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海までの片側通行

海へ抜けられますか、と軽自動車の女に聞かれた。

私は反射的に、抜けられますと答えた。片側交互通行の下り車線を受け持っていた。工事で狭くなった先を抜けられるかと聞かれたのだ。そう思って腕を上げると、女は頷き、窓を閉めた。助手席に釣りの竿が何本も立っていた。

そこから海までは、車で二時間ほどかかる。

定年を過ぎてから交通誘導の仕事を始めた。長く工場にいたので、外で立つのは案外気持ちよかった。冬になる前の国道で、山側の斜面を補修する夜勤だった。反対側の規制端までは八百メートルあり、途中に曲がり角が二つある。私と対になるのは荻野という若者で、昼は通信制の学校で勉強していた。

無線から彼の声がした。最後の車、通過。私は待っていた二台を出した。一台目は先ほどの軽自動車、二台目は荷台に木材を積んだトラックだった。軽自動車はゆっくり発進し、曲がり角の先で窓から手を上げた。私も小さく会釈した。

次の車が来るまでには時間があった。谷へ向かう風が冷たかった。作業員の重機の灯りは山側に見え、道の先は暗い。私は携帯を取り出しかけた。足元に白い細片が落ちていた。貝殻だった。靴で触ると割れた。トラックの荷から落ちたものかと思い、路肩へ寄せた。

荻野から、下りもうないですか、と聞かれた。二台行ったと答えると、木を積んだのだけ来ました、と言った。軽はまだ途中ではないか。私は無線を持ったまま曲がり角を見た。車の灯りはなかった。
「横道、入りましたかね」
荻野はそう言ったが、この区間には横道がない。地図でも現地でも確認していた。

現場責任者に知らせ、いったん両側を止めた。責任者が車で区間を走り、路肩まで見た。どこにもいないと無線で言った。すれ違う場所もなかったはずだ。私は車種と色、運転していた女のことを伝えた。責任者は、止めた車と通した車を勘違いしてないか、と聞いた。

再開の指示が出た。事故の痕跡はなく、止め続ける理由がなかった。私は自分の控えに軽自動車のことを書いた。海へ抜ける道と聞かれた話は書かなかった。言えば、自分が何を通したか分かっていないことになった。

午後十一時ごろ、同じ女が来た。

向こうから戻ってきたのではない。私の後ろから、最初と同じ車線を走ってきた。竿も同じ向きに積んであった。私は赤い棒を振り、窓へ近づいた。女は私を見ると、さっきのおじさん、と言った。
「通れました?」
「ええ。向こうに出ました」
「どこへ」
「海」

喉が詰まった。女の指はハンドルへ置かれ、少し濡れていた。窓の下には砂が付いていた。潮の匂いがする。彼女は私が困っているのを見て、道を間違えたかと聞いた。
「山の道ですよ。海は遠い」
私が言うと、女は前の方を指した。曲がり角の向こうに、月の照る水面が見えた。

道が下っているのではなかった。舗装の先端から、黒い水が平らに広がっていた。工事の灯りも見えない。私は顔を上げたまま後ずさった。女が窓の外へ身を寄せると、水面に人の頭が一つ動いた。車が進む前から、人がこちらへ歩いてきていた。

無線で荻野を呼んだ。彼はすぐに出た。工事も道も変わりないという。私は海が見えると伝えた。言葉にしたら声が裏返った。荻野は茶化さず、そちらの止まっている車は何台かと聞いた。一台、と答え、後ろを見た。
車列が続いていた。いつ来たのか分からない。ライトが、暗い林道の方まで並んでいた。

女が窓を開けたまま、まだですかと言った。私は返事をせず、棒を赤く点滅させた。後ろの車も、クラクションを鳴らさなかった。何台もの運転手が、同じように私の手を見ていた。

荻野が走ってきた。反対側は責任者が引き継いだのだという。彼は途中から立ち止まり、道の先を見た。
「見える?」
私が訊くと、見えます、と答えた。
「前から、こんなですか」
私は何時からか分からないと答えた。最初の車を通したときに、海を見ていなかった。

荻野は車列の横を歩いた。運転手の話を聞いて戻ってきた。皆、道の先へ行きたいだけだという。仕事や迎えがある。ここを通れると言われた人もいる。最初の女が、私の説明を聞いて海へ行ったのだと思った。
「おじさんは、ちゃんと通してくれたんですよ」
女は笑った。笑い方は普通だった。私が責められているのか、礼を言われているのか、分からなかった。

