない人の方へ歩いていったら、呼び戻せば済むと思っていた。

取引先の都合で翌朝の作業がなくなり、私たちは一日早く帰れることになった。ただ、その日のうちにはもう飛行機に乗れなかった。駅前の宿を取り直そうとする私に、大西さんが山の温泉を勧めた。泊まってみたい所があるのだという。
私は少し迷った。宿代の上限を超えてしまう。大西さんは、超えた分は自分で払えばいいじゃないかと言った。私は一泊のために自腹を切る気になれなかったが、引継ぎで迷惑をかけたこともあり、付き合うことにした。

宿の車に迎えに来てもらい、山へ入った。玄関に着くころには暗くなっていた。
部屋へ案内してくれた女の人が、露天風呂は十時までだと教えてくれた。内風呂から外へ出る扉があり、そちらは時間になったら閉めるのだという。私は夕食の後に行くつもりだったが、大西さんは先に入りたがった。
「飯の時、眠くなりますよ」
「眠くなったら寝る。それでいいじゃない」
彼は浴衣を抱え、部屋を出ていった。私は会社へ連絡をしてから追った。

脱衣所には籠が八つ並び、二つに服が入っていた。眼鏡が裸のまま服の上へ置いてある籠を見つけた。大西さんのものだった。落としたら困ると思い、近くにあった小さな眼鏡置きへ移した。
内風呂には誰もいなかった。
外へ通じる戸に手をかけると、湯気がこちらへ流れ込んできた。細い屋根の下に通路があり、先に岩で囲った湯船があった。明かりは頭上の一つだけで、奥はよく見えない。柵の向こうから、水の流れる音がしていた。

大西さんは、遠い縁に両腕を載せていた。手を振ると、向こうも手を上げた。
「どうだ、いいだろ」
「暗くて、景色は分からないです」
「明日もう一回、来るんだよ」
ほかに客が一人いた。戸に近い側で、膝を抱えて座っている男だった。頭を下げていて顔は見えなかった。大西さんとの間を通る時、私は会釈した。返事はなかった。

湯船の中に段があり、そこで腰を下ろした。大西さんが、入口の足元に気をつけるよう言った。入って来る時に踏み外しかけ、近くの人に腕をつかんでもらったらしい。
あの人ですか、と小声で訊いた。
大西さんは私の見た方を向き、うん、と答えた。
「礼を言っても、聞こえないみたいでね」
男は膝を抱えたままだった。肩まで湯につかっている。水面に近い所に、黒い筋が一本、ずっと続いていた。最初は手拭いを縁へ広げているのだと思った。

しばらく仕事の話をした。せっかく早く終わったのにやめましょうよと言ったのは私だが、言ってから、ほかの話題を探せなかった。
大西さんは奥さんとよく旅行をしていた。風呂の後で待ち合わせると、必ずどちらかが長湯をして待たせるのだという。それで最近は、相手を待たず、売店でも休憩所でも行きたい所へ行くことにしたらしい。
「今日は俺を待たなくていいからな」
私は、それなら先に言ってくださいよと笑った。追いかけて来たのは、待たせては悪いと思ったからだった。
「嫌になるだろ。会社の連中と来たら、俺だって会社の話をする」
「すいません」
「謝ることじゃない。明日は土産買って帰ろう」

湯が熱くなり、私は少し体を上げた。
その姿勢で、男の方がよく見えた。
黒い筋の下に、指が並んでいた。
長い手だった。男の膝の横から伸び、湯船の縁に沿っている。指の一本ずつが、私の腕ほどあった。白い爪が水の上へ出ていた。
男は、両腕で膝を抱えていた。その肩の後ろから、別の腕が伸びていた。
指が縁を離れ、一本ずつ湯の中へ沈んだ。爪が見えなくなる直前、根元にある小さな爪まで見えた。どの指にも、爪が二つずつあった。

私はすぐに腰を下ろした。
大西さんが、どうした、と訊いた。私は何でもないと答えた。
見間違いだと思いたかった。湯気と、暗い明かりのせいにしたかった。けれど、どの指も爪を横にして、順々に湯の中へ入っていった。波や影が手に見えたのではなかった。
大西さんは私を見ようとして、顔を前へ突き出した。
「のぼせたか」
私は、先に上がりますと言った。

