閉園する幼稚園から、砂場の道具を好きに持って帰っていいと言われた。真理は小さなバケツを一つだけ選んだ。娘の紬は鍋も欲しいと言ったが、底に穴があった。真理が戻すと、穴があるほうがお湯が出るのに、と紬は不満そうに言った。
真理もその幼稚園を卒園していた。母になって娘を同じ園へ入れた時、担任だった小坂先生がまだ働いていることに驚いた。園が閉まると先生も引退する。真理は最後の片づけを手伝う名簿へ名前を書いた。仕事を半日休み、紬を連れて昼過ぎに来た。
園児はもう通っていなかった。紬は四月から別の園へ行くことが決まり、知らない子と会うのを嫌がっていた。今日は昔の遊び場で遊べると喜び、片づけてある道具を次々と出した。真理は邪魔になるからと言いかけた。小坂先生が、砂場だけならいいよ、と先に許した。
砂場には屋根があり、曇った午後でも少し暗かった。端の砂だけが湿っていた。紬が穴のある鍋を置いて砂を入れると、湯気が立った。息の白い日ではなかった。真理は近づき、鍋の底へ指を入れた。冷たい砂だった。上では白いものが細く揺れていた。
紬は長い枝で鍋をかき回した。卵焼き、と言った。鍋だからスープじゃないの、と真理が直すと、卵焼きのスープなの、と睨まれた。小坂先生が笑った。そういう日もあるね、と言った。その声のすぐあとで、真理の腹が大きく鳴った。
朝から食べていなかった。片づけの前に何か買うつもりが遅れ、娘へパンを食べさせただけだった。小坂先生がお茶を出してくれたので、真理は持っていた飴を舐めた。甘さが喉へ広がった瞬間、砂場から出汁の匂いがした。飴が急に気持ち悪くなり、紙へ出した。
紬が皿を差し出した。湿った砂を丸く盛り、上に黄色い葉を載せていた。はいどうぞ、と言われ、真理は口へ運ぶ真似をした。おいしい、と返すと紬は皿を取り戻した。「食べてない」。真理は、ほんとに食べたらお腹痛くなるよ、と言った。娘は頬を膨らませ、鍋へ向き直った。
砂場の低い縁に、小さな窪みがいくつもできていた。子供が座った尻の形だった。さっきは平らだったところに二つ、少し離れて一つ。湯気は窪みのあたりへ向かって流れていた。風は反対から吹いていた。真理は紬へ、こっちで作ろう、と明るいところを指した。
小坂先生が、そこでいいんじゃない、と言った。真理は少し苛立った。自分の子なのだから、と言いたくなった。先生はその顔を見て、片づけてくるね、と用具庫へ戻った。真理は申し訳なくなったが、謝る前に紬がもう一皿持ってきた。今度は煮物なのだという。
皿の砂から、熱い油と葱のような匂いがした。何の料理か分からなかった。砂の中に黒い粒があり、それを噛んでみたいと思った。昼食はあとでいいと何度も自分へ言ったが、いまは皿が娘の手にあることが我慢できなかった。早くこちらへ渡してほしかった。
彼女は皿を近づけ、匂いを確かめた。口の中に唾が溜まった。砂と分かっているのに、歯を入れれば柔らかく崩れるように思えた。紬は真理の顔を見ていた。食べて、とも何とも言わなかった。その目を見ながら、真理は指先で小さな塊をつまんだ。
小坂先生が真理の手を叩いた。砂が落ちた。先生は謝り、手を洗いましょう、と言った。声が固かった。真理は自分のやろうとしたことに驚き、紬の手を握って水道へ行った。娘の指はべたついていた。砂ではなく、油がついているようなぬるさだった。
水で洗うと紬は嫌がった。もう綺麗だよと言うのに、真理は指の間まで擦った。自分の腹がまた鳴った。膝に力が入らなくなり、水道の縁へ腰を預けた。紬は母の顔を見上げ、パン食べる、と聞いた。真理は持ってきた袋を探した。中には食べかけが半分残っていた。
パンを噛んでも、空腹は変わらなかった。甘い生地を飲みこむのが苦痛だった。砂場のほうでは鍋の蓋が鳴っていた。紬も小坂先生も水道にいる。真理が見に行こうとすると、先生が腕を押さえた。「あなた、小さい時も食べられなかったね」。真理は顔を向けた。
給食の話ではない、と先生は言った。ままごとの食事だった。真理は食べた真似ができなかったらしい。これは泥だからと真面目に説明し、ほかの子を怒らせた。先生は、真似だけでいいのよ、と言った。それでも顔が固くなるので、片づけの役に回した。真理には覚えがあった。
一人で皿を洗っていた。ほかの子は席へ座り、作った泥を渡し合っていた。真理は水道で砂を流し、綺麗になるところを見ていた。そのほうが好きだったと思っていた。遊びたくなかったわけではない。誰もいない家へ帰って母を待つとき、同じように皿を洗っていた。
迎えはいつも遅いほうだった。母が働く店の前を園のバスが通り、窓から手を振った。母はこちらを見なかった。店の人へ頭を下げていたのだと大人になってから分かったが、その時の真理には、自分だけを無視したように見えた。次の日も窓へ顔を寄せ、母が振り向くのを待った。