荻野は責任者へ電話した。無線ではなく携帯を使った。途中から海になっています、自分も見ました。電話を切った荻野は、責任者が工事側からこちらへ歩いてくると私へ伝えた。来られるのか、と私が聞くと、荻野は答えなかった。

私は誘導棒を下げた。疲れて腕が震えていた。海が少し遠くなった。道の曲がり角が戻りかけ、その手前で、水面にいる人の足が見えた。そこには普通の靴があった。靴の甲を波が越えていく。

棒を上げると、また足が見えなくなった。私は手首を固めた。荻野がその動きを見て、棒を貸してくださいと言った。彼が持つと、海は変わらなかった。私が女へ停止を知らせるため掌を向けたとき、さざ波がこちらへ寄った。
「その手です」
荻野は私の手を下げた。車のライトが一斉に弱くなった。

私は両手を脇へ挟んだ。女が窓から顔を出した。
「何で止めるの」
声が変わっていた。怒鳴ってはいなかったが、客を待たせる店員へ言うような声だった。私はすみませんと答えた。
「もう一度通して。帰りたいの」
「どこへ」
彼女は口を閉じた。少しして、帰るところ、と言った。

海の中の人が歩き続けていた。女が私へ近づくためドアを開けると、人もこちらへ来た。そこでは足元が見えず、胸から上だけが水面を移動していた。私は女へ戻ってと頼んだ。女が車へ戻ると、海の人も止まった。

荻野が横から、来た道を戻りましょう、と言った。女は振り返らない。私は後ろの車を回そうと考えた。少し先に車を寄せる空き地がある。いつもは業者の荷を置いている場所だった。荻野に場所を教え、そこへ一台ずつ誘導してもらうことにした。
「あなたがやって」
女が私へ言った。
私は動かなかった。
「最初に、行っていいって言ったでしょう」

路肩に背をつけた。手を出したら、普通に車が進むだろう。その先へ何があっても、帰りたいという人を止める資格があるか。私は女の顔を見ることができなかった。
荻野が私の前へ立ち、片手を上げた。最初の女へではなく、二台目の運転手へ、窓を開けるよう伝えていた。

二台目の男は首をひねりながら、車を少し後ろへ動かした。すると後ろの車も一台ずつ下がった。全員が同じものではないのだと、私はようやく思った。間違った道を選んだ人も、私の合図を待つほかない人もいた。荻野は一台ずつ話し、車の向きを変えさせた。

女だけが残った。彼女は窓を閉め、ハンドルを握った。私の方をもう見なかった。荻野がライトを向け、停止を示した。女はゆっくり車を動かした。
私は手を上げかけた。荻野が、僕に任せて、と言った。
女は道の先へ進んだ。車の灯りが水面へ細く伸び、曲がり角のある場所で、一つずつ消えた。

海の人は、まだこちらへ向いていた。顔は暗くて見えなかった。私は両手を握りしめた。波が下がり、靴の甲が出た。靴は私のものとよく似ていた。左右の足が、路肩で立っている私と同じ間隔に開いていた。

責任者がこちらへ歩いてきた。道の真ん中から、普通に現れた。海はなかった。荻野は肩を落とし、私の誘導棒を渡した。棒の持ち手には、彼の汗だけが付いていた。

翌日、軽自動車について報告した。車種と色は言えたが、番号を思い出せなかった。車列が何台あったかも曖昧だった。荻野も同じだった。記録には、通行者への案内に混乱があり、一時通行を停止した、と残った。私の名前もあった。それより正しい書き方を提案することはできなかった。

私はその現場を外れた。荻野とは別の工事で一度だけ会った。海のことは口にしなかったが、別れるとき、車を通す時は足を見て、と言われた。何の足かは聞かなかった。

今も仕事は続けている。昼の道路で、車がすべて通り過ぎたと思ったあと、運転席のない低さに人の顔が見えることがある。肩まで水へ浸かっている。私が腕を下げると、見えなくなる。

先日、何も来ない時間に同僚から休憩を促された。行くと答えたのに、足が動かなかった。道の向こうに、あの女が立っていた。竿を肩へ載せ、靴を両手に持っていた。
私は誘導棒を同僚に預けた。女はそれを見届けてから、裸足のまま、こちらへ歩き出した。

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