戸まで行くには、男のそばを通らなければならなかった。
私は湯船の縁へ手を置き、できるだけ外側を歩いた。男の頭が、わずかに上がった。
膝を抱えていた両手は動かなかった。背中から伸びる腕も、奥の縁へ沿ったままだった。
それなのに、もう一本の腕がこちらへ伸びた。
肩甲骨の間に、人の手首ほどの細い付け根があった。腕はそこから出て、湯へ入る途中で太くなっていた。どれが右手でどれが左手なのか、分からなかった。
私は足を止めた。

何かが足首に触れた。
手だった。水の中から、私の踵へ指がかかった。
私は思わず、大西さんの名を呼んだ。
彼はすぐに立ち上がり、こちらへ来ようとした。私は来ないでくださいと叫んだ。自分の声が思ったより大きく、露天の囲いへ当たって戻ってきた。
男は頭を上げた。
男の目が開いた。どこを見ているのか分からなかった。膝を抱えていた手がほどけ、何も知らないように顔の前で水を掬った。

大西さんが湯をかき分けて来た。
「どうした」
言いながら、私の腕をつかんだ。私は足を振った。指が外れた。段に膝をぶつけたが、構わず縁を越えた。
大西さんも出てきた。
私を先に戸へ行かせ、自分は後からついてきた。戸を閉める直前、彼が一度だけ男の方を向いた。
「すみません。お騒がせしました」
その言い方が、会社で失敗した後輩をかばう時と同じだった。

脱衣所に戻ると、大西さんは自分の籠を探した。
眼鏡が見当たらず、服を一枚ずつ持ち上げていた。私は置き場を指さした。
「私が動かしました」
「そうか。踏んだのかと思った」
彼は眼鏡をかけ、膝から血を流している私を見た。
私は座り込み、見たことを話した。うまく順番に言えなかった。背中に腕があった、ひどく長い指があった、足をつかまれた。大西さんはタオルを私の膝へ当て、黙って聞いた。

宿の人に来てもらおう、と彼が言った。
私は頷いた。冗談だと思われるのが怖かったが、一人で露天へ戻る方がもっと怖かった。
大西さんは服を着ると、内風呂へ行こうとした。私は引き止めた。
「あの人、まだいるか見るだけだよ」
「行かないでください」
「ほかの客が入ったら困るだろう」
私は、その時初めて、自分が逃げた先のことを何も考えていないと気づいた。大西さんへ、せめて眼鏡を外して行ってくださいと言いかけた。口を開いたところで、そんなことを頼めるはずがないと思った。

結局、二人で受付へ行った。膝を擦りむいたことと、露天の客の様子がおかしいことを話した。
係の男性は救急箱を出してくれた。私が手当てを受けている間に、別の人が風呂を見に行った。
戻ってきて、今はどなたもいませんでしたと言った。脱衣所にも服はなかった。客の特徴を聞かれたが、私は髪の短い男だった、としか言えなかった。歳も顔も、上手に説明できない。気になった箇所を口にすれば、自分の説明全部が疑われる気がした。
大西さんは私の横で、聞いているだけだった。

夕食は部屋へ運んでもらった。
私はほとんど食べられなかったが、大西さんは普通に食べた。食べながら何度も、冷めるからと私に勧めた。あの男に入る時も出る時も助けられた、と彼は言った。
出る時も、という言葉に私は箸を止めた。
「私が声を出した時ですか」
「そう。足、滑ったんだろう。あの人が抱えてくれてたじゃないか」
違います、と私は言った。私の足をつかんでいたのは、あの男の手だと思う。離れたかったのだと説明した。

大西さんは、分からないなあ、と言った。
「手は見えてなかった。そんな細かいところまでは。でも、あの人の背中が、お前の腰の下へ入ってたよ」
私は膝に載せたタオルを握った。
男は、ずっと縁のそばへ座っていた。
こちらへ体を寄せてもいなかった。背中の上の方から腕が出て、水の中から手が出て、さらに背中が私の下へ入っていたという。
大西さんに、どこまでが同じ人に見えたのか聞こうとして、やめた。

その晩、大西さんは奥さんと電話をした。風呂で後輩が転んだんだ、と話していた。私は窓のそばで、宿の人に借りた氷を膝へ当てていた。
電話を切った後、大西さんが尋ねた。
「お前が見たのは、眼鏡をかけたら見えるものなのかな」
分かりません、と答えると、彼は、だよな、と小さく頷いた。
眼鏡を外し、畳んで枕元へ置いた。それからしばらく、目を細めながら、部屋の入口を見ていた。
私は寝たふりをすることができなかった。

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