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母の耳たぶ

母の耳たぶに、小さな窓が開いていた。

最初に見つけたのは、私の妻だった。正月の集まりで隣に座り、母の左耳に付いたイヤリングが外れかけていると思ったらしい。妻は直してあげようとして手を伸ばした。
「触らないで」
母が強く言った。妻が引いた手を、今度は母が取った。

「ごめん。痛いところがあるの」
私は台所からそのやり取りを見ていた。年を取ると些細なことにも苛立つのだろうと、浅い考えで済ませた。帰りの車で、妻が言った。
「耳の中に、部屋が見えた」
私は聞き返した。
「穴が開いてたんじゃないの?」
「耳の穴じゃなくて、耳たぶ。左の下のところ」
妻は自分の耳を指で挟んだ。

「畳と、座布団。ほんの一瞬だったけど」
私は笑わなかった。妻は、見間違いかもしれない、と付け足した。

その月の終わり、私一人で母の家へ行った。修理を頼まれていた台所の棚を直すためだった。母は買い物から戻ったばかりで、耳に何も付けていなかった。左の耳たぶに、四角い傷があった。一辺が五ミリほど。赤くも腫れてもいない。皮膚が四角く抜け、その向こうが暗くなっていた。

私は椅子を近づけた。母は顔を背けた。
「見ないで」
「病院、行った?」
「病気じゃないのよ」
その答えが、私には怖かった。母は昔から、病院へ行くのを嫌がる人だった。だが病気ではないと決めつける時は、もっと軽く、平気よ、と言う。今回は言葉を選んでいた。

私は棚を直してから、居間へ座った。
「何かあったなら、聞くけど」
母はお茶を出した。それから、小さな赤い箱を持ってきた。中に、真珠のイヤリングが一組あった。父が若い頃に買ったものだという。私は見たことがなかった。母は飾り物をほとんど付けず、結婚指輪さえ引き出しへ仕舞っていた。

「最近、夢を見るの」
母は箱を膝へ置いた。夢の中では、私がまだ五歳だった。母は夕飯を作り、私は居間で積木をしている。父は仕事から戻らない。窓の外が暗くなり、母は何度も時計を見る。そこまでは、昔よくあった夜だった。
「違うのは、あんたが喋ること」
母は私を見た。

「今の声で喋るのよ」
五歳の身体で、四十三歳の私の声がする。夢の中の私は、母の知らない町や、会ったことのない人の話をした。会社の人間関係、妻との喧嘩、銀行の支払い。母は最初、面白がって聞いた。そのうち、夢で聞いたことを、起きてから思い出すようになった。

私が妻と喧嘩した日も知っていた。
「二月の旅行、やめたでしょう」
確かにやめた。母には話していなかった。妻の仕事が忙しくなり、私は予約を取り直すのを面倒がった。喧嘩はそれだけが理由ではなかった。
「何で知ってる」
母は、夢で、と答えた。

イヤリングを付けたまま居眠りした日から、夢を見始めたのだという。起きると、真珠の片方に細い傷が付いていた。

その夜、左の耳たぶが少し裂けた。次に眠った時、夢の中の私が、窓が開くようになったね、と言った。私は母の耳を見た。暗い四角の中に、確かに畳があった。小さな座布団の上へ、積木が散らばっていた。人影が一つ、横切った。私は顔を引いた。

「誰がいるの」
母は返事をしなかった。私はイヤリングを持ち上げた。傷のある真珠の表面に、細い線が入っていた。割れ目だと思ったが、線の中には黒い縁があった。小さな窓の枠のようだった。真珠を指で回すと、母が顔をしかめた。
「回さないで」
私は元へ戻した。

母の耳の奥で、座布団が動いた。何かがこちらを見た。子供の目だった。私に似ていた。似ているのに、私ではなかった。私は子供の頃、左目の横に小さな傷があった。転んで作ったものだ。母はよく、その傷を見ると痛かったね、と言った。

耳の中の子供にも、同じ傷があった。だが傷は、目の内側から開いていた。皮膚が裂け、その下にもう一つ、小さな目があった。私は箱の蓋を閉めた。母が両耳を押さえた。
「聞こえない」
私は慌てて箱を開けた。母は息を吐いた。声は聞こえていたらしい。私の声も、外を走る車の音も聞こえる。ただ、夢の部屋の音が急に消えたことに驚いたのだった。

そのことが分かって、私は腹が立った。
「聞こえなくていいだろ、そんなもの」
母は箱を私から取った。
「そんなものって、言わないで」
私は言い返さなかった。父が亡くなってから、母は一人で暮らしていた。私たちは月に一度くらい顔を出した。買い物や病院の送迎は頼まれればした。足りないことはないつもりでいた。