「私、あの遊び、嫌いだったんですか」
真理が聞くと、小坂先生は少し考えた。「片づけながら、よく見てたよ」。真理は先生の顔を見た。遊びたかったのかもしれない、と先生は今になって付け足した。覚えている大人がそばにいても、自分がどうしたかったかは、誰にも決めてもらえないのだと思った。
「残ったもの、捨ててくれたでしょう」
先生が言った。砂場の鍋がまた鳴った。真理は、一緒に来てください、と頼んだ。先生は紬のもう片方の手を取り、三人で戻った。皿が五つ並んでいた。どれにも同じ量の砂が盛られ、湯気が出ていた。紬が持ってきた皿は二つだったはずだった。
一番端の皿に、歯形がついていた。真理は紬の口元を見た。娘は首を振った。先生も何も言わない。砂場の屋根の下で、頬を膨らませたような暗がりが動いた。子供ほどの高さだったが、腰を曲げた大人にも見えた。真理は一瞬、自分より年上の誰かがそこにいると思った。
皿の砂へ、細い涎が落ちた。湯気がそこへ触れると、顔のような輪郭が浮いた。目は分からない。口が低いところにあり、砂を噛んでいた。噛むたびに、真理の歯の間がじゃりじゃりした。彼女は口を押さえた。何も食べていないのに、舌へ砂粒が溜まった。
小坂先生が鍋を持ち上げた。捨てるつもりだった。真理は止めた。先生は、こんなもの食べちゃいけない、と言った。紬はその声に驚いて泣き始めた。先生の手から鍋の砂がこぼれた。砂の落ちたところで、曲がった細い指が一度だけ開いた。
真理は紬を屋根の外へ連れ出した。帰ろうと言った。娘はバケツを持ち、すぐに立った。砂場の中で先生が膝をついた。鍋へ顔を近づけていた。真理が呼んでも顔を上げない。「片づけないと」と繰り返した。今まで何百回も言ってきた言葉なのだろう。
真理は紬を門のそばの椅子へ座らせ、自分の携帯を持たせた。ここで見ていて、と言った。走って砂場へ戻り、先生の肩を引いた。小坂先生は、食べられない子の分も、と言った。鍋を置いた指が砂の中へ沈んでいた。真理が手首をつかむと、先生は泣きそうな顔をした。
真理は鍋を引かなかった。持っていた皿へ、砂を少しずつ移した。食べきれない分を皿へ分けるつもりだった。紬が門から、まだあるよ、と言った。真理はもう一枚の皿を持った。鍋の砂は減ったが、皿の数は足りなかった。小坂先生が空の手のひらを差し出した。
二人の手へ、砂を平らに盛った。冷たいはずなのに熱く、指を閉じるとやけどしそうだった。真理は開いた手を胸の前へ保った。暗がりが目の前まで来た。息を吸う音がした。真理は手を引かなかったが、口も開けなかった。喉の奥で、子供のころと同じ、これは食べられない、という言葉がつかえた。
紬が来て、真理の手の上に空の椀を伏せた。「あとで食べるんだよ」。真理は娘を叱るために息を吸い、代わりに大きく咳をした。砂が口から出た。暗がりのほうでも、同じ咳がした。小坂先生の手が鍋から抜けた。三人で砂場の縁まで下がると、鍋の底の穴から湯気が地面へ流れた。
真理は紬の前へ座った。娘が皿を並べ、今度は何も載せずに渡した。真理はそれを両手で受け取り、空の縁へ口をつけた。口へ砂は入らなかった。紬が、熱いからゆっくり、と言った。真理は頷いた。美味しいとは言わず、息を吹き、少し待ってから、もうひと口の真似をした。
小坂先生も隣へ座り、空の皿を受け取った。砂場の内側では、皿に盛った砂の形がひとつずつ崩れた。誰かが上からつかんでいた。真理はそちらを見ず、紬が次の物を作るまで待った。娘は大人二人を相手に、何度も献立を変えた。夕方の光が屋根の下へ差しこむころ、鍋が冷たくなった。
道具は何も持ち帰らなかった。紬が選んだバケツも置いてきた。娘は文句を言わず、車へ乗るとすぐ眠った。小坂先生は最後の片づけを別の日に延ばした。園の人へどう説明したかは知らない。帰り際、彼女は真理へ、あの時も席を空ければよかった、と言った。真理は返事をするのに時間がかかった。
家に帰ると、紬が食卓の椅子を引いた。四月から使う名札を袋から出し、二つ折りにして立てた。ここがお母さんの席、ここが私、と決め始めた。真理は洗濯物を片づけかけ、隣へ座った。紬が新しい園でも一人で座ることになるのかと聞いた。まだ分からない、と真理は答えた。娘は名札を二人の間へ置き直した。
幼稚園のあった場所は、来年には別の建物になるらしい。砂場を撤去した日を真理は知らない。家で紬と遊んでいると、ときどき空の椀から白い息が上がる。真理は食べる真似をしてから、娘へ椀を返す。娘が食事を終えるまで席を立たない。椀は軽い日と重い日があり、重い日は、紬も両手で受け取る。


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