だが母は、私の今の生活を聞きたがった。私が話したのは、仕事は普通、身体も普通、来月は忙しい、ということばかりだった。夢の中の子供は、もっと詳しく話すのだろう。その話が、全部本当ならまだよかった。

帰宅すると、妻は黙って私の話を聞いた。私は、母へ全部話すわけにはいかない、と言った。妻との喧嘩も、金のことも、夫婦の中で済ませたい。妻はそれには頷いたが、母が知っていた旅行の件だけは気にしていた。
「その子が、本当のことを話すうちは、お義母さんも信じるよね」
私は、うん、と答えた。

「違うことを話し始めても、同じ声なら信じちゃうんじゃない」
妻はそう言って、私の携帯を卓の真ん中へ置いた。画面は暗く、まだ誰からも連絡は来ていなかった。

その晩、母から電話が来た。妻を大事にしなさい、と言った。私は驚いた。母は、夢の中の私が、別れたいと言っていたのだと話した。私はそんなことを考えていなかった。妻と顔を見合わせた。母は電話の向こうで泣いていた。私が否定しても、隠さなくていい、と繰り返した。

私は翌日、妻と母の家へ行った。母の右の耳たぶにも、窓が開いていた。そちらは、台所だった。若い母の後ろ姿が見えた。母は自分の耳の中にいる若い母の声を聞いていた。彼女が何を思っているか、起きている母へ教えてくれるのだという。

妻が、手鏡を借りた。母の右耳の横へ置くと、鏡には耳が映らなかった。髪と頬は映った。耳のあるはずのところには、真っ黒な四角があった。そこから、若い女の指が出ていた。指は母の頬を撫でた。母は目を閉じた。妻が鏡を離した。
「お義母さん、今日はうちへ来てください」
母は首を振った。

「ここにいないと、あの子が」
妻は遮らなかった。母が喋り終わるまで聞いた。夢の中の子供は、母が起きると寂しがる。部屋を出ると泣く。最近は、夢の台所にいる若い母を、母さんではないと言うようになった。本当の母さんは、そっちにいる。

そう言って、窓を指す。私は真珠の傷を見た。窓が開いたのではなかった。中のものが、外の母を見つけたのだと思った。妻が母の手を取った。
「寂しいのは、どっちですか」
母は妻を見た。私は、その聞き方を責めそうになった。だが母は怒らなかった。

長い間、手を握られたままでいた。
「私も」
ようやく、そう言った。

その夜、私たちは母の家に泊まった。イヤリングをどうすればいいか、誰も分からなかった。壊せば耳がどうなるか分からない。遠くへ捨てれば、離れた場所から母を呼ぶかもしれない。母は、夢の中へ持っていくと言った。
「もともと、あっちで私が付けてたものだから」
私は止めた。

母は初めて、はっきり私を見た。
「私が、返す」
母はイヤリングを耳へ付けた。私たちは布団の両側へ座った。眠るまで、母は私の子供の頃の話をした。私の覚えている話も、覚えていない話もあった。妻は相槌を打ち、私は途中で訂正するのをやめた。

母の呼吸がゆっくりになった。耳の窓に明かりが点いた。子供が近づいてきた。私は目を逸らした。見てしまえば、あれが自分に似ていることを、もう一度認めることになる。母の手が動いた。指先が布団を探った。私はそこへ手を置いた。

母は強く握った。耳の中から、私の声がした。お母さん、と呼んだ。その声を聞いた瞬間、私の喉も同じ形に動いた。私は口を押さえた。妻が私の肩を掴んだ。母の指が緩んだ。イヤリングの片方が布団へ落ちた。真珠が割れていた。中は空ではなかった。

薄い、白い耳が畳まれていた。もう片方も落ちた。そちらには、小さな手が入っていた。手は空中を掻き、私のほうへ向いた。妻が赤い箱を差し出した。私は二つを入れた。蓋を閉めると、母が目を開いた。
「返せた?」
私が聞くと、母は首を横に振った。

「置いてきた」
何を置いてきたのか、母は言わなかった。耳たぶの窓は閉じていた。薄い四角の痕だけが残った。

それから母は、昼間は私たちの家へ来るようになった。いつか一緒に暮らすかどうかは、まだ決めていない。母は一人の時間も欲しいと言い、妻も、それはそうですね、と答えた。赤い箱は母の家にある。中に何が入っているか、もう確かめていない。耳も手も、そのままではない気がする。

母は時々、左の耳たぶを指で押さえる。夢の中の台所から、若い女が呼ぶのだという。子供がいなくなった。どこへやったの。

母は、その声には返事をしない。

ただ、私が帰る時だけ、玄関まで出てくる。靴を履いた私の左目の横に指を当て、昔の傷を一度撫でてから、行ってらっしゃい、と言う。

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